第一章:旅館修復の始まり 3
静たちが温泉修復作業に取り掛かる初日、まず必要なのは全体の清掃と修理に使う資材の準備だった。苔むした湯船の清掃や配管の修理には、専用の道具が必要だが、月影館の倉庫には使い物にならない古い道具ばかりだった。
「このままじゃ手が足りないわね。」
静は苔の生えた湯船を見つめながら呟いた。
「早めに必要なものを洗い出して、準備しましょう。」
エリオットがメモを手に取り、冷静に答えた。
まず、修理に必要な部品や資材をリストアップする作業から始めた。グリゴルがボイラー周りの部品を点検しながら、ひとつひとつ状態を確認する。
「ボイラーの調子は想像以上に悪いな……。こりゃ、バルブと燃焼装置を新調しないとどうにもならねぇ。」
彼は顔をしかめながら部品を指し示す。
「配管も交換が必要です。古い配管では、温度のムラが出てしまいますね。」
エリオットは湯船から引かれた管を調べながらそう言った。
静はリストに次々と必要な部品を書き加え、緊急性の高いものから優先して調達する計画を立てた。
「まずは手持ちの予算内で揃えられるものを優先しましょう。」
静がそう提案すると、エリオットはメモを閉じて頷いた。
「それじゃあ、僕が地元の業者に掛け合ってきます。特殊な部品は取り寄せになるので、少し時間がかかりますが、手配はすぐに始めます。」
エリオットはその場で身支度を整え、さっそく出発した。
一方、静とリリィは、温泉全体の清掃に取り掛かる準備を進めた。長年放置された温泉には、苔だけでなく砂や枯葉も溜まり、掃除を始める前に不要なものをすべて取り除く必要があった。
「お婆ちゃん!私、掃除がんばるからね!」
リリィは元気いっぱいに声を上げ、ほうきを振り回して廊下を掃き始めた。
静は笑みを浮かべながら、彼女のやる気を見守った。だが、一筋縄ではいかない苔の除去作業にリリィも悪戦苦闘していた。
「この苔、すごい粘り気だね……。水だけじゃ取れないや。」
リリィは少し困った表情を浮かべ、手にした雑巾を絞りながら言った。
「大丈夫、焦らなくていいのよ。少しずつ進めていきましょう。」
静はリリィを励まし、二人で清掃用の道具を揃えながら、順々に作業を進めていった。
苔の除去と並行して、グリゴルは排水設備の清掃を担当した。彼は大きな体を活かし、重い鉄製のカバーを持ち上げて排水溝の中を確認する。
「見ろ、この詰まり具合。こんなんじゃ水が流れるわけがねぇ。」
彼は愚痴をこぼしながらも、手際よく詰まった泥や枯葉を取り除いていく。
「思ったよりも厄介ね……。」
静が排水溝を覗き込むと、その深さに少し驚いた。
「でも、グリゴルがいれば頼もしいわ。力仕事は任せるわね。」
「おうよ、やるからにはきっちり仕上げてやるさ。」
グリゴルは満足げに笑い、作業を続けた。
初日のうちにリストアップした資材と道具の調達依頼を終えたものの、特殊な部品の取り寄せには数日かかることが判明した。静たちは、その間にできる限りの清掃と修繕を進めることにした。
数日が経ち、リリィと静は湯船の苔をほとんど取り除いた。苔の下から現れたひび割れや腐食部分も、グリゴルの協力で次々と修復されていく。
「この湯船、手をかければまだまだ使えそうだな。」
グリゴルがひび割れを補修しながら言った。
静はその言葉に安堵し、彼の頼もしさを改めて感じた。
「配管の中もかなり汚れているけれど、掃除をすればなんとか使えそうね。」
静はエリオットが持ち帰った掃除用具を使い、管の内部をきれいにしていく。
清掃作業が進むにつれ、旅館の温泉が少しずつ本来の姿を取り戻していく様子が目に見えてわかるようになった。静は、ただ修復するだけでなく、訪れる客が快適に過ごせる空間を作り上げることにも意識を向けた。
「この温泉が、また多くの人に愛される場所になりますように。」
静は心の中でそう願いながら、丁寧に掃除を進めた。
しかし、作業が順調に進む一方で、新たな課題も浮かび上がってきた。古い配管の一部が思った以上に劣化しており、交換が必要になったのだ。これにより、ボイラーの試運転が予定よりも遅れることが判明した。
「こういうこともあるさ。」
グリゴルが肩をすくめて言った。「でも、焦らずやるしかねぇ。」
「ええ。焦らず、一歩ずつ進めましょう。」
静は冷静な表情で応じた。