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短編集

踏切の向こうの人影

作者:

 朝七時十五分。

 カン、カン、カン――と遮断機が規則正しく鳴り、赤いランプがじりじりと明滅する。線路を挟む空気は、冬の朝らしく透き通っていて、吐く息がすぐに白くほどけた。

 住宅街の端にあるこの踏切は、通勤と通学の時間帯だけ賑わいを見せる。それ以外の時間は、猫が堂々とレールを横切るほど静かだ。舗装の割れ目からは、どこかしら緑色の雑草が覗き、遮断機の黄色と黒の塗装も少しずつ剥げ落ちている。だが、僕にとってはここ一年、毎朝必ず通る、半ば習慣のような風景だった。


 彼女を初めて見たのは、去年の秋の終わりだった。

 踏切の向こう側、線路脇のポールに背を預けるようにして立つ、小柄な女性。肩までの黒髪を低い位置でひとつに結び、淡いベージュのコートの襟を指先でぎゅっと寄せている。片手には薄いトートバッグ。

 列車が通過する間、彼女は何をするでもなく、視線を遠くに投げていた。遮断機が上がると、ふとこちらを見て、軽く会釈する。それは挨拶とも呼べない、ごく小さな仕草。でも、その一瞬で、不思議な温度が胸に灯った。


 それから毎朝、僕らは踏切越しに顔を合わせるようになった。

 互いの名前も職業も知らない。けれど、遮断機が降りている短い時間だけは、確かに同じ場所、同じ空気を共有していた。冬の白い息、春先の花粉を含んだ風、夏の朝の湿った熱気――全部が、彼女と一緒に刻まれていった。


 ――ある朝、彼女はいなかった。

 踏切はいつも通り赤く点滅し、列車は時間通りに風を切って通り過ぎる。けれど、その向こうにあるはずの姿はなかった。

 翌日も、また翌日も、同じだった。


 日常の一部が欠け落ちたような感覚。カップに半分だけ注がれたコーヒーみたいに、どうにも物足りない。僕は理由もなくそわそわし、遮断機が下りるたびに向こう側を覗き込んでいた。


 そしてある日、ふと思い立った。

 遮断機が上がった瞬間、足を踏み出す。カンカンという残響がまだ耳に残る中、線路を渡った。


 向こう側は、想像していた以上に静かだった。

 住宅が密集し、細い道がくねくねと続いている。洗濯物を干す匂いや、パン屋から漂う甘い香りが混ざり合っている。少し歩くと、小さな商店街に出た。シャッターを閉めた店が目立ち、空き店舗のガラスには古びたポスターが貼られたまま色褪せている。


 その一角、花屋の前で足が止まった。

 ガラス越しに、ベージュのコートを着た彼女が見えた。淡いピンクのガーベラを抱え、笑顔で客と話している。

 胸が跳ねるように高鳴る。僕は戸を開けた。小さな鈴が澄んだ音を立てた。


「いらっしゃいませ」

 近くで聞く彼女の声は、想像していたよりも柔らかく、少し高めだった。

「あの……ここ、前からやってたんですか?」

「はい。父がやっていた店で、私は去年の秋から手伝い始めたんです」

 彼女は手際よく花束を紙で包みながら、こちらをちらりと見た。

「……もしかして、踏切でよくお会いしてましたよね?」

「あ……やっぱり、気づいてました?」

「はい。毎朝、お互いなんとなく会釈してましたよね」

 その瞬間、言葉にできない安堵が胸を満たした。


 それから僕は、理由をつけては花屋に立ち寄るようになった。誕生日でもないのに友人に花を贈ったり、部屋に飾ると言って小さな鉢植えを買ったり。

 会話は他愛もないものだったが、花の名前や季節の香りの話をしていると、時間はいつもあっという間に過ぎた。


 冬の終わり、彼女――綾子さんは、静かに告げた。

「実は、店を閉めることになったんです。母の介護で、実家に戻ることになって」

 胸が詰まるような感覚。それでも、どうにか笑顔を作って、「そうなんですか」とだけ答えた。


 最後の日、僕は踏切を渡って花屋に向かった。

 店内には、春を待つような淡い色の花々が並んでいた。ラナンキュラスと白い小菊を選ぶと、彼女は丁寧に包みながら言った。

「……毎朝、踏切で見かけるのが、楽しみでした」

 その言葉は、柔らかいのに、鋭く胸の奥に届いた。


 別れの会釈をして、僕は花束を抱えて踏切を渡る。

 列車が通過し、風が頬をかすめた。もう向こうに彼女はいない。

 それでも、遮断機の向こうで交わした小さな会釈は、当分消えそうになかった。



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