丁寧に育てられた魔界の特選牛
「くくく、驚いたぞ勇者よ。よくぞその魔力も殆ど残っていない有様で、この魔王の間まで辿りつけたな」
整然と並べられた燭台から溢れ出る蝋燭の明りが、対峙する二人を薄暗い闇の中に浮かび上がらせる。
「造反したサンドラが魔王親衛隊をおびき出し、上空からの飛竜シルドラを使った強襲と見せかけて実はそれも陽動。本命は土小人族の工作部隊が作り上げた地下通路を使ってこの王座に単身潜入するとは、奸智に長けた我でも流石に見抜けなかったわ」
海の民は魔王城の近場に海がなかったので、今回出番はない。
「さて一応、お約束なのでやっておくか。勇者よ、我の手下にならぬか? そうすれば王国の半分を貴様にやろう」
「断る!」
「流石、清廉潔白と名高い勇者だな。早々の交渉決裂というわけか」
「いや、取引条件が合ってないだけだ」
微妙な空気と沈黙が、向かう合う魔王と勇者の間に流れる。
「よっよし、もう一度訊こう。我の手下にならぬか? 勇者。今なら王国の半分に加え幹部待遇で迎え入れよう」
「あ、いやそうじゃなくて」
「今なら年二回の昇給審査に、各種手当もばっちりつく。もちろん週休二日で残業も休日出勤もない!」
「いや、もう二度と就職する気はないんだ……」
「そうなのか」
重い沈黙が二人の間に流れる。
「あーそのサンドラに聞いたんだけどさ、魔王って牛飼ってるってホント?」
「おお、我の可愛いペットの話か。写真見る? これなんてまだ二歳で、我が撫でるとそれはもう――」
「いや良いよ。それでささっきの話に戻るんだけどさ」
「さっき? 取引の条件か?」
「そそ。良かったらその魔界牛を一匹譲ってくれない? めっちゃ美味しいって話きいてさ」
「断る!!!!」
その体格に相応しい轟くような牛魔王の怒声が、王座に響き渡る。
「我がこの魔王の座まで登りつめたのも、大事な同胞を守りたい、その思いがあったこそ。一頭たりとも手放しはせん!」
「一匹ぐらい良いじゃん」
「ならん! 交渉は決裂だ、勇者よ」
「仕方ないな。なら実力行使と行きますか」
「フン、笑わせるわ。その只の人と変わらぬ姿で、どう我と渡り合おうと言うのだ」
魔王の嘲笑に対し、勇者はふてぶてしい笑みを浮かべた。
「確かに俺はもう只の人間同然だ。ただ俺に掛けられた魔法は面白い仕組みになっていてな……記憶の欠片を取り戻せば、魔力が弱まるのは確かだ。でもそれは言い換えると、俺の記憶を魔力に転換しているってことなんだ。つまり記憶自体を、魔力に変えることも可能って事さ」
「なんだと! だがそれをすればお前の記憶は――」
「そう封印じゃないので消滅する。でも良いんだ。俺はこの世界に来て、たくさんの新しい記憶を貰った。楽しいことだけじゃない。苦しいことや悔しいことも一杯あった。でもそれも全部ひっくるめて、俺の大事な記憶なんだって気付いたんだ。古い思い出にいつまでも縛られる必要はないってことにな…………まあそれに、カレーの材料ほとんど思い出したので、一個くらい欠けても平気だろうし」
「お前、最後の部分が本音だろ!」
「という訳で喰らってください。これが俺の最後の魔法です」
覚悟を決めた勇者の瞳の奥に、力強い光が宿る。
「今、我願うは輝きの光、この身に宿る想いを力に変えて、瞬く星を掴みとらん! 降臨せよ『スターアニス』!!!!」
あり得ないほどの魔力の高まりが、勇者の身体からほとばしり天空へと吸い込まれていく。
その有様を、魔王は為す術もなく呆然と見つめる。
そして、静寂のまま三分が経過した。
「ハッハッハ、大事な記憶を失ったわりに不発とは。笑わせてくれるな、道化の勇者よ」
「…………いや、魔法はもう発動した」
「なにっ?!」
「気付かないのか魔王、この城の上空に迫る存在に」
その言葉に魔王は慌てて、魔力探知を自らの頭上に向ける。
「な……んだ……これ…………は……?」
「直径5メートルの隕石さ。この城目掛けて落ちてくるように召喚した」
「き、貴様! なんて事を。我と心中でもする気か!」
「いや、俺は飛んで逃げるよ。それだけの魔力は残してある」
「なんだとーーーー!」
取り乱す魔王に対し、勇者は再度ふてぶてしく笑う。
「では取引を再開しようか、魔王。今なら隕石はまだ俺のコントロール下にある。やろうと思えば落下地点を変えることは出来るぞ」
「………それがどうした。隕石如き耐えてみせるわ」
「お前は無事かもしれないが、この城で飼われている牛たちはどうかな。今からすべてを逃がす時間はもうないぞ」
そして勇者は、魔王がしり込みするほどの邪悪な笑みを浮かべた。
「さあ選べ。一匹差し出すか。全てを失うかだ」
魔王城のすぐ傍らには直径3キロを超す巨大なクレーターがあり、勇者と魔王の死闘の跡だと語り継がれている。
特に中央の爆心地はかなりの人気スポットで、魔王城観光ツアーに欠かせない名所となっている。
▲▽▲▽▲
「それで勇者様、これがそのカレーと云うものですか?」
魔王の降参により戦争が終結した王宮では、盛大な祝賀会が開催されていた。
「ええ、そうですよ姫。コックのおっさんと大神官の爺さんの協力でようやく完成できました」
「随分と良い香りですね」
「基本の八種類に加えて、さらに様々な香辛料が入れてありますから」
「見た目も黄色くて美味そうだね、勇者」
「ああ、それはカレーの最重要事項だよ。ラーナ君」
「我々が栽培したジャガイモやニンジンも入ってるのですね」
「ええ、栄養も満点です。ドナ女王陛下」
さりげない説明会話をこなしながら、勇者の目は片時もカレーから離れない。
「随分とご執心なんですね、勇者様。少し妬けてしまいます」
「ええ、やっと……やっと食べられますから」
「それもそうですね。ではご存分にお召し上がりください」
「はい! 頂きます!!」
子供のような元気な声を上げて、勇者はスプーンを引っ掴み最初の一救いを口へ運ぶ。
「辛い! だがそれがいい! うん旨すぎる! ジャガイモごろごろ最高!! ニンジンも甘い! 玉ねぎは飴色になるまで炒めたから溶けちゃってるな。おお、この魔界牛の肉マジ美味いな。うん、これがカレーだよ。この……これ…………あれ?」
勇者のスプーンがぴたりと止まる。
「………………なんだ、この物足りなさは……何かが足りて無い……」
「ヒッハー、勇者。美味いなこのスープ。でも何かこれだけだと寂しいね」
「パンと一緒に食べたらどうかしら~?」
「流石、マーシャ姉ちゃん気が利くね」
「パスタとも合いそうだね、勇者のお兄ちゃん」
「それだと、もうちょっと太い麺が良さそうですね」
がやがやと騒ぐ周囲の声をよそに、勇者は愕然とひざまづく。
「俺が最終魔法で失ったのは……一体なんだったんだ……?」
「勇者様、大丈夫ですか? どうされました?」
心配する姫の声にも顔を上げず、勇者は押し黙ったままカレーの皿を見つめ続ける。
「フフ……ハハッ」
「勇者様?」
「フッ、俺らしくもない。悩んでる暇があれば前へ進め。失ったものは新たに見つければいい。自分でさんざん言ってきた言葉じゃないか」
顔を上げた勇者はテーブルに食べかけの皿を戻し、王宮の出口へと歩き出す。
「あの……勇者様、いずこへ?」
「決まってますよ、姫。失ったものを取り戻しに行くんです」
「おお、勇者ここに居たのか。お前の戴冠式の準備は出来ておるぞってどこへ行く?」
「お父様、彼を止めてください!」
「むむ。それは無駄なようじゃな。あの眼はやんちゃだった若いころのわしにそっくりじゃ」
「そんな!」
悲痛な声をあげた姫だったが、慌てて首を横に振る。
「周りの言いなりでしか生きて来れなかったのは、過去の私。今は違うでしょ――私は変われたはず! お父様」
「どうしたんじゃ、姫?」
「私も……私も勇者様についていきます!」
「うむ。それでこそわしの自慢の娘じゃ。しっかりと捕まえてくるのじゃぞ」
「はい!」
「あ、ぼくも一緒に行くよ。ヒッハー」
「私もお供しますね~姫様」
「シルドラ様にお別れの挨拶してこなくっちゃ」
「拙者もお供するでござる。勇者殿には返しきれぬ恩があるゆえ」
「ピピポップゥ。ポポッピ」
かつて王国は、恐ろしい魔族による存亡の機にあった。
しかし一人の若者が愛する者のために立ち上がり、その危機を見事退けてみせた。
数々の偉業を成し遂げたその若者の名は、歴史書には記されていない。
ただ彼の愛した料理だけが伝わっている。
その料理の名を持って、いまなお若者の話は語り継がれている。
そう、『カレーライスの勇者の伝説』として。