第15景 「箱入りの少女たち」
……全身がふわふわと軽くてぽかぽかと暖かい。
良く晴れた日に草原の上で寝転がっているような気分だった。そんな気分だというだけで、良く晴れた日に草原の上に寝転がった経験は一度もなかったと思う。
でも良く晴れてない日に砂浜の上に寝転がったことはあった。あれは波の音が心地好くて、うとうとと眠ってしまうのだ。波際に近かったりしたら溺れながらに目を覚ましたことだろう。
……息苦しい。
まるでシュノーケルを咥えながら大きな海に飲まれて溺れているかのようだ。
「……がはッ! っっんく……げほッ、げほッ!!」
目を開くと、ぼやけた視界に女性の顔が衝突間近の距離にあるのを確認した。
「ああ、良かったぁ。もう大丈夫ですからね」
柔らかでゆっくりとした声がボクを安心させる。
「ハルカ…さん……?」
「いいえ、私はナナミですよ」
女性の顔が遠ざかるのと同時に、ボクは勢い良く体を起こした。
ここはナナミさんの家で、ボクが使わせてもらっていた部屋だ。
「あら、おはよう」
頭の耳をピンと立て、赤い目を光らせたミリアさんが冷めた声で言う。
「ぅぐっ、シロちゃん……もうだいじょぶなの……?」
髪の毛を濡らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたアヤノちゃんが言う。
「しろがねさん、お体の具合はいかがですか? 手と足の方はミリアちゃんが治してくれたんです。飲み薬は私がいま飲ませたところなので、じきにだるさはなくなると思います」
ナナミさんの口元が濡れている。髪の毛もアヤノちゃんと同じく濡れていた。
ボクの髪も濡れていて、服は……着ていない!? 毛布の下はショーツ一枚だけだった。
そして思い出した。ボクはペンダントを取るために崖から落ちて、捕食されかけ、瀕死の重傷を負いながら雨に打たれていたのだ。でも今は、手も足もちゃんと付いているし、傷一つない。
「ああっ! ペンダントが……っ!?」
周囲をぐるりと見渡すと、ミリアさんが手を掲げた。
「あなたが探していた物ってコレのことなのね。はい、どうぞ」
ミリアさんの頭の耳が収まり、ペンダントがボクに渡される。
ボクはそれを素肌に抱いて、安堵の溜息を一つ吐いた。
「見つかって良かったですね」
ナナミさんは自分のことのように目を細めて喜んでくれた。
「そういえばボクって、どうして帰ってこられたんでしょう?」
「ナナミさんがあなたを見付けて家まで連れてきてくれたのよ」
ナナミさんは一瞬戸惑った顔を見せてから少し照れたようにピースをした。
「そうでしたか……。ご迷惑を……おかけしました」
「迷惑だなんて。しろがねさんが無事で良かったですよー」
「あなたねぇ、こういう時は『ありがとうございました』って可愛らしく言いなさいよ。陰気な顔されたって嬉しくないでしょ。まあ確かに、高価な材料使って面倒な薬作る羽目になったし、アヤノも飛び出すわ、泣き喚くわで多大なる迷惑が掛かってるけどね」
「すみません……」
「もぉ、ミリアちゃんったら。しろがねさん、気にしなくていいんですからね」
出て行った動機がアレなだけに申し訳ない気持ちで気にしまくりだった。
アヤノちゃんはボクの布団の隅にちょこんと乗って、涙を浮かべながら黙ってボクの様子を窺っている。
「アヤノちゃんもボクを探しに来てくれたんだね。ありがとう」
自分なりに不器用な笑顔を作って言うと、アヤノちゃんは口を尖らせてボロボロと涙を零し始めた。それを見てナナミさんはアヤノちゃんの頭を優しく抱える。
「あなたがあまりにも酷いスプラッタだったからアヤノもびっくりしたのよ。ワタシは家で留守番していたけど、最初にあなたを見たときは『シロ』から『アカ』とか『ボロ』へ改名してあげようかと思ったくらい」
酷い冗談だがそれほど酷かったのは確かである。
「しろがねさん、もう体がだるいとかはないですか?」
「ない……ですね。むしろ疲れもなくて、すこぶる調子が良いです」
大量の血液を失ったというのに。おそるべしミリアム印の薬品だ。
「それじゃあ髪も濡れたままですし、みんなでお風呂に入りましょうか」
ナナミさんはパチンと手を叩いて提案した。
「ワタシは濡れてないし遠慮させてもらいます」
ミリアさんだけは唯一髪の毛が濡れていない。そしてボクは唯一ミリアさんの裸を拝んだことがなかった。
「だーめ。今日はみんなで一緒に入ります。お風呂から上がったらお鍋にしましょう」
「むぅ……」
ナナミさんに一喝されたミリアさんは子供のようにシュンとした。ボクやアヤノちゃんやリリットさんに偉そうにしてるミリアさんも、ナナミさんだけには頭が上がらない。
▲ ■ ▼
ボクとアヤノちゃんは一足先に温泉なお風呂へ入った。
雨は上がり、外の空気は少し冷たくてピンとしている。その分だけ余計にお湯の温かさが心地好かった。
ミリアさんはボクらよりも遅れてナナミさんと共にやってきた。ナナミさんは相変わらず美しいスタイルをしているが、ミリアさんも巻かれたタオル越しにも溢れんばかりの豊満な肉体が魅惑的である。でも何やら機嫌が悪そうだ。
「……シロ、言っとくけどね、笑ったりしたら本気で怒るわよ?」
遠い位置から言うミリアさんはすでに怒っている。
「何をですか?」
ミリアさんは口を横に結び、湯に入ってもいないのに顔がほのかに赤い。
そんなミリアさんの元へアヤノちゃんが走って行った。
「シロちゃん見てよ、見て見てーっ!」
「ちょ、引っ張らないでよ!」
アヤノちゃんがミリアさんのタオルを引っ張り豊かな胸が零れ落ちる。
「えいっ」
ナナミさんもアヤノちゃんの真似をしてミリアさんのタオルを引っ張った。
「ゃん、もぉーっ、わかったからッ!」
石畳の上にペタリと座り込んだミリアさんは、綺麗で大きな胸を隠すでもなく、両手でお尻の方を隠していた。
そして、そのお尻からは何かふわりとした物が見え隠れしている。
「あ、しっぽ……」
慌てふためくミリアさんの頭から再び耳が飛び出してるのも見てすぐに分かった。
「……なによ。わるい?」
女の子みたいに座るミリアさんは両手を後ろ手にしたままギロリとボクを睨み付ける。
「い、いえっ、しっぽに罪はありません。とっても、かわいいと、思います……」
「むぅ……」
大きく溜息を吐いたミリアさんはヤレヤレと立ち上がり、ボクのすぐ横に浸かった。
「コレも耳と一緒でさ、副作用の一つなんだけどね、どういうわけか全裸になると出てきちゃうことあるのよね。獣みたいで恥ずかしいからあまり見られたくないわ」
むすっとしたミリアさんの真横にいるボクはマジマジと見てしまう。中型犬か狐ほどの立派なふさふさ尻尾だった。
「しろがねさんもミリアちゃんの隠し事を知ってしまいました♪」
意地悪っぽく言うナナミさんはなんだか嬉しそうだ。
「尻尾はあっても、この町ではシロに次いで人間に近いのがワタシだわよ。ご希望ならばあなたにも付けてあげる」
「ほんとうですか?」
「冗談に決まっているでしょう……。尻尾なんかあってもいいこと何一つないわよ」
『ボクに近いのがミリアさんだ』って部分を言ったつもりだが。
ナナミさんは湯船に入らないままアヤノちゃんを捕まえて洗い始めた。
「アヤノちゃんってお風呂に入ってるときも輪っかを付けてるんですね」
普段アヤノちゃんの髪の毛をサイドに結っているリングは、お風呂に入るときは手首に付けられている。髪を結うにもブレスレットにもぴったりな可変式のリング状アクセサリだ。
「外してふらふらしてたらゲンコツって言ってあるからね」
ミリアさんは両腕をお風呂の縁に掛けて、大きなお胸を湯面に浮かせていた。
「随分とスパルタな教育なんですね……」
「だってあの子、すぐに行方不明になるんだもの。だから信号出してるイヤリングを外さないための安全装置が、今はブレスレット状になっているあの輪っかなの」
「もしかして、ボクにくれたイヤリングも、トランスポンダみたいに信号を出してるんですか?」
「そーよ。明日以降に迎えに行ってあげようと思ってたのに、あなた、耳から外しちゃったから信号途絶えるし。それですぐにナナミさんが消えて、続けてアヤノも飛び出したわ」
ボクがイヤリングを外してスーツのポーチに仕舞ったせいで、危険動物避けの機能が止まり、信号も途絶えたのだろう。それにしても、迷子防止機能まで内蔵されていたなんて。流石に思考読み取り機能は付いてないよね……。
ミリアさんの猫耳と尻尾をもふもふ弄って、ミリアさんが涙を浮かべながら停止を懇願する姿を想像してみた。
「……あなた、そんなに尻尾がほしいの?」
「ぃや、えへへ……」
思考は読まれてないらしく、かわいく涙を浮かべるどころか、ジトリと呆れたような目を向けられた。
「しかし酷い有様だったわよ、あなた。ボロぞうきんとはまさにこのことだと思ったわ。完全に死んでいたら流石のワタシでも助けてあげられないんだからね」
「すみ……ありがとうございました」
すみませんでしたを言いかけて止めて、頭を下げてお礼を言った。
「で、あなたの行く先は決まったのかしら? 出て行くつもりだったのでしょう?」
「ぅ……」
バレバレだった。
「昨日からずっと変だったし、手紙はナナミさんに見られる前に焼いておいたわ。あの人があの手紙を読んだら悲しむわよ。きっとね」
あまりにも自分を卑下し彼女達を羨む内容だったので、ナナミさんに見られなくて本当に良かったと思う。
向こうで楽しそうに洗いっこするナナミさんとアヤノちゃんを眺め、ミリアさんは豊かな胸を突き出し、腕を掲げて大きく伸びをした。
「以前にワタシがこの町に来たときの話をしたわよね?」
「ナナミさんと相まみえたところまで聞きましたね」
「そう。じゃあその続き」
“その続き”よりも前に、ボクは自分の薄い胸と見比べて、ミリアさんの大きな胸の浮力に興味が向いていた。上から押さえ付けたらどの程度反作用があるのだろうかと。
「腕試しをしたくて七鈴町へ潜り込んだワタシだけれど、運が良いのか悪いのか、最初にナナミさんと出会ってしまったの。妙に落ち着いてるし、闇の淵を覗いているような底知れぬ何かを感じたのだけど、見た目が可愛らしい女の子だったから『この辺に力の強い者はいないか?』って訊いたのね」
ミリアさんと比べればナナミさんも幼く見える。そんなナナミさんが目を丸くして見上げて、両手を腰に当てて高慢に見下ろすミリアさんという二人の姿が容易に想像できた。優しいナナミさんに対し、なんて酷い態度のミリアさんだ。想像だけど。
「ワタシの問いに、ナナミさんが『どうするの?』って訊いてきたから、ワタシは『腕試しに戦う』と答えたの。そしたらほっぺたにパチンと手を当てられて『そんなことしちゃダメ』って大人が子供を叱るみたいに言われたわ」
「一見微笑ましくも見えますけど、なんというか、力量差を感じてしまいますね……」
背も高く胸も大きく、赤い目と輝く金髪に、派手な服装と装飾に、偉そうな態度と言葉遣いをする相手に対し、容易に間合いに入って顔をはたくなど並の人間にはできない。
「そうなのよ。成す術もなくゼロ距離になってしまったから、咄嗟に論理攻撃を放ったのだけど全部跳ね返されてね、ワタシは無様に鼻血を吹き出してその場で気絶」
「論理攻撃ってなんですか?」
「難しいことを言われたり、解決困難な問題を提示されたら頭が混乱するでしょう? それの数万倍酷いバージョンが魔法力を伴った論理攻撃。半強制的に処理を要求されて、コンマ何秒で精神やそれよりもっと深い部分が壊れてしまうものね。頭の良い人ほど効果があるわ。でもそれが全部跳ね返されると出力と同容量の入力を同時に処理する羽目になるから、キャパオーバーになったワタシはハングアップしちゃったというわけ」
コンピュータのハッキング対決みたいだ。
「目を覚ますとね、ナナミさんに膝枕をされていたの。これはもう敵わないなと悟ったワタシは『好きにしていい。殺したければ殺せ』と冗談交じりなセリフで諦観を表したのよ」
昔の映画や小説でよくみる決まり文句だ。
「そしたらナナミさんが、この世の者とは思えない怖い目をして言ってくるのよ。『私は死にたい者を助けない』ってワタシの眉間に人差し指を当てながら。続けて『生きたいですか?』と問われて、ワタシは素になって『生きたいです』って答えてしまったの」
「ナナミさんがそんなセリフを吐くなんて……ボクには想像できませんね」
「本人はワタシの冗談に対して冗談で返したと言ってたけどね。真意はともかく、それがある意味ワタシとナナミさんの契約になって、町作りや喫茶店の手伝い――というか、家計の手助け――というか、家計の大半をワタシが担いつつ一緒に暮らしてるというわけ」
これで、ミリアさんとリリットさんの出会い、ミリアさんとアヤノちゃんの出会い、そしてミリアさんとナナミさんの出会いを聞いたことになる。どれも感動的なシーンはなく、行き当たりばったりで流れに身を任せて一緒に暮らしているのが分かった。
「ミリアさんは外へ帰りたいと思わなかったんですか?」
「帰りたいって気持ちはないけど、出てみようと思ったことはあったわね。七鈴町に入ってきた時のようにリリットのドラゴンが運ぶコンテナに忍び込んでみたら、どういうわけか飛んでくれなくてさ。魔法を駆使しても無理だったわね」
「陽花様に言っても無理なんでしょうか」
「あの人に頼み事すると変な要求してくるから厭だわ」
「変な要求?」
「魔女の唾液で満たされたお風呂に入りたい、とか」
「うわぁ……」
ヘンタイだった。ボクが陽花様に頼み事をした際も変な要求をされるのだろうか……。
「まあなんとなくだけど、ワタシ含めてアヤノやあなたも、その他大勢ここに住む人々も、必然的に集められた気がするわ。目的がなんなのか知らないけれど」
「そういえば、ナナミさんがここに住む人達を『籠の中の鳥』と表現してました」
「籠の中の鳥ねぇ……。そうね、箱入りの少女とでも言ってもらいたいわね」
「少女……」
アヤノちゃん、とえなさん、リリットさん、マツリさん、フェリさん、そしてナナミさんまでなら少女に見える。けれど、陽花様、ミリアさんあたりは見た目も中身も少女と呼ぶには色々と凶悪な気がするのは気のせいだろうか。
「何かいいたげね?」
「いえっ、べつに……」
「そんな箱入りの少女達もね、いずれは女となり、子を産んで母になるものなのよ」
意味深なセリフを吐いたミリアさんが見つめる先には、泡だらけになって遊んでるナナミさんとアヤノちゃんの姿があった。