空飛ぶ水族館
「館長」
「艦長と呼びたまえ」
客のいない水族館、二人しかいない水槽の前で、事務員の冴木半菜(さえき・はんな、39)は声を掛けた。この水族館の館長、いや自称「艦長」猫眠丸児(ねこねむり・まるこ、43)を呼び出していたのだ。ともに美女・美男だが、なぜか独身。
「失礼しました、艦長。……艦長は、この水族館に来場客がいないこと、そして見る人がいないことを鑑みての館の存在価値、加えて今後の運営についてどう思われますか」
実は、この会話をこっそり聞いている者がいる。冴木と同じく事務員で、木陰洋子(こかげ・ようこ、29)だ。壁に隠れて、「何言ってんですか、冴木センパイ~。猫眠館長に告白るんじゃなかったんですか~」と、やきもきしながら成り行きを見守っている。
「この『市営市民水族館』は、空を飛ぶことによって他の競合水族館では足元にも及ばないほどの独自性を確保している。独自性に富む素晴らしいサービスを提供していれば、たとえ今客足が悪かろうと、いずれ理解され必ずや栄華振興を極めるだろう」
重々しく言う猫眠。
「しかし艦長」
「いや、冴木君。みなまで言うな。この空と海を一度に満喫できる『空飛ぶ水族館』は、ロマンの塊なのだ。それは、人が思うだけではない。見ろ、この銀鱗をきらめかせ泳ぐサバヒーたちを。口をパクパクさせて『ロマン、ロマン』と言っているだろう。ここの魚達はみな、ロマンをエサにして他の水族館より生き生きと育っているのだ。人と、何より魚が望んだ究極の水族館なのだ」
確かに水槽の中、群れを成して泳ぐサバヒーたちはぱくぱく口を開閉している。冴木は何とはなしに見ていたのだが、そう言われれば「ロマン、ロマン」と言っているように見えてきた。生きも、いい。
「しかし、高度を保ち気圧を低くし負担を軽減することで魚たちの動きは良くなりますが、お客様にとっては少々敷居が高いのではないかと」
冴木は胸の前で手を組み合わせ、目を潤ませながら愛をささやくように訴えた。
猫眠の、誠実でまっすぐな、力強い中にも優しさをたたえる瞳と視線を絡ませる。
瞳と瞳が、愛を語る。
「何とかしないと、貴方が築き上げたこのロマンの世界が崩れ去ってしまいます。ほんの少しだけ、現実的な対応を」
瞳が、「好きです。ずっと、好きでした」と言う。
「いいかい、冴木君」
すっ、と視線を外して横を向くと、猫眠は視線を遠くに泳がせ言った。まるで、長い長いキスの余韻を、惜しみながらも振り払うかのように。
「飛べない水族館は、ただの水族館なのだよ」
もう何も言うべきことはない、とばかりに猫眠艦長はその場を後にした。取り残された冴木は、愛に破れたように青ざめ、そして支えを失ったかのごとく脱力して水槽のガラスにしなだれた。
「だ、大丈夫ですか、冴木センパイ!」
慌てて出てきた木陰に気付き、彼女は力を振り絞って身を正しいつもの毅然なたたずまいを取り戻した。それでも若干、まつげの先に憂いが残る。
「木陰さん、職務の方は大丈夫なの」
「私は、冴木さんが大丈夫かどうかの方が心配ですっ!」
木陰洋子。事務処理能力に劣り一言多い性格だが、他人の面倒をよく見て我が事のように心配する、心温かい女性だ。冴木は、心底冴木のことを心配をする後輩の様子に心がほだされ、再び肩の力を抜いた。
「ふっ。……ありがとう。もう大丈夫よ」
「よかった」
ほっと、木陰も胸をなでおろす。涙が浮いていたのか、目尻をこすっている。その様子に、冴木はぷっと吹きだし「まったくもう」と、呆れた。「だって」と木陰。くすくす笑い合う二人。もう本当に、ショックから立ち直ったようだ。
「あーあ、ふられちゃったわ」
気分を切り変えるように、冴木は伸びをした。胸のラインが伸びきった後、豊かなふくらみに落ち付く。
「どうしてこう、この水族館の男どもは地に足が着いてないようなのばっかりなのかしらね」
「まったくです」
吐き棄てるような冴木の言葉に、木陰もうなずく。笑い声がまた漏れる。
なお、二人とも未婚で彼氏もいない。もちろん、「高望みしすぎている」という自覚は、ない。
ここは、空飛ぶ水族館。
きょうも高く、高く――。
おしまい
ふらっと、瀨川です。
他サイトの同タイトル企画で執筆・発表した旧作品です。
あなたもレッツ・ロマン飛行。