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リレー小説「恋愛編」  作者: 唐錦・綾鷹
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第1話 心中

今回はわたくし綾鷹の回です。楽しんでいただければ幸いです

 退屈な日常、孤独な日々、ぼんやりとした憂鬱という奴らと長く付き合っていると、それほど気にもならなくなるものだ。

 俺にはひとつ、悟っていることがある。平凡な奴が夢など持ってはいけないということだ。

 願いとはすなわち、心の振れ幅を大きくする行為だ。

 期待を持って前向きに振れることは一見して輝かしい状態ではあるが、その願いが叶わぬことで生じる絶望、後ろ向きへの振れ幅は、前への振れ幅と同じか、もっと大きい。

 俺のような凡庸な人間には、まったくもって無駄な行為だ。

 だから俺は、前にも後ろにも触れないこの平凡な日々と同化する。それはけっして居心地が良いものじゃない。けれど、若干後ろ向きに振れて止まってるぐらいが安定するんだ。

 そんなふうに俺は、言わば心のメトロノームを大切に扱っていた。何があっても喜ばず、何があっても悲しまない、――壊れたメトロノームを。




第1話 心中




 高校生活のスタートは眠くなるような入学式の幕開けに始まり、退屈すぎる校長の挨拶で熟睡の域に達し、クラスでのありがちな自己紹介で昏睡状態となり、それでもなんとか生還した俺は、おぼろな意識の中で下校を許された。

 正直な話、そのときにはすでに何があったのかほぼ忘れた。クラスメイトの自己紹介など一つも頭に入っていない。

 この学校の入学生は近くの中学から上がってきた人間ばかりで、俺のクラスでは初日からそれぞれの中学でグループを作っているようだった。遠くの中学から入ってきた俺はまるで転入生のような存在だ。

 とはいえ、これは理想的な状況とも思えた。孤独は良い。波風の立たぬ凪のような、穏やかな高校生活を過ごせる。

 俺がすぐに下校しなかったのは、そんな理想的ライフスタイルをさらに安穏にするための場所を探していたからだ。

 要するに、一人になれる場所。

 男子トイレの個室は一人にはなれるが、授業中でもなければたいして落ち着ける場所じゃない。

 図書室は良いアイデアではあるものの、俺だけの場所ではないという点で住処すみかにはできない。

 校内にいくつかある非常階段は使えそうではあったが、どうも外から目につきやすい。

 1階、2階、3階と目星をつけながら順々に見回っていき、当然ながら最後に屋上へと行き着いた。

 この学校の屋上は施錠がされてあり、許可なく立ち入ることを禁止している、と教師が話していたような気がしたが、なんてことはない、簡単に扉は開いてしまった。


 ――青天井の下に出た瞬間、女子の姿が目に映った。


 彼女は、胸の高さほどの屋上の縁に立っていた。

 屋上に現れた俺に振り向いた彼女の長い黒髪が、春風に吹かれてなびく。こめかみの髪を耳にかける仕草を、俺は茫然と眺めていた。

 まるで同じ世界の住人とは思えぬほどに、細部まで作りこまれた人形であるかのように、――恐怖さえ感じるほどに神秘的な美貌だった。

 腰にまで垂れる黒髪は黒曜石のように艶やかで、抜群の均整で描かれたもののような身体の曲線は、どこにも描き直すべき箇所を見つけられない。

 凛とした背筋はセコイアの如く真っ直ぐに伸びていて、実際彼女が立っているところよりもさらに高みから見下ろされているかのような錯覚に囚われる。

 いや、むしろそれは、直視には耐えがたいほどに強い眼光、揺るぎない自信に満ち溢れ、この世のすべてを見通しているかのような双眸こそがそう感じさせているのかもしれなかった。

 だから俺は彼女が口を開くまで、彼女がそこで何をしようとしていたのか、まるで見当がつかなかった。

「……ね、君、私と一緒に死のう?」

 長い黒髪の女子は、無表情でそう言った。

 俺は何も答えなかった。現実感が酷く淡い。目の前の状況を理解しようとさえ思わなかった。

 ただなんとなく、俺は彼女に近づいていった。街灯に吸い寄せられる虫のように、考えるよりも先に足が動いていた。

「私、死にたいって人たくさん見てきたからわかるの。君、死にたいんでしょう?」

 肯定も否定もしなかった。そんなことをする前に、俺は屋上の縁に手をかけて上っていた。

「行きましょ」

 俺の返答を待つことなく、彼女は俺の手を引いて屋上からダイブした。

 ここに至っても、俺の心のメトロノームは壊れていた。ただぼんやりと、あの日、テーブルに伏して眠るように死んだ母の横で食べたプリンの味を思い出していた。

 美味しかった。本当に美味しかった。あの日以来、何を食べても味がしない。最近の食事は、紙や粘土を食べているようなものだった。

 地面が加速しながら迫る。どこにでもあるような土の平面が、今は命を奪う凶器と化している。

 恐怖を感じなかった。握った手のひらから、名前も知らない女子の体温を感じる余裕すらあった。

 動かない。壊れたメトロノームは微動だにせず、砕けて散る。土の染みとなって、消える。

 嬉しくも、悲しくもなかった。

 視界が暗転すると同時、全身を突き抜けるような衝撃が襲う。

 体が高速で転がるのがわかり、硬い地面を背にして止まった。視界はなおも開けず、なぜか温かい闇に包まれていた。

 温もりを持った闇が、ゆっくりと遠ざかった。同じ速度で、視界が戻ってきた。

 闇が光に色あせていき、それはついに屋上で出会った女子の姿になった。

「サヤ様の安全を確保!状況を常務C班へ委譲し、特務A班は撤収する!」

 寝そべったまま横を見ると、軍服姿の男たちが分厚いマットを持ち上げて去っていく姿が見えた。

「私、いつもあいつらに邪魔されて死ねないの」

 彼女の顔も制服も土にまみれていた。大変なことがあったはずなのに、しかし何事もなかったかのような無表情だった。

 こいつのメトロノームも、きっと壊れているんだろう。

「ね、あなた、まだ死にたいって思ってる?」

 上体を起こした俺は彼女を睨み、しかし無言でうなずいた。

「そう……、嬉しい。こんな目に遭ってまだ死にたいって言った人、あなたが初めて。だって死にたい死にたい言ってた人だって、私と一緒に死にかけたら、もう死にたくないって言うから」

 太陽を背にして彼女が立ち上がる。そして、すらりと伸びた足の根、美しく窪んだ腰に手を当てた。

「私は九ノ瀬早矢ここのせ・さや。あなたは?」

「神崎……勢一」

「勢一君、あなたとならきっと、上手くやれる気がするわ」

 言って、彼女は俺に手を差し伸べてきた。

「いつかきっと、一緒に死にましょう」

 訳のわからぬ状況、名前を知っただけの関係で、とてつもなく重い契約を要求されていた。

 それなのに俺は、迷うことなくその手を取った。そうすることがまるで、はじめから決まっていたかのように。

 鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、馬が走るように、俺はその手を握った。

 そのときはじめて、彼女がふっと笑った。

 それは本当に久しぶりに、メトロノームが揺れた瞬間だった。

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