旅の途中 1
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」
デイケアルームの朝のミーティングの最中に、私は松尾芭蕉の奥の細道の冒頭部を頭に思い浮かべた。
心療内科の中西クリニックに併設されているデイケアに私は毎日のように通っている。主治医の中西先生に指示されたからだ。
デイケアとは…、少し説明する必要があるだろう。
高齢者向けのデイケアサービスといえば知っている人も多いだろうが、私の通っているのは精神疾患患者向けのサービスである。精神疾患の患者が昼間にレクリエーションなどの活動で人と接することによって社会復帰や入院予防を目標とするものでデイケアの目的は、次の三点にある。
・決まったリズムのある生活を営むことで、生活時間の管理能力を持たせること。
・仲間と一緒に何かをすることで、自主性と協調性を培うこと。
・ゲームや簡単な手作業を通して、社会復帰の体力と作業能力を維持、向上させること。
つまり、社会復帰のためのリハビリ治療の場と言ってよい。
デイケアルームは20畳程の広さで事務用のテーブルと椅子が並べられている。毎朝15名程度のメンバーがデイケアルームの椅子に座り、朝の一言を順番に話すのが毎日の日課となっている。
「おはようございます…、夏川です。今日も朝、体調が悪かったのですが、何とか頑張ってここまで来られました」
「工藤です。昨日、友人とカラオケに行きました。久しぶりに楽しい時が過ごせました」
「山下です。昨日は横田基地に××という有名な戦闘機が来るというので、デイケア、サボって見に行ってしまいました。××は湾岸戦争でも活躍した型と同じ戦闘機です」
そんな風にそれぞれが個性を表したコメントを順番に発表していくのだ。
彼らの発表を聞き流していると、ふと気づくと次は自分の発表の番になっていた。
「西沢です。山下さん、サボっていないでデイケア来てくださいよ。私は山下さんと違って特に何も変わらない日でした」
私は山下さんをからかうように言ってから、素っ気ない挨拶をした。
私は中西クリニックのデイケアに通うようになってから、もう半年になる。今ではデイケアの他のメンバーとも、すっかり打ち解けているが、最初は見知らぬ土地に旅に来てしまったように思えた。しかし、不思議なもので、落ち着かない旅も日々を重ねていくうちに、この長い旅を続けようという心構えが出来てきた。今ではすっかりデイケアの固定メンバーの一人となっている自分に気がついた。
しかし、健康な人間として月日を重ねてきた日々をふと何かの拍子に思い出すこともある。私は2年前までは結婚していた。あの頃は週末になると彼女とデートに行ったなあと懐かしい想いが心によぎることもあるのだ。甘い思い出だ。
(あの頃は楽しかったな)ふと私は思った。
離婚をした理由はあれこれあった。彼女を殺そうと思うほど憎んだことさえある。しかし、時が過ぎてしまえば、憎んだ記憶も薄れて、楽しいことばかりが頭に浮かんでくる。
今の私はちょっとした買い物で外出するのでさえ億劫で、デートなんてとんでもないことだ。そう思いにふけりながら、気分が悪いふりをして、午前中の料理教室をこっそりサボりつつ、デイケアルームのはじっこに置かれているソファーに腰掛けた。