エレベーターの男
エレベーターに閉じ込められた不運な男の脱出劇と、その残酷な結末
地上一八階を目前にして、エレベーターが突然停止した。
しばらくすると警報ベルが鳴り始め、二、三分ほどして止むと、今度はモーターの微弱な回転音が大人7人までが定員の狭い密室に長く尾をひいた。
榊原吉武はその間、赤い緊急呼び出しボタンを頻りに押し続けていた。下にはスピーカーシステムが備え付けてあり、通常ならこの部分から外部のオペレーターがすぐに応対してくるはずであった。
榊原の後ろには外国人の作業員が、脚立を持って立っていた。身長一八〇センチ以上はある小太りの、紺色の作業服をまとった男。名札には、『換気口担当 ブルヌスチャカカザール ヤギ 』と記されている。東南アジア系の、どこにでもいそうな顔の外国人だった。
エレベーター内には彼ら二人しか居なかった。
榊原は怒鳴り声でオペレーターを呼んだり、監視カメラの方を向いて、身振り手振りで助けを求めたが、外部からの反応は一向になく、しばらくしてやめた。最終的に、背広を脱ぎ、壁にもたれるようにして座り込んだ。
―――なんでこんなときに―――
榊原は普段、この旧式の作業用エレベーターにはたまにしか乗らなかった。社長室へ行くには一階のエントランスにある30人乗りの大きいエレベーターを使えば事足りた。しかし、株式会社マックスクリーン代表取締役である榊原が、エントランスのエレベーターに入ると、中にいた社員が一斉に畏まるので、彼は彼らに余計な気兼ねをさせないよう、小さな用事がある場合はいつも、エントランス脇にある、この旧式の作業員用エレベーターに乗るようにしていた。
―――緊急呼び出しボタンを押してもオペレーターが出てこないってのはどういう事だ。外部の監視員室には必ず誰か警備員が居るはずだろ―――
エレベーターは一向に動き出す気配をいっさい見せず、相変わらず虚しいモーターの回転音だけを響かしていた。
「シャチョさん」
榊原と対角線を描くようにして立っていた外国人がふいに声を上げた。
榊原はゆっくりと立ち上がり、始めてその男と顔を合わせた。褐色肌に、鳥の巣のような黒いもっさりしたチリ毛のヘアースタイル、極端な団子鼻に、ゴム質のように分厚そうな唇、目の下のくまが疲労感を感じさせるものの、瞳には鋭い眼光がある男だった。
「日本語、喋れるの?」
「えぇチョッとだけ、コレは何かの訓練デスか」
「いやぁ・・・これぁたぶん違うなぁ」
「ジャア、事故か、」
外国人の男は軽い口調で言い放ち、そのまま無表情で榊原を見つめた。
「君はあれ、エレベーターとかには詳しくないの」
榊原が訊ねると、外国人の男は首を横に振った。
「エレベーターのコトは知らなイ、でも換気口の事なら、知ッテル」
「…あぁそう」
榊原は、力なく床に座り込んだ。
―――停止してからまだ十分。外には何十人も社員がいる。直ぐに誰かが異変に気づくだろう―――
榊原はネクタイを緩め、確かな希望に期待を寄せた。社長室に置き忘れてきた携帯を取りに行くさなかの不運だった。
「ホントウにツイてるね」
突如耳に入ってきた状況にそぐわない言葉に、榊原は薄気味悪いものを感じ、外国人の男の方を向いた。男は榊原をずっと見ていた。それも並々ならぬ恍惚に溢れた眼差しで。
「シャチョさん、アァヤッパリその顔ハ、本当にシャチョさんなんだネ」
外国人は柔和な笑顔を浮かべ、榊原の顔ぐらいあろう黒みを帯びた分厚い黄赤色の片手を差し伸べてきた。「えっ、なに、握手か」と榊原が訝るような表情で聞くと、外国人の男は深く頷いた。
榊原はしぶしぶそれに応じた。男の異常に汗ばんだ黄赤色の手は恐ろしく生温く、沼地に手を入れているような感触がした。
「雑誌ヲ見たノ」
「雑誌?」
榊原がそう聞き返すと、外国人の男はふいにしゃがみ、横にあった大きい作業用バックから冊子を取り出した。
「コノ特集見たンダ、ほらシャチョさん、ココにウツテル」
それは環境ビジネスを特集した雑誌だった。23ページに新進気鋭の40代の若手社長として榊原が紹介されていた。進学校を卒業後、F学院大学を入学、サークルではテニス部の部長を務め、大学卒業後、洗剤など、化学日用品を手がける会社マックスクリーンに入社。家庭用洗剤のトップブランド「エフロン」の商品開発、マーケティングを担当。先代が病状で退いたことで、若くして代表取締役に就任。「環境対応先進企業」をビジョンに掲げ、環境最優先の事業を実践していくということで、いまや台湾やマレーシアにも規模を拡大し、国際的な活躍を期待されるとして雑誌に特集されていた。オールバックに彫りの深い顔立ちで一躍、スマートな身のこなしの現代的な社長として注目を浴びているという見出しで、六本木をテニスルックで闊歩している榊原の姿が大きく一面に写っていた。
「あぁ、その写真ねぇ、僕もちょっとやりすぎだと思ったんだ」榊原は自嘲気味に笑った。
「イヤいいヨ、カッコよくウツてるよ、まさかシャチョさんト、こんなトコロで、一緒になれるナンテ思ッテもみなかったヨ」
外国人の男はそう言うと、再び榊原に羨望の眼差しを向けた。
榊原の特集されたページの部分には、開きやすいようにピンク色のシールが貼られている。榊原は沸き上がってくる違和感を押しこめながら「ありがとう」とだけ答え、雑誌をしまうように手で促した。
それでも、男の羨望の眼差しは続いた。
その間、榊原は背中の中に何かヌメリのあるものを入れたような気分だった。
男の距離がやけに近かったのだ。榊原の顔と外国人の男の顔の距離は卵三個分ほどしかなかった。
「あの…」
「エッ」
「ちょっと近くないかい」
「アァ、ゴメンなさい」
外国人の男は、すぐに半歩退いた。
しばらく妙な沈黙になり、榊原は気まずさに堪えきれず口火を切った。
「君のことをなんて呼べばいい、ヤギさんでいいかな・・・」
榊原の問いかけに、外国人の男は露骨に首を横に振った。
「ブルヌスチャカカザール」
「えっ」
「ブルヌスチャカカザールと読んでクダサイ、父からモラッタ名前デ、母からモ、そして仕事仲間からもソウ呼ばれていまス、大切ナ名前デス」
「ブル、えっ」
「ブルヌスチャカカザールです」
「ブルヌスカ、チャカ、カザール?」
「ハイ、アリガトウございまス。あなたハ…」
「榊原 吉武」
「エッ?」
「榊原 吉武」
「サケ…………キバ、ル吉武」
「榊原」
「ウルシバラ」
「さ・か・き・ば・ら!」
「言いニクイ、ヨシタケでいいカ」
「ちょっと待ってくれ、こっちに言いにくい方で呼ばせておいて、なんで君は僕の名前を簡単な方で呼ぼうとするんだ、しかも呼び捨てで、それはおかしいでしょ」
「ジャア、あだ名で」
「いやそういう事じゃなくて」
と言い放った瞬間、榊原はすぐに理性的になった。
―――俺は馬鹿か、何をこんなことでイライラしてるんだ。―――
どうやら特殊な状況下が自律神経を乱しているらしい、と榊原は冷静に再考し「いや、いいよ」と外国人の男に謝った。
「イヤワタシわるイ、シャチョさんワルくない」
男はそう言うと、柔和な表情を浮かべ、譲歩の姿勢を見せた。
「ヤギさんでいいかい」榊原はなるべく、遠慮気味に聞いた。
「…ジャア、ヤギで」
男の答え方は、若干ふてくされたような感情を帯びていた。
榊原は心のなかで頭を抱えた。
―――なんなんだこいつは―――。
「イヤ、ソレにしてもアツイね、この中」
ヤギは腕の裾をまくり上げ、作業着のボタンを徐に一つずつ外し始めた。白地のポロシャツが除き、その中には鳥の巣のような剛毛が広がっている。ヤギとの距離を、2メートル以上に設定した榊原は、それでも届いてくるヤギの暑苦しい脂ぎった体臭と通気孔の排気が混ざったような匂いに、耐えられなかった。
―――あぁ、頼むから誰か来てくれ… これ以上この男と、この密室で一緒に居続けるのはキツイ―――
「ダレも来ナイね、シャチョさん、デモヨカッタ、実はワタシね、シャチョさんと、イツカ、二人っきりになってミタいなと思ってたヨ」
ヤギはそう言うと、恍惚な眼差しを榊原に向けながら、唐突に作業服のズボンのベルトを外し始めた。(なぜズボンまで脱ごうとする?)その思った瞬間、榊原は全身の鳥肌が一気に逆立った。体中の血が逆流し、ある疑惑が凄まじいスピードで脳裏をかすめた。
―――しまった、ホモだ!! 間違いない!! コイツはホモだ!!! さっきからの眼差しと言動を見ていたらわかる!! コイツはホモだ! 俺の載っている雑誌にマークを付けているのもこれで合点がいく! そうか、俺がこのエレベーターに乗ることを初めからこいつは知っていて!! エレベーターが止まったのもまさか、こいつの仕業か!!? もしそうだとしたら、あぁ、なんて奴だ!! あぁまずい、どうする!? 俺はずっと狙われていたんだこのホモに!! どうしよう!? 相手はホモだぞ! どうする!? 考えろ! ホモだ!! ――――
「シャチョさん、ワタシね、1年前に息子が死ンデ、モウ人生に希望ナカッタヨ。でもアル日シャチョさんのことを知っテ、死ぬ前にヤルベキコトを見出せタネ。ソシテ、こうして出会えたのは、神様がクレタご褒美か何かだとオモてる」
ヤギはそう言うと、ベルトを外し、ズボンを脱ぎ始めた。
「待て!」
威圧的な榊原の声がヤギの動きを止めた。
「エッ?」ヤギは眼を丸くした。
「なんでズボン脱ぐ?」
「ソリャ、アツイからね。換気扇付いてないヨ、このエレベーター。シャチョさんも脱ぐ?」
「いや、俺は脱がない。でお前も脱ぐな、早くエレベーター動かせろ」
「…ナニ言ってる?」
榊原は素早く体勢を崩し、ヤギの足元にあった大きな作業カバンから覗いていたドライバーを取り出し、ヤギの顔に向けた。
「ズボン履いて、ベルト戻して、チャック上げろ。それができたら後ろの壁に張り付いてそこから動くな!」
「シャチョさん、ナニ、ドウシタノ!?」
明らかに殺気立った榊原の命令に、ヤギはまごつくようにして従った。
「おまえがズボンを下げようとするからだ!!」
榊原が威嚇するようにそう言い放つと、当惑した表情を浮かべながら、ヤギはエレベーターの一角の壁に張り付いた。
「男同士ナノニ…」
「うるさい!」
吐き捨てるように言うと、震える手で握りしめたドライバーを正面のヤギに突き付けたまま、驚愕と侮蔑が入り交じった眼差しを彼に向けた。
「そこから一ミリも動くなよ、お前なぁ、ふざけやがって、いつからだ、いつから俺を狙ってた! いやそれはいい、エレベーターを動かせ、早く、こんな事しやがっておまえ、なあ! こんなことしてどうなるかわかってるか、おまえ!?」
激しく捲くし立てる榊原に、壁に張り付いたままのヤギは、何かを悟るようにして静かに眼を閉じ、「シャチョさん…」と霞むような声で囁いた。
「早くエレベーターを動かせ!」
「シャチョさん…」
「動かせ!」
殺気立った榊原にドライバーを向けられても、ヤギは表情一つ変えず、眼を閉じたまま囁くような声で「シャチョさん…」と何度も反芻し続けるだけだった。
しだいに、榊原も冷静さを取り戻し、彼の荒い息遣いだけがエレベーターの中にこもった。
ヤギは落ち着きを取り戻した榊原を察知し、静かに口を開いた。
「ワタシの故郷ハ、フィリピンのルソン島の最北端にアル、ラマンという地図ニモ載ッテナイ小さな島デス。」
「あぁ!?」
「ルソン島、主にキリスト教支配シテル、でも一部ノ島ではイスラム教や仏教シンコウしてる人、大勢居る。ラマンもソウ。ラマンはイスラム教シンコウしてる人シカ居ない。イスラム教、ホモ嫌い。ホモの奴イタラ、縄で足カラ吊るされて滝壷落とサレル。だからミンナ、女好キ。デモ中にはホモの奴モ出て来る。ソウイウ奴は、ホモ隠す、デモ隠し過ギテ、男近づかせナイ。男拒絶する、ダカラ逆に怪シイ」
「何だ…」
「ワタシもそういう奴、たくさん見たから分カル、意識スルから、余計にソウなってしまうんだネ。ワタシはあいにく女性としか付き合ったことがナイケド、ソウイウ人が日本にもたくさんイルの、知ってルシ、偏見はもったことナイヨ。大丈夫、シャチョさん、このコトは誰にも言わナイ、ワタシこれから死のうと思ってたトコだから」
ヤギの悪意のない眼差しを向けられて、榊原は自分の置かれている状況がかなりおかしな事になっていくのを察知した。自らの判断全てが取り越し苦労に終わってしまったことと、それによって生じた行動が、却って疑惑の念を相手に植えつけてしまったことに気づき、事の深刻さに体全身から嫌な汗が出始めた。
「いや違う、そう、そういう事じゃない、そうじゃない!」榊原は抗った。
「シャチョさん、もうイイヨ、もうイイ」
ヤギは駄々をこねる子供をなだめるかのように首を横に振った。
「いや違う、本当にそういう事じゃないんだ!!」
「ワカッタ。ソウいう事じゃないコトにしよう」
ヤギはそう言うと、ゆっくりと壁から躰を離し、ゆっくりと榊原のドライバーの握っている拳に片方の手を差し伸べた。
「モウ、ソンな危ないものはシマおう…」
榊原は全身の力がすでに抜けていた。ドライバーはヤギの分厚い沼地のような感触の手にずるっと呑み込まれ、作業カバンに戻された。
脱力した榊原は、ヤギとの距離をさらに取るようにして、エレベーターの一角に座り込んで、そのまま俯いた。惨めとかそういう感情を通り越し、もう全てがどうでもいい気がした。
「六本木をテニスルックで歩く奴なんか、ホモしかアリえないと思っテタけど、やっぱりそうだったネ」
ヤギはそう言うと、偏見のない眼差しで榊原を暖かく包みこんだ。
エレベーターに閉じ込められて、一時間が経過していた。
榊原は腕時計でそれを確認して項垂れた。まだ一時間しかたっていないことに呆然とした。体内感覚ではもうすでに半日は閉じ込められているような気がしていた。
榊原はワイシャツのボタンを三つ開け、深い嘆息をもらした。
―――室内がさっきより熱くなってきたように感じる。それに息苦しい、酸素が薄すぎる―――
榊原は額から流れだす汗を手の甲で拭い、ヤギの後ろ姿を眺めた。
ヤギは作業用カバンから通気孔を開けるドライバーを使い、操作パネルを弄っていた。彼の足元には、操作パネルを覆っていた銀の基板と、錆びたナットが散乱している。
「どう、動きそう…」榊原は他人事のように訊ねた。
「ドウヤラ、無理そうだヨ」ヤギはあっけらかんと答えた。その口調は恐ろしく楽観的で清々しくもあった。
榊原は苛立った。ヤギの状況を理解出来ているのかわからない気の抜けた態度は不気味さを通り越して、すでに大きなストレスとなっていた。謂れないホモ疑惑までかけられた挙句、榊原はヤギから一定の距離を置かれているような気がしていた。距離をとりたいのはむしろこっちのはずなのに。
榊原は堪りかねたものを少しでも吐き出すために、ヤギに訊ねた。
「なんで君は、そんな態度なの?」
「態度って?」ヤギは眼を大きく開け、虚をつかれたような表情をした。またその表情が榊原をさらに苛立たせた。
「君のさっきからのその、態度だ。操作パネルいじっている時に、少しだけ鼻歌うたったろ。今の状況、本当にわかってるの?二時間もたってるのに、外の人間が気づかないんだぞ。おかしいと思わないか? 外が大火事だったらどうする」
「シャチョさん、焦ったトコロで、状況はナニも変わらないとワタシは思うよ。無駄な体力を消耗スルなら、イッソのこと、この状況を楽しんだホウがイイ。ソレに外は大火事じゃナイヨ…」
「なんでわかるの」榊原が訊ねると、ヤギはそれを受け流すかのように彼から顔を背け、一角に座り込んだ。
「シャチョウさん、ワタシには危機感というモノ、ナイね。人生でヤルベキ事、全てやり終えてしマッタ… ダカラ外が大火事だろうト、大地震だろウト、ワタシにとってはアマりどうでもいい」
ヤギは諦観の佇まいで答えた。その表情はやけに清々しかった。
「死のうとしてたって…?」
榊原は始めてヤギの内面にほんの少しだけ興味を持った。というよりこのまま、この密室でこの男をただの頭のおかしい外国人にしてしまっていては、自分の気が持たないと思った。
「このエレベーター、このビルで一つだけの屋上へ続く。ソコから飛び降りレバ、ラクに死ねるとオモッたんダ、ソレがこんな事になるなんてネ」そう言って、ヤギは僅かに頬を緩めた。
「お子さんが亡くなったのが原因?」榊原は訊ねた。
「アァ、そうだネ、島にオいてきた一人息子だったから、その分、悲しみは大きかったヨ」ヤギの眼はしだいに虚空を見つめだした。
「イスラム教は自殺を禁止してるんじゃなかったっけ?」
榊原が訊ねると、ヤギは静かに頷いた。「いい質問だネ、シャチョさん、重要なのはソコなんダ」
「ワタシの故郷、ラマンの人々は、外の世界ニ、モトモトあまり興味ナイ。生まれたトキから、イスラムの教えを叩き込まれル。他の宗教を信仰シテル国、糞味噌に言ウ。日本もそのひとつダタヨ、日本人、何かあればすぐ腹切りする野蛮な民族、ワタシのお爺さんはルソン島で日本兵が自殺するトコたくさん見たと言ってたネ、ワタシはその話ヲ子どもの頃カラ、聞かサレて育ったから、日本人に対する凶暴なイメージたくさんあったヨ。でも大人になって、そんな民族が、アメリカに次ぐ経済大国だと知って、ワタシ凄く驚いた。ドウしてそんな凶暴な民族ガ、経済大国にナリ得たのか、子供心にワタシは日本という国にものスゴク興味が沸いたネ。
大人になって、マニラに居た親戚にお金カリテ、日本の大学に留学シタ。7つになるトビーを島に置いていくのはつらカタけど、仕方ナカッタ。日本ノお金を送金すれば、トビーには、今と違う生活与えてあげることがデキル。それを考えたら、二、三年は彼と離レルの我慢できたヨ。トビーはワタシが行くの嫌がったけど、日本へ行って安室奈美恵、誘拐してクルと言っタラ、すぐに納得してくれタ。
日本に来て、マズ驚いたのはその人の多さネ、交差点なんかに密集してる人集りが、皆それぞれ違う方向を向いて、肩もぶつからずに、スイスイと歩いてる。ワタシなんか、日本語も分からないし、地図も持ってないカラ、ただ立ち尽くすしかナカタヨ。
日本の生活は慣れるのに大変だったネ、特に食べ物は注意してタ。味の素に豚のエキス入っていたなんて聞いたら、調味料一つにも注意払わないとイケない。女性が腰まで届きそうなミニスカート履いてるのにも驚いた。あれで中学生だってネ。ラマンではあんなコトをしたら、縄で足から吊るサレテ滝壷落とサレル。
とにかく、日本での生活は、何から何まで全部ワタシの予想を遥かに超えテタ。でもワタシはそんな日本がすぐに好きになっタ。日本の人々の習慣ハ、理解出来ないケド、彼らは常に礼儀正しい、サムライの精神は今も根付いてると実感シタヨ。
でも、しばらくしてわかっタンたんダ、そういう実感がワタシの勘違いダッテことニ」
ヤギの表情が曇った。榊原は関心を寄せるように聞き返した。「勘違い?」
「ある日、ワタシが電車に乗っていたら、一人の男がワタシの斜め前に座った。男は周囲ヲ見渡すと、扉の近くに立っていた女の人に眼をつけて、立ち上がり背後から近づいタ。すぐに女性の悲鳴が聞こえて、ワタシは男が彼女の躰を触っているのに気づいタ。ワタシはその男の行為にも驚いたが、それより驚いたのハ、電車の中に30人以上の日本人がいて、彼らの誰一人として彼女を救オウとする人ガ居なかった事ダ。皆知らんふりしてタ。中には寝たフリをしてる奴もいたネ。電車の中は、女性の悲鳴だけがこもってたヨ。ワタシは堪えキレずに、立ち上がり男の手を掴んだ。男はその時、ワタシに何か叫んダ。とにかく差別的な言葉ダッタと思ウ。それでもワタシは男の手を離さなかタ。男はワタシに怯むト、チョウど止まった駅から一人で降りて逃げタ。逃げた男は後日逮捕されたらしいけド、テレビで常習犯だっタというのを知って驚いたヨ。あの男は以前にモ電車の中で、あの犯罪をやってのけてタ。乗客の誰一人として、それをトガめる者居ないどころカ、ソレを後で車掌に知らせる人もドウヤラ居なかったらしいネ。ワタシの国では考えられない。
アレほど日本人に失望した日はないヨ。サムライなんてどこにも居なかっタ。みんな半径3メートルで生きてル。礼儀正しいのは、たんに他人との摩擦がヤッカイだかラ。日本人の美徳ハ、他人の人生に関わりたくないという精神から生まれテル。ショセンその程度だったんダ」
ヤギは言い終わると、榊原を鋭く見つめた。
ヤギの射抜くような眼光は、彼の躰を一瞬、硬直させた。
「シャチョさんだったらどうしてタ?」
「えっ」
「シャチョさんが、あの電車に乗っていたとしたら、どうしてタ?」
ヤギの推し量るような眼差しに少しばかり威圧感を感じたが、榊原は臆する色もなく答えた。
「…どうしてたって、う~ん、あぁ…たぶん、君と同じことをしてたんじゃないかな」
「ナゼそう言えるル?」ヤギの声音が少しだけ刺々しくなった。
「なぜって、その行為を目の当たりにして見て見ぬ振りは出来ないでしょ、どう考えても。誰かが困っていたらそれがいくら他人でも、手を差し伸べる。綺麗事のように聞こえるけど、当たり前だし、人間として当然のことだ。まぁたしかに、君の日本人への洞察は的を射ているかもしれないけど、それだけで日本人全体をこうだと決めつけるのも時期尚早だと思うよ。僕は君の言う半径三メートルの日本人とは違う」
「それはよかっタ」
ヤギはそう言うと、安堵したように壁にもたれた。
「でもシャチョさん、同じことをトビーの前で言えるカ?」
ヤギの突然の言葉に榊原は動揺した。
「あ?」
「トビーは、シャチョさんところの洗剤で死んだんダ…」
ヤギは静かに言い放つと、無表情のまま、刺すような眼光を榊原に向けた。
エレベーター内に息が詰まるような静けさがおとずれた。
榊原は面食らい、思考停止した。体全身に冷水を浴びせられたような気がした。ヤギは感情がこもっていない表情で、恐ろしく淡々と語り始めた。
「息子ガ病気ダト親戚から連絡受けテ、ワタシはすぐに日本からラマン戻ったヨ。そこで一年ぶりにトビーと会った。でもワタシは、彼の姿見て驚いタ。体全身が枯れ枝にみたいに細くなってテ、肌からは赤い湿疹みたいなものが無数にできてタ。発熱が続いて、下痢や嘔吐も絶えなかっタ。ワタシは最初、マラリアかと思って、マニラの医者に見てもらっタ。でも医者はマラリアではなくて、化学物質を体内に入れたことによっておきる症状だと言っタ。ワタシはその時、トビーが何か誤って、毒物を呑み込んだと思っタ。でも症状はトビーだけで終わらなかタ。ワタシの親類、近所の人々、ツギツギにトビーと同じ症状にかかっていっタ。もし何かの感染症だとしたら、ワタシにそれがうつらないのはオカシイ。ワタシは原因を突き止めるタメに、彼らの共通点探したヨ。そしたらわかったんダ。病気になりダシタ彼らにはある共通点ガあッタ」
「共通点?」榊原は訊ねた。
「ミンナ症状出る二週間以内に、ある魚を食べてたんダ。それはラマンの人々は滅多に眼にすることのできない珍しい魚だっタ。どうしてそれが彼らの口に入ったのカ。答えはすぐにわかっタ。ラマン島の北の海岸に大量に打ち上がってたんだヨ、その魚が。トビーを含め、症状が出た人たちは、みんなそれを口にしてたんダ。調べてみたらその魚は、台湾の南端にしか生息しないことがわかっタ。台湾島の南端からバシー海峡を隔てて、このラマンという小さな島に大量に流れ着いてきたのサ。この意味がワカル、シャチョさん?」
ヤギの問いかけに、息が詰まった。榊原はヤギの言わんとすることを、朧気に予感していた。
「ワタシは台湾まで行って調べた。そして台湾の南端にマックスクリーンの洗剤工場があることを知った。マックスクリーンは、台湾市場に進出してきたこの会社ダ。ワタシに近くに住む人々に、イロイロと聞いて回っタ。すると一人の漁師から漁業中に奇形の魚を大量に捕ったと聞いたのデ、その魚を見せてもらった。驚いたヨ。その魚は、ラマンで死んでいた魚と同じ種類だった。台湾では以前、この魚を発見した住民が、水質汚染の疑いがアルとして公安局に訴え出ていたのニ、なぜかその訴えは強引に退けられてイタ。私ソレ知って愕然としたヨ。マックスクリーンという会社が何かしらノ、圧力をかけたに違いない、私はそう判断し、その魚を持ち帰り、日本へ行って、大学で調べてもラッタ」
そう言うとヤギは屈んで、作業カバンからガラスの密封瓶を取り出し、榊原の顔の前に突きつけた。密封びんの中には少量の液体が入っていた。
「シャチョさん、この瓶に入ってるもの、ワカル?」
ヤギの問いかけに、榊原は答られなかった。心臓の鼓動が外まで聞こえそうなほど高まり、全身の血が一気に逆流するような気がした。
「わからない?そんなはずはないヨ。これはシャチョさんが作った合成洗剤の中に含まれている成分なんだかラ、これのせいでトビーは最後までたくさん苦しんダ」
しだいにヤギの表情が曇り始めた。声音から腹の底に押さえ込んだ怒りが漏れているように聞こえた。
榊原はその瞬間、諦めに似たような感情と共に直感した。
――このエレベーターから無事に出ることは、もしかしたら無理かもしれない――
この男の言っていることが本当だとしたら、この瓶に入っている液体はおそらく家庭用洗剤「エフロン」の中の成分なのだろう、と榊原は思った。台湾国内向けに製造した「エフロン」の中に、合成洗剤の性能を向上させる成分を多く入れすぎて、その中に残留性有機汚染物質が入っていることも彼は知っていた。そしてその「エフロン」の製造過程でどうしても出てしまう廃液を台湾の海に流していたことも承認済みだった。毎日150トンの廃液を流すことによって起きる、環境への影響に危惧の念がなかったわけではない。しかし多少の汚染物質なら海に放流しても生分解性によって無機物に分解され、環境に影響を与えていないことが報告されていたし、現に今まで何の問題もなかった。すべては先代から受け継がれた悪しき慣習だった。
「シャチョさん、ワタシはトビーが死んで、生きる希望をなくしたんダ。でも自殺は神に反すること、自殺をする人間は我々の世界では地獄でひたすら罰受けル。でも殉教なら話は違ってクル。神の道に戦うものは、たとえ戦死しても大きな褒美を天国で与えられる。監視員室に居る仲間も覚悟を決めてるヨ。彼らの家族もトビーと同じ目にあったんダ」
榊原は目眩がした。マックスクリーンの社長を勤めて三年、廃液を海に放流していた事実に後ろめたさがないわけではなかったが、まさかこんな形でツケが回ってくるなんて思いもよらなかった。全ては身から出たサビだが、あまりにもこの状況は、唐突でリアリティがなさすぎる。目の前で起こっていることに頭と躰がまったく付いていかない。
「シャチョさん」
ヤギの声が聞こえた。「シャチョさん」
榊原は我に返った。
「黙ってたっテ、助けなんか来ないヨ。外には故障中って張り紙してあるんだかラ」ヤギはそう言うと、屈託の無い笑顔を見せた。
「どうする…ほりだ…」
「エッ」
「俺を、どうするつもりだ…」
榊原は震える声で、一番聞きたくない質問をした。
「シャチョさん、ワタシは雑誌でシャチョさんが、消費者の身にナッテ商品づくりをしていくと言ってるの読んで、とても怒りを感じたネ。こいつにトビーと同じ苦しみ与えてやろうと思っタ。でもアナタにも大切な家族がいル、ワタシも鬼じゃなイ。だからあなたに一つだけチャンスアゲル」
ヤギはそう言うと、片手に持っていた瓶を振った。「この瓶の中に入ってル、成分の名前、イってみロ」
「成分?」
「ソウ、シャチョさん、ただそれだけでイイ。自分で作った洗剤にどういう成分が入っているのか知らズニ、消費者ニ売ってるわけじゃないでショ。この成分が、トビーやラマンの人々の命奪っタ」
「あぁ…」
榊原は平静を装いながら、心のなかで頭を抱えた。
―――思い出せない―――
台湾の公安局から難分解性有害有機化学物質の影響ありとのことで、その成分の名称が表記された報告書が榊原の元に届いたとき、彼は上層部と相談し、事態をなるべく穏やかに収束すべく、その報告書を事務的に処理し、台湾の公安局に掛け合った。そしてそれ相応の袖の下を渡して、廃液の量を一気に減らすとの条件に、事態を穏やかに収束させた。その後になって、ヨーロッパの環境省が発表した新規有害物質リストに、報告書に表記されていた物質の名前が特記されていたことを、彼は知らなかった。
―――思い出せ、あの時俺はあの報告書を見たはずだ。成分の名前が長ったらしく書かれていたのも覚えてる、なんちゃらベンゼン、たしかそんな感じの名称だったはず、くそ、思い出せ、あれだけ耳が痛くなるぐらい聞いただろ、なんで思い出せないんだ、―――
このエレベーターに閉じ込められていなかったら、すぐにでも思い出せただろう、と榊原は思った。
その時、エレベーター内に携帯の着信音が鳴り響いた。
榊原はそれが自分の携帯だということに気づいた。
ヤギは作業着の内ポケットから携帯を取り出すと、しばらく画面を見つめ、彼に手渡した。
「奥さんからだネ」
「えっ」
ヤギの行動に榊原は拍子抜けした。それは紛れもなく彼の携帯だった。
―――そうか、俺をエレベーターにおびき寄せるために、どこかの拍子で携帯をかすめたのか――
「シャチョさん、思い出せないなら、奥さんに聞いてみるとイイヨ」
ヤギのそう言うと、僅かに笑った。「そのかわり、今の状況を教えちゃダメだヨ」
榊原は懐疑的になった。
―――どうする… こいつのことだ、どうせ俺が成分の名前を妻から聞き出せたとしても、何かしらの因縁をつけてきてくるに違いない。もしここで俺が彼女に助けを呼べば、こいつは俺を有無をいわさず殺そうとするだろう。向こうは180センチの巨漢、こっちは170センチの小男。もしエレベーター内で争ったら、間違いなくこっちが負ける。もうドライバーを抜き取る隙もない―――
携帯の画面を見ると、バッテリーがほとんど切れかかっている。長くは話せない。
榊原は思い悩んだ末、もう一縷の望みに賭けるしかない、と覚悟し携帯をとった。
「ちょっと、あなた今、どこに居るの!?」
妻の声がした。
「…いやぁ、今ちょっと重要な会議が立てこんでてなぁ。夕飯までに帰れそうもないんだ、ごめん」
ヤギの顔色を伺いながら、榊原は答えた。
妻の声を聞くと、微かに涙腺がゆるんだ。もう何日も妻と会ってないような気がした。
「あぁそう」
妻の抑揚のない返答が返ってきた。「別にそんなことで電話したんじゃないの。はぁ~(深い溜息)武ちゃんねぇ…」
それから妻は刺々しい口調で何やら小言を言い始めた。その瑣末な内容は、追い詰められた榊原の耳には殆ど入っていなかった。彼は妻の言葉を遮断するように訊ねた。
「沙知絵、落ち着いて聞いてほしい、 バスルームにな、エフロンっていう洗剤が置いてあるだろう!」
榊原がそれを口にした瞬間、妻の激昂するような声が聞こえてきた。
「洗剤!? あなた、洗剤で落とせって言うの!? 絨毯のシミを洗剤で落とすつもりなの!?」
妻の返答に榊原は困惑した。
―――いったい何を言ってるんだ、この女は―――
「自分がやったことわかってるの!? 海外から取り寄せたペルシャよ! あなたそれにワイン零してるのよ、あれだけ寝る前に飲み止しのグラスほっておかないでって言ったのに!」
榊原は夜更けにワインを、妻のお気に入りの絨毯に零してしまったことを思い出した。
「沙知絵、あのなぁ、あの、そんなことは今いいんだ! 今は何も言わず、とにかくエフロンって洗剤のなぁ、ラベルに表示されてる成分を見てくれ!」
「そんなことはって今言った!? 武ちゃんにとってはそんなことでもねぇ、私にとっては重要なことなの!! 八十万よ! 室井会長の奥様にわざわざ取り寄せてもらって! 一回水洗いしただけで、繊維がどれだけ傷つくかわかってる!? 洗うならせめて環境にやさしい天然洗剤じゃなきゃダメよ! エフロンなんて、何が入ってるかわかんない洗剤なんかで洗えない!」
妻はその後も、電話口で矢継ぎ早に捲し立てた。もうすでに榊原の入る隙はなかった
―――あぁ、くそ、どうしてこういう時に限って機嫌が悪いんだ、この女は、―――
苛立つ榊原を見て、それを見透かしたようにヤギが笑い始めた。
その時、榊原は覚悟を決めた。
「沙知絵、落ち着いて聞きなさい! あのなぁ、実は閉じ込められてるんだ! エレベーターに閉じ込められてる、すぐ会社に連絡しなさい、故障中と書かれたエレベーターに頭のおかしい男と閉じ込めれてるんだ! 沙知絵!」
そう言い放った瞬間、ヤギの拳が榊原の顔面を殴打した。
榊原は目眩がして、足がもつれて床に倒れ込んだ。
「シャチョさん、ルール違反だヨ」ヤギは抑揚のない声で言った。
「え、なに、なに!?」
妻の声が携帯越しから聞こえる。榊原は倒れたまま携帯に手を伸ばそうとしたが、寸前のところでヤギに踏みつけられてしまった。携帯はヤギの作業靴の下に脆く崩れた。
「シャチョさん恐ろしい人、合成洗剤にドンナ毒が入ってるのかスラ知らないナンテ…」
ほとほと愛想が尽きた、と言わんばかりの表情でヤギは榊原を見下ろした。
榊原は殴打のはずみにより、朧気だった記憶が鮮明になりつつあった。
「ポリ、ポリオキチドクロロベンゼン、 思い出した、 ポリオキチドクロロベンゼン、違うか!?」
榊原はヤギを見上げるようにして叫んだ。
「もう遅イヨ…」
ヤギはそう言うと、片手に持っていた密封瓶を床に叩きつけた。密封瓶は音を立てて粉々になり、中の液体が床に流出した。
ポリオキチドクロロベンゼンは、一瞬にしてエレベーター内の床に隅々まで行き渡った。
榊原はすぐに、自分の鼻をつく刺激臭に気づいた。その刺激臭は彼の鼻孔を通って、脳まで達すほど強烈な痛みをもたらした。彼はその時、換気口がないと言っていたヤギの言葉を思い出した。
ポリオキチドクロロベンゼンの毒素が空気中に蔓延し始めている今、換気口がないという事実は、すでにエレベーター内がガス室と化していることを意味していた。榊原は目前に死が迫っていることを知って絶望感に襲われた。
―――死ぬ―――
絶望の境地に達した瞬間、動機が激しく打ち始めた。呼吸がしにくくなり、喉が焼けつくように熱い。しだいに躰の四肢が電流を流しているような痛みと共に痙攣し始めた。
朦朧とした意識の中、榊原は作業鞄からドライバーの先端が覗いているのを見つけた。
ヤギは作業鞄の傍らで、壁にもたれかけるようにして体勢を必死に保とうとしている。ヤギの下顎から胸元にかけて、彼が吐き出した胃の内容物でまみれていた。虚ろな眼差しで、あの鋭い眼光はすでに失われていた。
――いや、無理だ、俺はこんなところで死ねない―――
榊原は作業鞄からドライバーを取ると、体全身の余力を振り絞って立ち上がった。目眩がしたが、壁に寄りかかりながら体勢をなんとか維持した。
―――息をするな、息をするな―――
痙攣した両手でドライバーを、ステンレス製の扉の閉じた隙間に突き立て、奥までねじ込んだ。ほんの僅かな隙間が開き、榊原はそこに両指を入れ込んだ。
―――頼む、頼む、―――
余力を両腕だけに集中させた。
たとえ毒を吸っていても、死を回避しようとする人間の力は、計り知れないものがあった。
エレベーターの扉は、ガコンという音を立てて、四十センチほど開いた。
―――よし、やったぞ、よし!―――
榊原はその四十センチの空きに躰を無理矢理、ねじ込ませた。
上半身だけ外に出した状態で、大きく息を吐いて、深く吸った。まだ全身の痙攣と、鼻孔から頭のてっぺんまで長針で刺したような痛みはずっと続いていたが、それでも外に出られたという実感はあり、深い絶望感から一気に抜け出せたような気がした、そんな矢先だった。
「シャ…チョ…さ」
ヤギの声だった。
ほとんど聞こえるか聞こえないかのか細い声量だったが、体全身の余力を振り絞って腹の中から出したその声は、榊原の耳に不穏なものを感じさせた。
彼の表情を見ることは出来なかった。
四十センチの隙間は、大人一人分を通すには僅かに足りず、榊原は扉に挟まれたまま、外にも出られず、中にも戻れない状態に陥っていた。
「……切腹…………………」
ヤギが死に瀕している寸前の弱々しい声で、そう言ったのが聞こえた。それから操作パネルのボタンを押す音も聞こえた。
絶望的な予感がした。
「えっ、ちょっと待て! ちょっと待て!」
と言いたかったが、痙攣と頭痛でほとんど声が出せなかった。
エレベーターのモーターが回転し始めて、ワイヤーロープが釣り上がる音が聞こえた。
榊原の下半身を中に入れたまま、エレベーターは緩慢な動きで上昇し始めた。
それと同時に、外に出たままの上半身も鉄の扉を擦るようにして上昇した。
眼前の外の床がしだいに遠くなりだすと、ゆっくりと、背中に壁の重圧が圧し掛かり、腹部をエレベーターの床が強烈に圧迫し始めた。
死に至るまで、僅かな時間だった。走馬灯もなかった。
絶望感とか、そんなものでは収まらない感情が沸き立った。
―――俺が海に放ったポリオキチドクロロベンゼンをバクテリアが食べ、そのバクテリアを魚が食べ、その魚をラマン人が食べ、その魚によって死んだラマン人の復讐の為に、俺はポリオキチドクロロベンゼンによって、エレベーターに挟まれて死ぬ―――
「なんて人生だ」
そう呟いたとき、榊原は始めて脊椎の折れる音を聞いた。
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