富国、南方に在りて3
問題の王后は当年二十九歳。非常に際どい年齢にある上、当一門の出ではない。
それどころか、実家はある事情を巡って当家と対立し、今も続く。はっきり政敵と言える。
老チュリウスが言うところの「きゃつら」と縁ある女性なのだった。
王后懐妊の報が、恐るべき重大事であるとの見解の根拠がここにある。
「王后に子が出来たとは、おそらく虚報であろう。
あの不細工な女を相手に、美女に目のない陛下が、今更ながら閨房で睦み合う気を起こされるとは、とても思えぬでな。
だが、虚実は問題ではない。
きゃつらは、ランスフリート追い落としを謀っておるに相違なく、ある程度の算段も既に整えておるのであろう。
この懐妊騒動は、全ての総仕上げといった意味を持っておろうよ」
「確かに。
国王陛下の御子にあられる男子は、後は御一名のみ。
未だ乳児とは申せ、もし唯一の成人男子が王位を襲い奉るはあたわずとなれば」
「まったくだ。思うだに腹立たしい。
かかる大事の時期に、あれときたら」
声を荒げ、何度も手のひらを握っては開く長老だった。
その見立て通りであれば、政敵は、ランスフリートにとって異母弟にあたる当年一歳の乳児を冊立するべく、手をまわしているに違いなかった。
年が改まるまで、何としても失脚を回避しなければならない。事態は、一個人の浮沈の域を超えている。
やがて、一連の動作は落ち着いた。
「ダディストリガ。
全力を挙げて、あやつと件の尼僧の手を切らせよ。
もはや、あの不覚な放蕩者が、自力で目を覚ます日を漫然と待っておれる時のゆとりは無い。
必ずだぞ。我が一門の未来に関わる大事と心得て、必ず、かの娘を遠ざけるのだ」
「はっ」
「よいか。
手段を選ぶ必要は無い」
命令が発せられる。
ダディストリガも即座には首肯しかねた、その内容は――暗殺を示唆するものであった。
ティプテ・ワルドの。
南刻の六課とは、密謀をこらすのに余程適した時刻と見える。
ほぼ同時刻。
薄暗い空間の中で、二人の男性が鼻先を突き合わせていた。
「あの不快な連中め、さぞ慌てておろうな。良い気味だ」
やや肥満の傾向が見受けられる方が、酒杯を傾けつつ嘲笑を浮かべた。向かい合う痩せぎみで顔色が青白い方は頷き
「して、兄上。まことでございますか。
我が姪が、いえ王后陛下が御懐妊あそばしたとは」
探るような目つきで問いかけた。
兄はつらりとして
「さてな」
とぼけた顔を作った。
「我が娘とはいえ、貴婦人に臆面もなく尋ねるは不埒の極みと申すものであろうよ、そのような問いは。
なに、十月程も待てば判る」
「それはお言葉の通りと存じますが、わたくしにとりましても、憚りながら姪の慶賀事。
真実を知る権利はあろうかと存じます」
弟は丁重に、だが兄の韜晦を認める積もりは毛ほども無い様子で、問い返した。
「さらには、我が一門の未来にも関わる重大事でございますれば、どうぞわたくしをお信じあって、真実をご披瀝下さいませ」
「何も、おぬしを信じておらぬわけではないのだ。
実弟にして、王国を食いむしる毒虫どもの駆除を志す同志。
信じぬでどうするか」
「そのように思し召しでおられるのなら」
「なぜ、知りたがるのだ。
無用の事ではないか。
重要なのは、あの毒虫どもを王国の庭より追い払う算段が整ったかどうかだ。
で、首尾はどうなのだ。確認は終えたのか」
「は。本日、報告が参りましてございます」
兄に強く言われたので、盾爵は止む無く引き下がった。確かに今は、より重要な話をするべき時にある。
彼は一枚の封筒を懐より取り出した。かなり厳重に、蝋で封印されている。
「詳細はこちらに」
ややためらいがちに、対面相手に封書を手渡す。あまり血色の良くない顔が、心持ち赤い。
「やはり、事実でございました――そのう、まことに不面目ながら」
「よい。
毒虫駆除に役立て得るのなら、少々の不面目など、この際は恥とするに足らぬ。
これで、完璧だな。
見ておるがよい。あの死にぞこないの老人め」
封書を手にしつつ、剣爵は呻いた。
レオス人特有の緑の瞳には、凄まじいまでの憎悪の光が宿っていた。
「何が最大門閥ぞ。
たまたま幾人か美女を輩出して、歴代陛下より思し召しを賜っただけの幸運を、まるで天命を蒙ったかの如く心得違い致しおって。
我らこそ、きゃつらの悪行に正義の鉄槌を下すべく、神の御意を賜っておる事を知るがよい」
「仰る通りですな」
兄の熱弁に、弟はあまり本気で和しているようではなかった。
が、一方は気が昂ぶっているのか、長広舌を聞かされた方が面倒くさそうに同意した様子には、注意を向けていなかった。
「件の話が事実であると知れたのは、まさに天意であろう。
いよいよ、あの毒虫一族が滅ぶ日が来るのだ。
痛快である」
「兄上は、余程きゃつらを憎んでおられるご様子ですな。
むろん、わたくしもきゃつらの専横には、かねがね不快の念を禁じ得ずにおりましたが」
少し冷笑が混じった言いようだった。
今度はそうと気づいたらしく、兄は興を冷まされたように、やや白けた表情になった。
「わたしが私憤のみで動いているように言うな。
これは義憤である」
「失礼致しました」
弟はすぐ謝ったが、男は催した不快をすぐには解消出来なかったらしい。冷たい目になっている。
しばらく無言が続いた。
彼ら兄弟は、姓をバースエルムという。
当国宮廷において絶大な権勢を誇る一族とは、長く敵対関係にある。
特に兄は、当代国王の岳父ともあろう立場にありながら、実権とはほぼ無縁だった。
位階序列についても、満足には程遠い。
大陸における貴族の爵位は原則で五段階、上から順に珠爵・冠爵・剣爵・盾爵・杖爵である。
王后を輩出した家であれば、冠爵叙位が妥当なところを、長らく剣爵に封じられたままだ。放置されている観すらある。
当人に言わせれば
「宮廷内の序列が恣意に捻じ曲げられている。
断じてあってはならぬ事」
が起きているのだ。ならば、是正すべきではないか。
最大門閥打倒の重大事に思いが至ったのか、兄剣爵は表情を改めた。笑顔までは作らなかったが、不愉快げな様子はとりあえず引っ込めた。
「……ところで、覚えておるか。
あの不愉快な老人を、二度に渡って出し抜いてやった時の事を」
「ええ、覚えておりますとも。
あれこそは、痛快事でありましたな」
弟も、話題を逸らした兄の手に敢えて乗った。
「あの老人めも、あそこまで事を詰めておきながら我らにひっくり返されるとは、夢にも思っておらなんだでしょうな」
「子まで孕んでおりながらな」
両者は同時に含み笑いを漏らし、無事に仲違いの危機を乗り越えた。
「今宵は切り札が手に入った。まずは上出来だ。
せいぜい有効に使うとしよう」
封書をしまい込んだ懐に手をやりながら、バースエルム家の当主は言った。
憎悪を込めて。
朝もやが周囲をしめやかに濡らしながら、ゆるゆる流れてゆく。
西からは鐘の鳴る音が聞こえてくる。長めに二回、短めに一回。
南刻の一課(午前六時)の到来を告げる打ち方である。夜が明けたのだ。
ランスフリートは、一人で東屋の椅子に腰掛けていた。ティプテの姿は無い。
もっとも、彼女が去ったのはつい半刻前の事で、結局は二人で夜明かししてしまったのである。
いかに南国であれ、季節は晩秋、野宿するには時期的に問題がありすぎるであろう。
(いかん、風邪でもひいたかな)
鼻の奥がぐずつくのを、ランスフリートは実感した。それだけではなく、頭がぼんやりとして腰を上げる気力も湧いてこない。
昨夜一晩で会えなかった一月分の穴埋めをしたしっぺ返しが、深刻な疲労感と睡眠不足の形になって襲いかかってきている。
眠れなかった理由は、恋人と久しぶりの逢瀬を楽しんだ興奮ばかりではない。
何度となく、彼を呼ばわる声が近寄って来て、二人はその度に身を隠さねばならなかったのである。
地面に伏せたり、東屋を飛び出して庭園の草むらに潜んだりと、たいそう多忙であった。
探す方も、祖父に厳命されていると見えて、執拗に東屋の周辺を巡回しており、慌しい雰囲気はしばらく続いた。
当人の感覚によれば、二刻ばかりは煩わされたものである。
月の位置が南から西へかなり移動した頃、ようやく呼ぶ声は止んだ。
城内で大きな騒ぎが起きる事を、体面を重視する祖父が嫌ったせいと思われた。
それを機に帰ろうとは思わず、むしろ悠々と恋人との時間を再開して、今に至る。
(やれやれ、体中が痛いな)
気楽に伸びをした時。
急に気配が立った。周辺には誰もいないと思い込んでいたが、そうでもなかったらしい。
耳を済ませると、かすかに靴音がした。
(庭師か)
徐々にはっきりしてくる。誰かがこちらに向かって歩いて来ているのだ。
(違うな。これは)