姫様の愛情たっぷりな林檎と蜂蜜
「勇者様、お味はいかがですか?」
「ええ、とても美味しいですよ。姫」
王宮の一番奥、ひっそりと隠すように作られた小さな花園では、勇者を慰安するお茶会が開かれていた。
穏やかな午後の光の中、連日の熾烈な戦いが嘘のような安らいだ時間が過ぎて行く。
「……じゃがいも……にんじん、玉ねぎ…………桂皮に丁字に鬱金と……」
「それは勇者様の記憶の断片ですね」
心地よい木漏れ日を浴びてくつろぐ勇者が口ずさむ言葉に、王女はサファイア色の瞳をわずか曇らせて問い掛ける。
「ええ、かなり取り戻せました」
「あまり御無理はなさらないで下さい。記憶の断片が戻れば戻るほど、勇者様の勇者としての力が失われるのですから」
「判ってますよ、姫。勇者としての役割を果たすほど、俺の魔力はなくなり最後には普通の人間に戻ってしまうんでしたね」
「はい、今も勇者様の力が減ったせいで、御体の傷はまだ完全に癒えてないでしょ。この国は、勇者様のお陰で随分と平和になりました。もう急いで無理をなさる必要はございません」
いたずらな風が花壇の薔薇をくすぐるように揺らし、それを囃すように小鳥の鳴き声が可憐に鳴り響く。
「…………そう、もうずっとこのままで…………」
だが、姫の切ない願いは、駆け込んできたメイドによってあっさりと打ち砕かれる。
「大変です~姫様、勇者様! 魔王四天王『狂炎のサンドラ』の軍勢が西からココに向かってきます」
「落ち着きなさい、マーシャ。王宮なら親衛騎士団や王宮魔術団が控えているでしょ」
「でも火蜥蜴の大群が、何もかも焼き払って進んきてるそうですよ~」
その言葉で、勇者の顔に緊張が走る。
「たしか王宮の西には――」
「ええ、姫様が育てた果樹園が燃えちゃいますよ~」
「無くなったとしてもまた育てればいいだけです! そう、諦めなければ何度だってやり直しできます。私はそれを大切な人から教えて頂きました」
きっぱりと言い放つ姫を見て、小さく笑みを浮かべた勇者はお茶をグイッと飲み干してテーブルから立ち上がる。
「お茶美味しかったです。またいつかご馳走して下さい、姫」
「勇者様、まだ御体は万全じゃないでしょ!」
「守りたいモノがあれば、俺は何処だって何時だって駆けつけます。なんたって勇者ですから」
そう言い切ると勇者は、振り返りもせず花園を後にする。
「勇者様、行っちゃいましたね。って、どうかされました~? 姫様」
薄っすらと涙を浮かべる少女に気付いたメイドは驚きの声を上げる。
「嬉しいからですよ、マーシャ。私のお茶を守りたいと……そう言って貰えて」
そう言いながら姫は、自らのカップに注がれたハニーアップルティーを嬉しそうに見つめた。
▲▽▲▽▲
「ヒーハッハ、燃えろ燃えろ。何もかも燃えろー」
「そこまでだ! 魔王四天王『狂炎のサンドラ』!!」
「ヒハ?! 誰だ?」
狂った様に笑っていた少年は、突如名前を呼ばれ焦った声を上げる。
「問われて名乗る程でもない!」
果樹園を焼き尽くそうと迫っていた火蜥蜴の先駆けの一匹が、勇者の一撃が受けて苦しそうにもがきながら中空に消える。
「お前は勇者! …………ヒハハハハ、よくぞ来たな」
「何がおかしい! 喰らえ! 清涼なる流れよ、寄りて浄化の蛇と化せ『クミン・コリアンダー』!!」
勇者の手から生まれた水流が火蜥蜴の群れに直撃し水蒸気が上がる。
だがそれを気にする素振りもなく、火蜥蜴たちの大群が後から後から勇者へと押し寄せる。
「くっ!」
「ヒッハー、噂は本当だったようだね。勇者が力を失いかけてるって」
「それをどこで!」
「おっと、それは言えないな。言えるのは、今のアンタはまさに飛んで火にいる夏の虫ってことだけさ」
楽しそうに笑みを浮かべた少年は、くるくる回りながら新たな魔法陣を描き始める。
「これはそんな勇者にプレゼントだよ! いでよ! 僕の可愛いペット『溶岩竜ギードン』!!!!」
少年の描いた魔法陣を押し破るように、全身から火を吹き出す巨大な竜が姿を現す。
「さあこの世界を全て焼き払っちゃいな! ヒーハッハ」
「そうは…………そうはさせん!! 『シナモン・カルダモン』! 『ガラムマサラ』!」
飛行魔法と防護魔法を唱えた勇者が、竜の周囲を飛び回りながら水流を発射し続けるが、まさに焼け石に水状態でほとんど効き目がない。
「前にも訊いたが、なぜそんなにこの世界を憎むんだ? サンドラ」
「良いだろう、冥土の土産に特別に教えてやるよ! なぜなら世界は僕にこんな力を与えたからだ! 破壊しか生み出さない呪われた力を!」
かつて王国魔導院に最年少の入学を果たし飛び抜けた才能で周囲を驚嘆させたが、その召喚能力を恐れる一部の人々に罠に掛けられ、魔界へ追放されるように仕向けられた過去がサンドラの脳裏を横切る。
「こんな力さえ無ければ、僕は殺されかけることもなかった」
「それはお前が、力の使い方を間違っていたからだ!」
「ヒハ?!」
「他人に認めてもらうために力はあるんじゃない! 力は誰かを……誰かの大事なものを守るためにあるんだ!」
火蜥蜴と溶岩竜の放つ熱気で、果樹園の樹々がざわめきミツバチたちが狂ったようにその周りを飛び回る。
「見せてやるよ。守りたい……リンゴとハチミツを守りたいと願うこの気持を!」
宙を舞う勇者の体から、凄まじい魔力が放たれる。
「我願うは人々の健やかなる康らぎ、天の恵みよ今こそその力を示したまえ! 『バーモンド』!!」
勇者の詠唱に呼応するように、空がにわかにかき曇り大量の雨雲が二人の頭上に集結する。
そして土砂降りの雨が、全てを消し去った。
▲▽▲▽▲
「僕も散々化け物呼ばわりされたけど、あの状態で大気を操る魔法なんてアンタこそ本当の化け物だよ」
ポタポタと毛先から雫を垂らしながら、魔王軍最狂と呼ばれた火炎使いは呆れたように声を上げた。
「ふっ、これこそ愛の力だ」
「ハン、言ってら。それよりどうして僕を殺さない?」
「俺はこの場所を失いたくなくて力を尽くした。同様にお前を失いたくないと思う誰かが居るかもと思ってしまってな」
勇者の問いかけにサンドラは、自分が追放された時にたった一人庇ってくれた姉を思い浮かべる。
王宮で働く姉は、王国を追放となったサンドラに今でもよく楽しそうな職場の近況を事細かに綴った手紙を送ってくれていた。
「…………マーシャ姉ちゃん」
そっと誰かの名を呟くサンドラを、勇者は静かな笑みを浮かべて見つめる。
そのままその視線が、雨に濡れたローブがピッタリと張り付いたサンドラの胸に落ちる。
「ところでお前って、じつは女の子――」
「あ、バカ見るなスケベ!!」
殆どの魔力を使い果たしてしまった勇者。
そこに最強の試練、魔界の王が立ちはだかる。
最後の記憶を求め今、勇者の終点の旅が始まろうとしていた。