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夜空の先に

作者: 箕雨シキ

 真夜中、穂乃香は窓越しに空を見上げていた。

 まだ春になりきらない、冬の終わりの頃。寒さは抜けきらず、穂乃香は窓の冷たさを露骨に感じた。そっと右手を窓に触れさせると、冷たさが全身を駆けるような嫌な錯覚を起こす。

 窓の外の世界は、おぼろげな暗闇。街灯が所々に見える寒々しい光景が広がっていた。

 穂乃香のいる部屋の温度と、窓の外の世界の温度は、恐らく大きな差がある。何より穂乃香が触れた窓の冷たさがそれを物語っていた。

 だが穂乃香はそんな現実的なことを考えてはいなかった。

 ただぼんやりと、窓の外に広がる世界を眺めているだけだった。意識して思考するようなことはしない。外を見て、寒そうと思い、だがそれ以上思考は繋がらない。

 穂乃香にとって、世界は“そんなもの”だった。

 同じような毎日を繰り返すだけの日々、淡々とした代わり映えのしない日々。それらを淡々と過ごすだけの、ぼんやりとした世界。

 今日を過ごして、明日を過ごす。時間が進むから、自分は動く。毎日が積み重ねられていくから、流れに逆らわずに、身を任せる。

 そんな、“そんな世界”。

 穂乃香は冷たくなった右手を頬に触れさせた。右手に宿っていた冷たさが、頬から全身を巡る。だが窓に触れたときのような、悪寒を思わせるような直接的な冷たさではない。ふっと現れては消えるような、淡いそんな冷たさに、思わず笑みが漏れた。

 穂乃香は、自らの頬によって体温を取り戻した右手で、窓のロックを開けた。そのまま、窓を右にスライドさせて開ける。

 外に広がるのは、空虚で冷たい空気と、静かな世界だった。それは、窓越しに穂乃香が見ていたものと変わらない。

そんなことは、当たり前のこととして世界に認識されている。当たり前のことを、穂乃香はそれでも“ぼんやりとしたもの”としか認識しない。もう既に、認識するしないではなく、無意識の中で処理されている。

 穂乃香は右手を真っ直ぐ伸ばしてみた。空気に隔てられた“窓”を突き抜けて、その右手は目の前の暗い色をした空を掴む。冷たい空気が衣服の間から入り込み、たちまち全身に行き渡り、全身の体温を徐々に奪ってゆく感覚。不快なようでどこか心地いいそれに身をゆだねる。

 更に大きく身を乗り出しても、何にも届かない自分の右手を見て、穂乃香は微かに肩を竦めた。

「誰も、掴まない」

 穂乃香の呟いた小さな小さな声は、目の前に広がる空虚な世界に、消えるようにして溶け込んだ。

 右手を上、暗い夜空に向かって斜め上に突き上げた。先程よりも更に大きく身を乗り出して、夜空に浮かぶ星を掴もうとするかのように、穂乃香は手を開く。

 穂乃香の掌は、夜空を背景に小さく写った。大きすぎる夜空というキャンパスに、たった一つだけ浮かぶ小さな小さな右手。夜空に散りばめられた輝く星々に届かない、そんな穂乃香の右手は、虚しげにすぐそこに存在する空気を掴んだだけだった。

 ふと、頭上高くに一際強く輝く光が瞬いたような気がした。

「え……?」

 伸ばしていた右手で、瞳をこする。見間違いかと、目をしばたかせる。だが、まもなくして再び光は瞬いた。

「な、流れ星……?」

 先程の一つだけではない。幾つも、数多く光が降り注ぐ光景。小さな一筋の光から、大きな一本の輝きまで、流星はまるで何かの目的を持ったかのようにどこかへ向かって一直線に落ちていく。

 穂乃香はその光景が理解できずに、意識がそれを認められずに、目を瞑って、何度も何度も見直した。しかし何度改めて見ようとも、その光景は変わらなかった。

 空虚で、静かだった世界に、絶え間なく降り注ぐ流星。依然街は薄ら寒い暗闇に包まれているが、頭上高く広がる暗闇の夜空は、今や煌びやかに輝く星に彩られていた。降り止まない流星は、一体どこへ落ちていくのだろう。そんな疑問をよそに、勢いよく落ちていく星々。

 穂乃香は、呆けた表情でそれを見ていた。前方から吹き付ける冷たい風にさえ反応せずに、まるで数多く降る流星に魂を吸われてしまったかのように、微動だにしない。

 意識して見ようと思ったわけでもない突然の流星群に、穂乃香は目が離せなかった。

 そして背後で突然鳴り響いた音に、思いの外心臓が音を立てて跳ねた。

 穂乃香は小さく息を呑んで、すぐに音の発信源に思い当たって慌てて携帯電話を開き、ボタンを押した。

「も、もしもし」

 着信相手も見ないとっさの行動と、音の驚きに跳ねた鼓動のせいで声が震えた。

『穂乃香! 流れ星が見えるぞ! 空見てみろ!』

「……啓?」

『いいから! 早く早く、俺こんなん見たことねーくらい降ってるって!』

 つい今見ていたとは言い出せない雰囲気で、電話越しの啓はまくし立てた。穂乃香は思わず声を殺して微笑み、携帯電話を耳に当てたまま先程立っていた場所に戻り、もう一度空を見上げる。

「見たよ。うん、すごくきれい」

『もっと感動しろよ、穂乃香の癖に生意気な』

「うるさいな。こんな感動的な場面にわざわざうるさい啓の声聞きたくなかったわ」

『なんだよ、せっかく俺が教えてやったのに……』

 啓の声色から想像できるその表情に、絶え間なく降り続ける流星群に、穂乃香は微笑む口元を抑えられなかった。

「ううん、ごめん。見れないよりましかな」

『だろ!? これは見るべき』

 吹き付ける風に、今更ながら寒さを感じた。変わらず静かな世界に、徐々に降り止む流れ星。ふと、その夜空の星に触れてみたくて穂乃香は手を伸ばした。

 小さな手はやはり星に触れることなど叶わず、目の前の世界にも届かない。

『穂乃香?』

 電話越しに届く声が遠く世界の果てからのレスポンスのように思えた。

「ねぇ、星に触れたいと思ったことある?」

 自分の言葉が意味することを理解するより早く、言葉は啓に届いた。 

『は?』

「ふふ、ごめん。なんでもないや」

 もうずいぶんと冷えた右手を握り締める。夜空を見ているのに小さな罪悪感のようなものを抱いた穂乃香は、音を立てて窓を閉めた。窓に背を預ければぞくりとする冷気を感じた気がして、思わず振り返ってカーテンを勢いよく閉めた。

 部屋は夜空よりも深く冷たい暗闇に満ちた。耳に当てた携帯電話のディスプレイが発する無機質な光だけがぼんやりと穂乃香を照らす。

『穂乃香』

「……なに? 寒くなったからもう流れ星は見てないわ」

『なあ知ってるか? 流れ星は吉凶の兆しなんだと』

「願い事を叶えてくれるんじゃなくて?」

『実際考えてみろよ、ひとつの流れ星が見えてから消えるまでの間に三度も願い事を願えるかよ』

「私、やったことないから知らない」

『さっきやらなかったのかよ』

 電話越しの苦笑いに、穂乃香は呆れたように溜息をついた。

「願うほどの願いなんてないわ」

 何かを思って発せられた言葉などではなかった。無意識が無意識のうちに勝手に発したとしか思えない、普段の自分なら言うことのないような言葉。

『神様が天からこっちを覗いたから、こっちと向こうが繋がって、天からの光が降り注ぐ。それが流れ星って言い伝えがあってさ』

 穂乃香のつぶやきはまるでなかったかのように啓は話し続ける。

 啓が話してる手前無言で電話を切るわけにもいかず、穂乃香は暗闇に包まれた部屋のベッドに寝転がって、ただ電話越しの声に耳を傾けていた。

『だから願い事は三度も願わなくたって、神様に届きゃ、叶うんだと』

 穂乃香にとって啓の話は、本当にどうでもいいことだった。願うべき願い事など、穂乃香にはない。ただ同じ毎日を繰り返すだけの平凡な日々。目下の願いは、それが壊れることなく続いていくこと。それだけで穂乃香は満足だった。

『それにさっきのは流星群だったし。願うだけはタダだろ? だからさ、願ったんだよね』

 啓の言葉が頭に入っては抜けていく感覚。そのままぼんやりと無意識の海に溺れて意識を手放してしまおうかと思いかけたその時。


『お前が幸せになるように、って』


 溺れかけていたのを無理やり水面下に引き戻されて、心臓が音を立てて大きく跳ねた。

『同じ星を一緒に見たお前が、笑顔で幸せでありますように、ってさ。いやぁ、我ながらくさいな』

 啓らしくない自嘲気味な笑い声に、穂乃香は酸素を求める魚のように口を動かして、しかしその口からは何も

言葉など発せなかった。


『願うほどの願い事がないだけなら、いい。それはお前が、今幸せってことだろ?』


『でもそれはお前の強がりだってわかるくらいには、俺はお前が好きだよ。だから、神様が叶えてくれるよりも先に、

俺が自分で叶えてみせる』



「……啓の癖に、生意気」

『うっわー、俺めちゃくちゃかっこよく決めたのに感想それだけかよー』


 ただ時間を浪費するだけより、ぼんやりした世界に星が降っていた方がよほど美しい。

 穂乃香は部屋の無機質な寒さに、小さく微笑んだ。



 Fin.




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