旗を分かつ者5
「ご苦労だったな」
一言のみ、感想は短かった。
ゼーヴィスの瞳が、心無しか潤んだ。
簡単ではあっても単純ではない、王太子なりの気持ちが込められた一声だった。
家族が居る平和な日常に、あるいは昔の宮廷には、もはや戻れないと覚悟している身に、労いの響きは心地よかった。
たとえ結果が利益を産んだとしても、彼の行動は国家への背反行為であり、厳罰に値する重罪と言わねばならない。
手柄を樹てて祖国に帰還したところで、宮廷に居場所は無い。妻子も既に居ない。
ジークシルトの理解を得る。それだけが、せめてもの報いになるだろう。
そして、今ゼーヴィスは、報われた。
「勿体無い御言葉、かたじけなく存じ奉ります」
「何が勿体無いものか。
わたしは本心から言っている」
ジークシルトは微笑した。
「そのような事情であれば、国へ帰るのも辛かろう。
どうだ。この際だ。
ブレステリス宮廷など見限って、このわたしに仕えぬか」
「ええっ」
破格な程の高い評価に、当人が心底から驚いた。
実に思い切った誘いと言ってよい。
あまりの予想外に、思わず王太子ともあろう貴人を凝視したまま体を強張らせた南隣の若い武人へ、見つめられた方は
「こう言っては何だがな。
わたしは、貴君の祖国をどうにも好かぬ。
貴君のような人材を、どうせ碌に活かせもしない。
断言してもよいわ。貴君こそが、あの宮廷には勿体無い」
莞爾として言葉を続けている。
「聞き苦しいか。許せ。
率直に言って、グライアスの方が、気骨ある点ではよほど買える。
東はな。女人ですら、人材と見れば登用するのだ。
その辺りは、我がエルンチェアも見習うべきであろうよ」
「女人を登用」
意外な話に目を瞠り、ついでに我に返った。慌てて目を伏せる。
ジークシルトはついに笑声を立てた。
「どうも、貴君は最初の折から同じ事の繰り返しだな。
おれを見つめ、非礼に気付いて目を伏せる。
そういう運の周りか」
「これはとんだ御無礼を、重ね重ね」
「構わん。
おれも、二人しかおらんのに形式張るのは面倒になってきた。
良い機会だ、要らん気遣いは横に措いて本音を話すがいい。
おれも同じようにさせて貰う」
「それはもう、御意のままに」
「話が逸れたな。ああ、そうだ、女人の話だった。
おれは、女の身で出征して来た剣士と戦った。感銘を受けたぞ。今もなかなかのものだと思っている。
一方で、ブレステリスはどうだ。
やたらと好戦的な割には、いざという時に日和見する。
あまり美しい姿とは思えんな」
「……は」
恥じ入るしかない。ゼーヴィスは何とも面映ゆそうに身じろぎした。強酒をすする。
ジークシルトも酒杯を傾けた。
「おれの本音だ。
それだけに、勿体無いと思う。
帰国後は不遇の身に落ちると判っている貴君を、あたら見送るのはな」
「そのように仰せを賜るとは、思ってもおりませんでした。殿下」
杯を持つ手が震える。
人のつながりとは、何と不思議なものか。
十年に渡って友誼を結んでも、とうとう分かり合えない仲もあれば、ほんの一刻の触れ合いで、相手に全幅の信頼を置く心境になれる仲もある。
およそ人生において、深く心を通じ合わせられる相手を得る。これに勝る喜びは多くはあるまい。
ゼーヴィスはそう思い
(おれは、宮廷での立身や多額の金銭を得るよりも、価値ある褒賞を得たのかもしれないな)
深い感動を胸中で味わっていた。
とはいえ
「では御言葉に甘えて」
とは言いかねる立場でもある。
両親、宮廷に残って論陣を張っているキルーツ剣爵を始めとして、祖国には、所縁ある人々が少ないながらも確かに存在しているのだ。
(ここまで買って下さるのなら、退転してしまおうか)
一瞬だけ、頭の片隅に誘惑がちらついたが、彼は押し殺した。
「それがしごとき木っ端者に、かかるご厚意を賜りましたこと、有難き幸せに存じます。
そのお誘い、身に余る光栄ながら、お受け申し上げ奉るはあたわず」
きっぱりと断ったのだった。
ジークシルトは、やや眉をひそめた。
「なぜだ」
「ブレステリスは我が祖国。見捨てるに忍びませぬ。
両親も妻子も、友も。更には、此度の件に賛同してくれた同志達も。居りまする。
彼らを見捨てて、己一人が良い目を見るなど、許されますまい」
「ふむ
好意を謝絶されて、当初不快げな表情を作ったジークシルトだったが、申し開きを聞くうちに、顔つきを和らげていった。
「貴君もなかなか律義者だな。
そうか、されば、無理強いはすまい。
だが、おれが貴君を高く評価している。その事は忘れるなよ。
事情なり考えなりが変わったら、いつなりともエルンチェアへ来い」
「寛大なる御言葉、深謝に堪えませぬ」
「この話はここまでにしておく。
疲れただろう。部屋を用意させてある。まずは体を休めるがいい」
面談の終わりを告げられ、ゼ―ヴィスは頷いた。
立ち上がり、辞去の礼を捧げると、ジークシルトは座ったまま若い武人の全身を眺め、最後に顔へ視線をやり
「それにしても、顔に似合わず大胆不敵な策をとるものだ。
全く、帰国させるのが惜しいぞ」
酒の残りを煽って、愉快気に笑った。
ゼーヴィスは軽く会釈した。
「恐れ入り奉ります、殿下」
「いや、参考になった。
ゼーヴィス・グランレオン・ロギーマある限り、ブレステリスは隅に置けぬ、とな」
塁陥落の立役者が席を立ち、執務室を退いたのと入れ替わりに、ダオカルヤンが姿を見せた。
「殿下。
捕虜の引見は如何あそばされますか」
「――ああ。捕虜か」
こちらについては、ジークシルトは、いかにも気が乗らなさそうだった。
「明日にでも時間を割いておけ。
今日はまだやる事が多い」
「は。
御言葉ながら、殿下。
例の女人も、捕虜のなかにおりますぞ」
ダオカルヤンは、にやっと笑ってつけたした。
その途端、ジークシルトは興味を示した。
「なに、あの女。
ヴォルフローシュとかいう剣将がか。
誰だ、捕らえたのは」
「チェルマーにございまする」
近侍する旗本隊の一員であり、ダオカルヤンを主格とする若手剣士連で最も若い。
狙ったのではなく、偶然に戦場で見かけ交戦した結果だと、腹心は報告した。
マクダレアは乗り馬から転落し、兵士らに群がられて起き上がれず、地面に伏すという屈辱の姿勢を強いられた。
血が滲む程に唇を噛みしめた彼女へ、戦った剣士チェルマーが近寄った。
一人の女性へ、必要以上に大勢の兵士がよりたかっている光景を、彼は良しとしなかったらしく
「兵ども、離れよ。この大人数は何事だ。
捕虜を押し潰す気か」
厳しく叱って散らせた。残ったのは二人である。
敵兵士に両脇を抱えられる恰好で、マクダレアはやっと立ち上がった。
「わたしは、貴軍捕虜となる事を拒否します。
早々に首を刎ねるがよろしかろう」
「――降伏はせぬ、と申されるか」
チェルマーは素直な人となりと見えて、女性剣士の潔さに感銘を受けた様子を隠さなかった。
マクダレアはそっけなく頷いた。
「命乞いなど」
しかし、この時の彼女に、内心で葛藤が無かったかどうか。
結局、交戦した当人は、この時代の慣例である「捕虜の生殺与奪は捕らえた者の権利」に倣おうとはしなかった。
兵士に合図して捕縛させ、後方へ送るよう申しつけたのである。
「貴官は、先に我がジークシルト殿下と剣を交えておられる。
貴官の処遇は、殿下の御裁断を仰ぐのが筋であろう」
というのが、チェルマーの言い分であった。
マクダレアは縄を受け、兵士二名に引きたてられて戦場を離れた。
「お会いになりませぬか」
簡単な経緯を語り終えたダオカルヤンは、しきりと勧めた。何やら、興味があるらしい。
普段のジークシルトなら、文句の一つも言うところだろう。
が、あの女ことマクダレア・ジーン・ヴォルフローシュに対しては、そういう心境にはならなかったと見える。
「良かろう。会う」
王太子は、前言を翻した。