歳々年々、年々歳々
匂いというのは、記憶を呼び起こすものだと思う。
大好きな料理の匂いがすれば、人はその味を思い出して空腹を感じる。
いつも同じ場所ですれ違う名前も知らない誰かのことさえも、匂いで分かってしまったりもする。
そういうふうに、匂いによって特定の記憶が呼び起こされるということは、よくあることだ。
「……桜」
今、僕が感じているのは、桜の匂い。
甘いようで淡いようで、まるで桜の咲き方のようだ。
ぱっと人の心を掴み、ぱあっと散っていく。
桜の匂いは本来ひどく薄くて、かなり近づかなければ感じられないようなものだ。
けれど今僕がいるのは、桜並木の中心。
舞い散る桜の花びらが、淡い匂いを強く嗅覚へと触れさせる。
「ん……」
夜の冷たい空気が、桜の香りをなお強く感じさせた。
空に浮かぶ月の前を横切る花びらは、まるで手を振るかのようで。
公園のベンチの冷ややかさも気にならずに、僕は月に手を振る桜を見上げていた。
毎年嗅いでいるこの匂いに、年月の想い出を揺らされながら。
子供の頃から何度も訪れた同じ場所。慣れた桜の美しさと甘い匂いに、僕はぼうっと口を開けていた。
「はぁ……」
年々歳々、花相い似たり。
どれだけの年月が巡っても、変わらずに花は咲く。
歳々年々、人同じからず。
けれど、人はそうは行かない。
子供は大人になって、大人は老人になる。
老い。それは花も同じことかもしれないけれど、人はすぐに変わってしまう。
いつだって同じ心で、同じように見えるとは限らないのだ。
なんの変化もなくいられないところは、人間の利点であり、欠点だと思う。
善し悪しではなく、ただ、変わる。
それが人間の、花とは違うところだ。
それでも、毎年こうして艶やかに咲き誇る桜を見て、思うことは変わらない。
「綺麗だなぁ」
年々が過ぎ去り、歳々を重ねても、変わらない気持ち。
率直な感想をこぼして、僕はごろりと寝返りをうった。
そう。花の美しさは変わらなくても人は変わる。
無邪気にここで遊んでいた僕は過ぎ去った時間に置いていかれてしまった。
今ここにいるのは、仕事に疲れて酒を飲み、家に帰りつくことなくごろごろと寝転がるダメな大人だ。
「ふぇっくしょい」
くしゃみが出るのは、寒いからではなく舞ってきた花びらに、鼻先がくすぐられたから。
たまらずに閉じた視界は一瞬で開けて――
「ふふ、大きなくしゃみですね」
「ふぇ?」
――桜の精を映した。
正確には、そんな気がしただけだ。そう錯覚してしまうくらい、美しい少女が目の前にいた。
桜をあしらった飾りのついたヘアゴムで、長い黒髪をまとめた少女。
夜のあたたかな闇のように艶やかな黒髪と相まって、揺れる桜飾りはまるで夜桜だった。
弓にした瞳はいつしか緩められて、黒というよりは藍色の目が、僕の間抜けな顔を捉える。
「え、あ、君は‥…?」
「見ての通り、塾帰りの学生……に、見えます? どうです?」
「どうです、と言われても……」
起き上がって改めて相手を見れば、格好はブレザーで、学生と言われてしっくりくるような年の頃。
幼さを残したふっくらとした桜色の唇が、笑みの形になった。
「もう、ひどいですね。ずっと前から、いつもここですれ違ったのに」
「え、あー……ご、ごめん……?」
なんだか呆れるように笑われてしまい、つい頭を下げてしまう。
そんなことを言われても、すれ違っているだけの間柄では覚えていなくても仕方ないのでは……いやでも、こんなに可愛い子なら目を引くだろう。やっぱり、覚えていない僕の方が失礼なんだろうか。
「お疲れみたいですけど、なにかありました?」
「えー……まあ、うん」
なにかあったから、こんなところで腐っていたのだ。誤魔化しようもない。
隠さずに肯定すると、相手は笑みを崩さないままで、
「私でよければ聞きますけど?」
「いや、でも……関わりのない子だし」
「関わりがないなら尚更、言いたいこと言ってサヨナラでいいじゃないですか」
「……前途ある若者には聞かせづらいし」
「彼女に身体の相性が理由で振られたんですか……!?」
「そっちの意味で聞かせづらいんじゃなくてね!?」
なんか妙にペースを取られている気がする。
落ち着くために息を整えて、改めて言葉を作った。
「これから社会に出るような子に、社会の闇は聞かせられないでしょ……」
「いやいや。今の子ってネットとかで、もうそういうこと知ってますから。元から夢も希望もないんで、どうぞお兄さんの暗部を話してください」
「ありがたいけど嫌な子だなぁ……!」
もっとこう、いろんなものに対する言い方があるだろうに。
けれど、おかげで気を遣う気持ちが失せた。相手が言うように、所詮は一時の関係性でもある。
おそらくは僕があまりにもひどい格好をしているから、声をかけただけ。ただ偶然に出会って、別れて、明日からはなんでもない、すれ違うだけの関係だ。
「……ただ、仕事がうまく行かないってだけだよ」
うまく行かない。そんなことは何度もあったことだ。
別に今日、この時に限ったことじゃない。社会人になってから突然、なんてこともない。
子供の頃から、うまく行かないことなんてたくさんあった。
ただ大人になったから、酒に逃げるということを覚えただけで。
深く、内容を語るまでもない。いや、もしかしたらお酒のせいで、そんなことはどうでもよくなっているのかもしれない。
理由なんてどうでもよくて、ただもどかしくて、僕はこうして、淡い桜の匂いに埋もれるようにして酔っているのか。
「社会人って大変ですねぇ」
「そう、大変なんだ……いやでも、学生も大変だろう?」
「そうですね、若いうちに枝とか折られると、困ってしまいます」
「枝?」
「あ、お兄さん知らないんだ。桜って、繊細なんですよ。枝をちょこっと折るだけで、病気になってしまうんです」
まさか、自分が桜の精とでも言いたいのだろうか。いやいや、そんなわけない。
たぶん何かの比喩表現。見たところ賢そうな女の子で、こんな時間まで出歩いているのは、本人が言うように塾とか、そういうもののためだろう。
酒のせいか、突っ込む気も起こらなかった僕は、ただそれに乗ることで返した。
「桜は大変だなぁ」
「ええ、大変なんですよ。誰も彼も」
「……そうだよなぁ」
そんなことは分かっていたことだけど、言われてしまうと認めるしかなくなる。
つらい思いや、もどかしさ。そういうものを感じるのは、別に僕だけではない。
世界で一番不幸なのかと聞かれれば、きっとノーだろう。
「桜の匂いは、いろんなことを呼び起こしますからね」
「ああ……うん。切ないのは、そのせいかな」
桜は日本の花で、新しいことの始まりや、別れの象徴だ。
桜に感じる印象は、驚くほどに人それぞれに離れている。
それだけ多くの意味を持つほどに、咲き誇ってきたのだ。
年々歳々、花相似たり。
変わらずに咲いて来たとしても。
歳々年々、人同じからず。
人の心の数だけ、違った意味を持って。
「ふふ。そうかもしれません。私もこの時期は、どきどきしてしまいますから」
「どきどき……?」
にっこりと、桜色の唇を笑みにして、名前も知らない彼女は深く頷いた。
「桜の咲く頃は、いろんなことが変わります。風のあたたかさも、お日様の顔も、夜の長さも、そして人も。昨日まで学生服を着ていた子がスーツを着て、昨日まで幼稚園児だった子が、学生服に袖を通す。誰も彼もが新しいものに慣れようとしたり、わくわくしたり、不安がったり」
くすくすと笑う彼女は、まるでもう何年も前からここでその景色を見てきたとでも言わんばかりで、どきりとしてしまいそうな美しさと、艶やかさ。
桜の精だと言われても、信じてしまいそうだった。
「……桜が咲いていると、僕はひどく不安になるよ」
僕はどちらかと言うと臆病者だ。
変わっていくのが怖い。
幼稚園に入るとき、友達ができるだろうかと不安だった。
学年が変わるとき、今まで触れたことがない人と触れ合えるか恐ろしかった。
受験が終わったあと、今まで仲良くしてくれた人たちと離れてしまうことが寂しかった。
大人になるときが迫ってくると、学生の気安さがなくなって、義務に追われることを辛く感じた。
そんなことにもいずれ慣れる。それが分かっていても、分かれ道に立たされた僕が感じていたのはいつだって、不安だ。
揺れる桜は、まるで僕の心。
散る花びらは、今まで積み上げてきたものが崩れていくようで。
僕はそれが、ひどく怖かったのだ。
「花に感じることは、人それぞれですからね。でも、私は桜が好きなので、お兄さんにちょっとだけ魔法をかけてあげます」
「魔法……?」
ぱっと、彼女が僕の前で両の手を開く。
受け皿のようになった手のひらには、たくさんの桜の花びら。
「桜の香りはとっても薄くて、そのままではあまり感じられないんですけど……これだけ咲いてますからね」
いつの間にか山のようになった桜の花びらを、彼女は僕の鼻先へと近付ける。
優しくて、甘くて、どこか不安になる。慣れた香りに、思わず目を細めてしまう。
「桜の花には、不安を和らげる効果があるそうですよ」
「……そんな新しい知識を仕入れただけで、気持ちが変わるなんてこと」
「歳々年々、人同じからず。人間の心なんて、存外にころりと変わるじゃないですか」
ああ、それはまったくその通り。
今日、何度も心に浮かべていた言葉を言われた瞬間。強く風が吹いた。
花びらを散らす、突然の夜風。
水をかけられるようにして襲いかかってきた花の香りに目を閉じて――
「――え?」
見開いたとき、もうそこには誰もいなかった。
「ちょ……あれ?」
桜色の髪飾りを揺らした少女が、どこにもいない。
幻、だったのだろうか。それとも、気まぐれ?
きょろきょろと周囲を見渡しても、ただ酔っ払った大人がひとり、挙動不審にしているだけ。
残り香に誘われて鼻先に触れると、小さな桜の花びらが一枚、指先に乗った。
それは一瞬で風にさらわれて、手元から離れてしまう。
ぱっと咲いて、ぱあっと散る桜のように。
彼女の姿も、痕跡も、どこにもなくなってしまった。
「まさか、本当に桜の精……いや、酔いすぎで夢でも見たか」
狐につままれたというよりは、桜に惑わされたような感覚。
首を傾げれば、お酒はすっかりと抜けていた。
「は……くしゅん!」
くしゃみをしてみても、もう一度現れるなんてことはなく。ただ身体の冷えを感じるだけだ。
「……帰って、お風呂に入ろう」
明日もいつも通りの日常だ。変えてしまうわけにはいかない。
人は変われども、花が変わらないように。
僕には僕の役目があるのもまた、変わらないことだから。
◇◆◇
「今日も晴れたなぁ」
昔は通学のため、今は通勤のために通る馴染みの公園は、昨日の夜と同じで雲一つない晴れの空。
満開だった桜は風に撫でられて、散っていくというイメージが強い。
昨日のこともあって、桜に感じる気持ちは、少しだけ前向きだ。
そうして変わったことだけでも、昨日の収穫はあった。そう思う。
けれど、できることなら、確かめたいことがひとつだけ。
同じようにして桜を楽しむ人々とすれ違いながら、僕はどうしても見覚えのある桜の髪飾りを探してしまっていた。
やっぱり昨日のことは、夢だったんだろうか。
「っ……!」
舞い散る桜の匂いに瞳を閉じそうになったとき、僕の目が、造りものの桜を捉えた。
探していた後ろ姿を見つけた僕は、慌てて彼女を追う。
すれ違って、ゆっくりと遠ざかろうとした背中が、近づく。あれは本当に彼女だろうか。人違いでは。よく見ると昨日と背格好が違うような。
どう呼べばいいのか、本当に彼女なのかも分からず、けれどたまらない。
僕は心の中に浮かんだ言葉を、桜の花びらように空へと投げた。
「桜の精……!」
振り向いた彼女は、見覚えのある顔。
桜を模した髪飾りで、黒髪を結わえた、女の子。
制服はブレザーで、けれど細部が違う。これは、ああ。学校が変わったのか。
彼女はきっと、今日からが新しい学舎なのだ。
いつかの僕のように新生活に怯えたような顔はなく、彼女はただ微笑んだ。
昨日と変わらず、花のように。
だけど姿はたしかに、人として変わって。
「桜の精に、見えますか?」
自分で言って恥ずかしかったのだろう。少しだけ頬が桜色に染まる。
年々歳々、花相似たり。
歳々年々、人同じからず。
変わらない桜の下で、これからの僕たちに起きる変化が、きっと良いものでありますように。