記憶
私には記憶を操る能力がある。この能力に気付いたのは、私が中学生の時。ちょっとしたことで、友人とケンカしたことがあった。次第にエスカレートして、殴り合いにまで発展した。そして、私が相手の頬を殴ったときだった。相手は突然倒れ、しばらく動かなくなった。その時の私は、確かに怒っていたが、気絶するほどの強さで殴ったつもりではなかった。私がうろたえていたら、彼はすぐに立ち上がった。私は咄嗟に身構えたが、彼は直立したままだった。
「どうした? もう終わりか?」
私の問いかけに、彼は首をかしげていた。
「黒田……。何やってるんだ?」
あまりにも意表をつかれたため、私はしばらく動けなかった。
話を聞いてみると、彼はケンカの原因、自分が殴られたことなど、すべてを忘れていた。倒れたときに頭を打った様子もなかった。そして、何事も無かったかのように終わった。私もこの事は忘れることにした。
それから何ヶ月か過ぎたある日、他の友人が、失恋のショックで立ち直れなくなり、ひどく落胆していた。私は前のケンカを思い出した。もしも記憶を消すことができるなら……。私はそんな想像をしながら、彼を励まそうと、席に座っている彼の頭をポンと叩いた。すると、彼は突然机に倒れこんでしまった。私は頭をポンと叩いただけで、今度こそ無実であった。しばらくして、彼は立ち上がった。しかも笑顔で。まさかと思い、話を聞いてみた。思ったとおり、失恋したことを忘れていた。
この時、私は確信した。自分には記憶を消す能力があるのだと。
高校に入学すると、私は記憶を消すだけでなく、記憶を植えつけることもできるようになった。私はこの能力をテスト勉強に使った。おかげで、暗記科目だけは常に満点を取ることができた。
自分の能力の使い道について深く考えたのは、この頃だった。この能力を正しく使うためにはどうしたらいいのか。悩んだ末に、私は精神科医になることを決めた。精神科医ならば、患者の悩みや過去の記憶を消すことができ、患者が前へ進む手助けができるのではないか。それなら、この能力を正しく使えるのではないか。私は暗記が通用しない数学や物理を猛勉強し、医学部に入った。
私は髪の毛に白髪が混じるような年頃になった。私は自分の病院を立ち上げ、診療を行っている。ここに来る患者たちの悩みは様々である。失恋、対人関係の悩み、アルコール依存症、中には麻薬中毒の患者を見ることもある。私はその人たちの悩みを聞いて、解決策を考える。記憶の操作は、本当に最後の手段である。
ある日、院長室で一休みしていると、1本の電話がかかってきた。
「はい」
「黒田院長ですね。」
男性の声だ。
「どちら様で?」
「すみません、院長にご相談がありまして。名前は伏せさせていただきたいのですが」
悩み相談の電話とは珍しい。時間があまり無かったので、少しだけならという条件で、話を聞くことにした。
「実は、ある人の記憶を消してもらいたいのです」
記憶を消す……。私の能力の噂が広まっていたらしい。このようなことが起こるかもしれないと注意はしていたつもりだったが、詰めが甘かったようだ。私は当然断った。
「そうですか……。仕方ありませんね」
引き下がったのかと思ったが、違った。男が次に言った言葉は、安堵した私を恐怖のどん底に突き落とした。
「あなたの息子さんと奥様、人質にとらせていただきます」
背筋がゾクっとした。初めての感覚だった。
「家族は、無事なのか?」
恐る恐る聞いてみた。男は落ち着いた口調で、
「もちろんですよ。ただ、もし私の要求を呑んでもらえないのでしたら……」
「わかった。何をすればいい?」
「ありがとうございます。私の要求は1つだけです。ある老人の記憶を全て消してもらいたいのです」
「老人……。誰なんだ?」
「会えば分かると思いますよ。あなたも少なからず恨みのある相手かと」
男は少し笑いながら言った。
男はその後、計画実行の時間や順序などを説明した。終始、落ち着いた口調で。そして、最後にお約束の言葉を言い、電話を切った。
「警察には連絡しないようにお願いします。」
診療時間が終わる午後6時、黒田クリニックの玄関前にある黒い車に乗る。そこからある場所へ移動し、老人の記憶を消す。大まかに言うと、このような流れだ。
午後6時になり、私は急いで玄関前へ行き、黒い車に乗り込んだ。VIPが乗るような、座席がふかふかとした車だった。運転手も、手袋をし、帽子をかぶっていて、いかにも専属の運転手のような感じがした。車はゆっくりと走り出した。私は無言のまま、外の風景を眺める。運転手に何か聞いてみようかと思ったが、一言でもしゃべったら、息子と妻に危険が及ぶのではないかと感じたため、意識的に口をきゅっと結んでいた。
車の中で、自分が知っている老人の記憶すべてを呼び起こしてみた。だが、1人として恨みのある人物が見当たらなかった。私は考えるのをやめた。もうどうでもいい。記憶を消して早く家に帰ろう。もはや老人のことなどどうでも良かった。思考停止した私は、しばらく目を瞑っていた。
「着きましたよ」
運転手は無表情で私に言った。ドアが自動で開き、車を降りた。私の目に入ってきたのは、誰もが絶対に知っている建物。小学校の社会科見学で中に入ったこともある。
「国会議事堂……」
私は運転手に案内されて、医務室に入った。電話の男は、ここで老人が入ってくるのを待てと言っていた。彼が言っていた老人……。大体の見当がついた。私は持ってきた白衣を着て椅子に座った。待っていると、予定通り老人が入ってきた。
「初めまして、鶴川総理……」
私は椅子から立ち上がり、深々とお辞儀をした。思った通り、入ってきたのは民自党、内閣総理大臣、鶴川正宗。
この人がどのような人なのか、テレビを見ていれば誰でも知っている。この人の発言は、毎日のように話題となり、野党、マスコミから集中砲火を浴びている。おまけに脱税の噂もあり、ほとんどの日本国民が嫌っている人だ。あの男が言っていたことも理解できた。
「よろしく頼むよ。ちょっと風邪気味でね」
総理は咳き込みながら言った。この医務室の中では、私は"内科医"ということになっている。私は聴診器を総理の体に当てる。
この人の記憶を消す理由は想像できた。一国の総理が記憶喪失となれば、当然退陣に追い込まれる。狙いはそれだ。色々な推測ができるが、犯人は政府関係者。私が乗ってきた車からも分かる。だが、首謀者までは分からない。民自党内の鶴川グループ以外の派閥、それとも野党か……。
このような推測をしながら、私は聴診器をはずす。いよいよ作戦実行だ。だが、私には迷いがあった。いくら国民のほとんどが嫌っているからといって、人が生きてきた軌跡を抹消していいのか。道徳的な問題だけではない。1度このようなことをすれば、2度目、3度目が必ずある。そのときもまた同じように、息子と妻を危険に晒す事になる。私はこのようなことを考えながら、総理の額に手を当てた。総理は椅子に座ったまま気を失った。総理を1人残し、私はその場を後にした。
翌日のテレビ、新聞で報道されたのは、総理の辞任ではなく、ある1人の老人の逮捕だった。私は総理の記憶を消さなかった。代わりに、私が昨日経験した出来事、そして私の推測をすべて植えつけた。総理は目覚めると、私の家の周りに警察官を派遣してくれたらしい。その後、怪しい男たちが捕まった。彼らはある老人に金で雇われていたという。彼らが吐いたおかげで、首謀者の老人はすぐに捕まった。その人の名前は、政権交代する前の総理大臣、山田博信だった。彼は、現在は政界から引退しているが、落ち着いたしゃべり方をすることで有名な人だった。電話では分からなかったが、今考えてみると、あの声はテレビで聞いた声と似ていた。山田元総理は、健忘症のような発言をする鶴川総理に腹が立ち、私を使って本当の記憶喪失にしてしまおうと考えたのだという。
黒田クリニックは、この事で大きく報道され、一時は存続が危ういと思われたが、総理の計らいで、何とか持ちこたえた。
事の発端は紛れも無く私である。私は記憶を操る能力の使い方をすべて忘れることにした。やっと普通の精神科医になれる。私は穏やかな気持ちで、手を額に当てた。
処女作なので、大目に見てください。
できれば感想を聞かせてください。