第4話 契約
どうも、綾鷹です。
長らく放置していましたが、またこつこつやっていこうと思います。
開いたドアの奥には、見慣れた俺の部屋がある。
この家に越してくるときに用意してもらった、まだ新しい勉強机とベッド、他には実家から持ってきた小さな本棚とタンスがあるだけで、物が少ない飾り気のない部屋だ。
緊張しつつドアを開けたのに、人の姿が見当たらない。
「ん……? 誰もいな――あがっ」
誰もいないじゃないか、と言いかけたそのとき、後ろから首に腕を回され、俺は思わず尻もちをついた。
「あえぐっ……」
喉ぼとけを押さえつけられ、苦しさに呻く。するとすぐに、首を絞めつける腕が離れた。
「まだまだですね、神崎勢一くん」
「な、何を……!?」
とっさに振り向いて声の主の姿を見定める。
女だ。長い黒髪。眼鏡をかけている。が、しかし、こいつは……。
「お前、ここで何してるんだ? 東堂……!」
そいつは見まがうはずもない、さっき学校で訳の分からん委員に任命するだとか言ってきた女だった。
「ああ、違います違います。映花じゃありません。あんなアホ面と一緒にしないで頂けますか? 私は映花の双子の姉の、紫枝と言います。以後、お見知りおきを」
「双子……?」
言われてみると、眼鏡をかけて髪型も違うし、制服の着方も違う。さっきの廃校舎で会った奴はラフな感じに制服を着ていたが、いま目の前にいる女は清楚な雰囲気を出している。
俺は首を手でさすりながら立ち上がり、ベッドに腰掛けた。女はまるで何事もなかったかのような態度で落ち着き払い、その場に正座する。
「いったい何の用だ? 人の家に押しかけて、部屋まで上がって、その上、いきなり後ろからチョークスリーパーしやがって……ありえないだろ」
「同じような状況で九ノ瀬さんを襲いましたが、彼女の方は難なく避けていましたよ」
にっこりと微笑むこの女に、若干の恐怖を禁じ得ない。
「また九ノ瀬か。お前ら、いったい俺たちに何をさせたいんだ? 言っとくけどな、俺と九ノ瀬は何の関係もない。友達でもない。顔見知りってだけだ」
「ほう……、ただの顔見知りと屋上から飛び降りるなんて、あなたも奇特な方ですね」
「うっ……」
起こってしまったことを今さらどうすることもできないが、いったい俺はあのとき何を考えていたんだ。
後悔の念が急激に襲ってきた。あんな考えなしの行動のために、変な奴らに次から次へとちょっかいを出されている。
「先ほどの手荒な挨拶は失礼しました。それは謝っておきます。今日は本当に、大切なお話をしに伺ったんです」
カーペットに両手をついて、東堂紫枝は丁寧に頭を下げた。
あんなものが挨拶であってたまるか。とは思ったが、俺はそれには触れなかった。
「大切な話って?」
「まず、これから私が話す内容を一切他言しないことを約束してください。約束して頂けないのなら、何も話すことはできません」
「あ、いい。話さなくていい。もう帰ってくれ」
「九ノ瀬さんのことですよ?」
「いいからもう帰れ」
眼鏡の女が困った顔になった。それが心地よかったので、俺は微笑を返してやる。
興味ない。お前の話も、九ノ瀬のことも、知りたいことなんて何もない。
全部拒絶してやる。こいつらが飽きるまで拒絶して、シカトしていれば、いずれ俺になんか関わらなくなるだろう。
やり直しだ。平穏無事な高校生活の再スタートだ。出だしから大きくつまづいてしまったが、まだ間に合う。
空気のようになるんだ。誰も俺を気にせず、俺も誰も気にしない、何も良い事もないが、何も悪い事がない、そんな日常を繰り返していくのが俺の夢だ。
あの廃校舎の誰も来ないような場所を住みかにしよう。そこで、昼休みや放課後のひとときを読書して過ごすんだ。
「はぁ……そうですか」
紫枝はため息をつきながら、胸ポケットから一枚の写真を取り出して、俺に差し出してきた。
――その写真を見た瞬間、俺は凍りついた。
それまでの思索がことごとく吹っ飛んで、思考のすべてがその写真の絵で満たされる。
息が乱れ、手が震える。あまりのことに、心臓が止まりそうだった。
「に、兄さん……ッ!?」
その写真には確かに覚えのある兄さんの顔が写っているのに間違いなかった。
ネクタイのないスーツ姿で、憂鬱そうな目をしながら、口元だけ微笑んでいる。
兄さんの肩に手をかけて並んで写っているのは、三十代後半か四十代前半の男で、こちらは爽やかな笑顔だ。右手にはシャンパングラスを持っている。
食事会か何かで撮られた写真なのかもしれない。
「どうして……なんでお前がこんな写真を持ってる!? この写真は何なんだ!?」
「改めてお聞きします。これから私が話す内容を一切他言しないことを誓えるか否か。答えてください」
「誓う……。だから頼む、教えてくれっ。兄さんは今どこで何をしてる?」
「質問は後でお受けします。まず私のお話を聞いてからにしてください」
「……ッ」
はやる気持ちを抑える。こんなに動揺したのは久々だ。
生きているか死んでいるかもわからなかった兄さんの写真を見せられたんだから、それは無理もないことなのかもしれない。
けれど、俺は自分自身の動揺に驚いていた。壊れたメトロノームのように動きやしなかった俺の心が、まだこんなに揺れることができたなんて。
まだ人間らしい感情が俺の中にあったなんて。
それが、本当に驚きだった。
「あなたは何も知りませんよね。九ノ瀬さんのこと」
九ノ瀬? どうしてまた九ノ瀬の話になる? 兄さんと関係あるのか?
「あ、ああ」
「あなたのお兄さんと一緒に写っているのが、九ノ瀬さんのお父上、九ノ瀬霧耶氏です。美術の世界ではかなり有名な、やり手の画商をなさっています。画家のお兄さんとは良きパートナーでした」
「画家? 兄さんが?」
「ええ。本名の神崎涼一という名義ではありませんが。そのあたりは追い追い説明します。……これを」
言って、紫枝がまた胸ポケットから写真を取り出した。額縁に入った絵を写したもののようだ。
「これは……」
髪の長い、小さな女の子が森の中の湖に佇んでいる。湖面に立つ少女の白いワンピースは月明かりに輝いていて、実に幻想的な絵だった。
「『薄氷の湖面に立つ少女』という絵です。九ノ瀬氏が懇意にしている資産家数名に見せることがあっただけで、表だって公開もされなかった無名の絵ですが、300億円の提示額で交渉を持ちかけられたことがあったそうです。公式な記録には残っていませんが、この額は美術品の取引額としては最高額です。それでも九ノ瀬氏はこの絵を手放しませんでした。……この絵がなければ、彼の娘、九ノ瀬早矢さんが死んでしまうからです」
俺は黙って、東堂紫枝が先を続けるのを待った。
「早矢さんは、幼いときに交通事故で母親と双子の妹を亡くしました。事故に遭ったその車には早矢さんも乗っていました。……そして、あなたのお父上も」
「――は?」
一瞬こいつが何を言っているのかがわからず、俺は無意識に素っ頓狂な声を漏らしていた。
「あなたのお父上、神崎隆一氏が車を運転していたんです。そこに、酒酔いの上に居眠りで運転していた車が信号を無視して横から突っ込んできたそうです。早矢さんの母親と妹は即死、あなたのお父上と早矢さんも重体となりましたが助かりました」
「……」
言葉が出ない。見たことも聞いたことのない親父の話だ。
唯一知っていた親父の名前は、確かに紫枝が言った名だった。
「あなたのお父上に落ち度はまったくありませんでした。しかし、その日から隆一さんはすべてを捨て、ただ早矢さんに尽くすことを決めたそうです。事故後、意識を回復した早矢さんは母と妹が亡くなったことを知って心を塞ぎました。特に妹さんを亡くしたことが大きかったそうです。先ほど、双子と言いましたよね。それはもう本当に仲の良い姉妹で、いつも一緒にいたそうです。彼女にとっては半身を失ったようなものだったんでしょう。私も双子の妹がいますから、なんとなくその気持ちが分かります。けれど、自分が死んでまでして妹に会いに行きたくなるかどうかは、分かりません」
「……九ノ瀬が死のうとしてるのは、そういうわけか……」
「すんなりと納得してしまうんですね、あなたは。普通、ありえないですよ」
「そうか? 当然の成り行きだと思ったけどね。……俺も惰性で生きてるだけで、生きてる理由なんてないからな」
言ってすぐに、はっとして我に返る。紫枝が語る話に動揺しているからか、自分の心を不用意にさらけ出してしまった。
紫枝はそんな俺をまじまじと数秒見つめてきてから、話を続けた。
「神崎隆一氏はその筋の人間には有名な贋作画家でした。自らの絵はどれも凡庸で、認められることがありませんでしたが……。そんな彼が事故後、唯一描いたオリジナルの作品がその『薄氷の湖面に立つ少女』です」
「これは、親父の絵……」
「そうです。事故後に回復した隆一氏でしたが、しばらくして脳に腫瘍が見つかりました。あなたの兄、涼一さんを助手にして、まさに命がけで描いたのがその絵です。完成した直後に、あなたのお父上は亡くなりました」
「……」
どこにいるのかも知らなかった、一度も会った記憶がない親父が、今、俺の中であっさりと死んだ。
なにも感じなかった。幼い頃に森で捕まえてきたカブトムシが死んだときほども悲しくなかった。
「早矢さんはその絵の前から離れませんでした。死ななければ会えないと思っていた妹との再会だったのかもしれません。事故後、完全に心を閉ざしていた早矢さんはその絵のおかげで次第に以前の自分を取り戻していきました。……しかし、それも長くは続きませんでした。『薄氷の湖面に立つ少女』が盗まれたんです。そして捜索の後に発見された時にはもう、焼失してしまっていました」
紫枝が俺のことを真っ直ぐに見る。嫌な予感がした。
この眼鏡女はさっきから、恐らく俺にとって重たいと思われるような内容を口にするときは、こうしているからだ。
「絵を盗み、焼失させた犯人が、あなたの兄、神崎涼一さんです」
心の準備をしておいて正解だったようだ。なるほどどうして、込み入っている。
「焼失した絵は早矢さんにとって命も同様でした。それがなくなったことで彼女は元に戻ってしまいました。写真や贋作で代用しようとしても無意味でした」
「兄さんは、今どこで何をしてる?」
俺の質問に、紫枝は胸ポケットからもう一枚写真を取り出すことで答えた。
「……ッ」
そこには半裸の、すっかり痩せ細ってやつれ果てた兄さんが写っていた。髪に白髪が混じり、白い両腕にはおびただしい量の絵の具がついていて、両の手は真っ黒になっていた。
「半年ほど前の涼一さんの写真です。現在彼は、九ノ瀬家に監禁されています。健康状態は今のところ問題ないそうですが、精神的には非常に不安定な状況にあるようです」
俺は思わず立ち上がった。
「拷問でもされてるのか!? 高価な絵を盗んで燃やしたからって、こんなふうになるまで監禁することはないだろう! クソッ! 警察に……」
「無駄です。お兄さんのためにも、くれぐれも軽率な行動は避けてください。九ノ瀬家の恐ろしさを、あなたは何もわかっていない」
「どういうことだ? 九ノ瀬の親父が金でも積んで警察を黙らせるってことか?」
「落ち着いてください。早矢さんのお父上、九ノ瀬霧耶氏はむしろ、お兄さんの側の人間です。こうやってあなたに事情を説明するよう私に依頼したのが、他でもない霧耶氏なんです」
紫枝は俺がベッドに腰を落とすまで待ってから、話を続けた。
「霧耶氏は九ノ瀬家の婿養子です。画商としての彼の成功も、九ノ瀬家の威光があってこそのものでした。深くまでお話しても時間が取られるだけなので簡単に説明しますが、九ノ瀬家は古くから続く陰陽師の家系で、代々女系で継がれてきた特殊な血筋を持っています。占いを家業として、現在も日本の中枢を担う大人物らを陰で支えています。その威光でかなりの富と権力を自由にすることができるというわけです。あくまで影の存在としてですが。ヤクザとか暴力団とか呼ばれている方々よりも、よっぽど恐ろしい力を持っているんです」
「兄さんがこんな状態なのに、黙っていられるわけないだろう」
「お兄さんを助けたいですか?」
「当たり前だ」
「方法はあります。どうか最後まで聞いてください。……そもそも、九ノ瀬家の家督を継げるのは早矢さんしかいないんです。だから九ノ瀬家は早矢さんには絶対に死なれたくありません。わかりますね?」
「ああ」
「それを防いでくれていた『薄氷の湖面に立つ少女』はもうありません。涼一さんが何故そのような行為に至ったのか、九ノ瀬家はもちろんあらゆる手段を以って聞き出そうとしました。しかし、涼一さんは精神を錯乱させるに至るまでその理由を口にはしませんでした。ただ、パートナーだった霧耶氏にだけは語ってくれたそうです」
紫枝は下がってきた眼鏡の位置を直して、凛とした目になった。
「涼一さんはこう言っていたそうです。『あの絵は早矢の体は死なせないが、心を死なせる。未完成だったんだ。親父は最期に言ってたよ。”間に合わなかった。お前が完成させろ”って……。だが俺には無理だった。早矢の心が完全に死んでしまう前に、焼いてしまうしかなかったんだ。でも、もしかしたら勢一にだったらできていたかもしれない……』」
……俺に?
「『あいつは親父に似てる。あの絵に足りない何かが、きっと見えたはずだ。俺には見えなかった何かが……。しかしそれも、早矢を知らなければ見えないか……。いや、あいつまで早矢を背負うことはない。俺と親父で十分だ。あいつには、平凡に暮らしていってほしい……』」
「……」
親父がいなかった訳も、兄さんが消えた訳も、つまりはこういうことだったのか。
事故に遭った車に乗っていた親父はともかく、兄さんはまるで関係ないじゃないか。あんな良い兄さんが、こんなにやつれ果てて……、こんなふうになってまで、兄さんは親父の遺志を継いだっていうのか……ッ。
九ノ瀬早矢を哀れには思う。だがどうしても、俺の家族をバラバラにしやがった原因があいつにあったという思いを拭いきれない。
あいつに罪はないだろう。色んな状況が不幸に組み合わさったんだろう。そう頭で分かっていても、やり場のない怒りが湧いてくる。
兄さんばかりが酷い目に遭って、それで、俺には平凡に暮らせっていうのか……。
俺はむしろ、母さんと自分を残して消えたあんたを恨んでいたっていうのに……ッ!
「あなたには選択の自由があります。そのために、あなたのお兄さんは九ノ瀬家には何も語らなかった。その意志は尊重するべきでしょう。――再度訊ねます。お兄さんを助けたいですか? それとも、こんな話には金輪際関わりたくないですか? お兄さんは、それを望んでいるようですが」
「兄さんに会わせろ。話はそれからだ」
「それは不可能です。九ノ瀬家の人間である霧耶氏でさえ、涼一さんに面会するのは難しいんですから。しかし、あなたがお兄さんを助けたいというなら、霧耶氏も何か妙案を考えてくれるかもしれません」
「……俺は、兄さんを助けるためだったら何だってやる」
その返答に、紫枝は「良い答えです」とうなずいた。感情のない表情だった。
「契約成立ですね。霧耶氏もお喜びになることでしょう」
紫枝が手を差し出してくる。俺はその小さな手のひらを少し睨んでから、握手をした。
「そういうわけで、あなたには委員会に入ってもらいます」
「は?」
「九ノ瀬さんにも入ってもらいます。お兄さんの言葉にあったでしょう、早矢さんを知らなければ、『薄氷の湖面に立つ少女』は描けません」
俺はいよいよもって訳が分からず、眉をしかめた。
「あなたが一から描いて、お父上の絵を完成させるんです。そうする以外に、お兄さんを助ける方法はないんですから」
「お……――俺に絵心なんてないぞ!?」
「分かってます。安心してください。あなたにはこれから地獄の猛特訓を受けて頂きますので」
「地獄の……特訓……?」
焦り顔の俺に、紫枝は顔をにっこりとさせてこう言った。
「早矢さんより先に死なないでくださいね」
俺にはそれが、冗談のようには聞こえなかった。