プロローグ: 異世界への扉
田中静は、まぶたの裏に感じる光のぬくもりをぼんやりと感じながら、長い人生を終えようとしていた。病室の窓から差し込む日差しが、静かに横たわる彼女の顔を優しく照らしている。外には薄曇りの空が広がり、鳥のさえずりがかすかに聞こえる。家族に囲まれ、彼女は今、その最期の時を迎えようとしていた。
彼女の手を握っているのは、長女の真由美。彼女もまた年を重ねたが、母の静に比べればまだまだ若い。真由美の涙がこぼれるのを感じながら、静は自分の人生を振り返っていた。決して波乱万丈な人生ではなかったが、家族に恵まれ、娘や孫たちに囲まれて最期を迎えられるということは、何よりも幸せなことだと感じていた。
「お母さん、ありがとう。お疲れ様でした……」
真由美の声は、涙混じりで震えている。静は微笑みながら、かすかに頭を振った。「大丈夫よ、ありがとうね。もう十分に……」
言葉を紡ぐことはできなかったが、心の中でそうつぶやいた。彼女の視界が少しずつぼやけていき、聞こえていた鳥のさえずりも次第に遠のいていく。目を閉じると、まるで深い眠りに誘われるかのような感覚が静を包み込んだ。
静かに、深く、そして温かく――。
――そして、次に目を開けたとき、彼女はまったく別の場所にいた。
まばゆい光が差し込む世界。足元には青々とした草が生い茂り、どこまでも続く青空が広がっている。目の前には高くそびえる山々と、静かに流れる川。その風景は美しく、息を飲むほどに見事だった。静は目をぱちぱちと瞬かせた。どこだろうか。ここは、病室ではない。彼女はすぐにそのことを理解した。
「……ここは、一体どこなの?」
自分の声が、自分のものとは思えないほど若々しいことに気づき、静はさらに驚いた。慌てて自分の手を見下ろす。そこには、しわくちゃの手ではなく、若々しく血色の良い肌があった。自分の手だと認識するのに時間がかかるほど、その変化は劇的だった。
「これは……私なの?」
驚きと混乱が入り混じる中で、静はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。どこを見ても見知らぬ景色。目に映るものすべてが異質で、現実感がない。彼女の目の前に広がる異世界の風景は、まるで夢の中にいるかのようだった。
「これは……夢なのかしら……?」
だが、その問いに答える者は誰もいなかった。静は少し震える手で、自分の顔を触った。肌はしっとりとした感触を保ち、髪の毛もずいぶんと若返っている。だが、現実なのか夢なのか、判断する材料は少なすぎた。
その時、遠くから建物のようなものが見えてきた。木造の和風建築。静は不思議に思いながらも、その建物に近づいていった。瓦屋根と木の梁、広がる庭の風景がどこか懐かしく、温かい気持ちを引き起こした。近づくにつれて、それが旅館であることがわかる。しかも、それは日本の旅館にそっくりな造りだった。
「こんな場所に旅館が……?」
看板には「月影館」と書かれている。日本の旅館名だ。だが、ここは日本ではない――そう思わざるを得ないほどの異質さが漂っている。それでも、その旅館に引き寄せられるかのように、静はふらふらとその門をくぐり、中に入っていった。
旅館の中は、薄暗く、ひっそりと静まり返っていた。どこか懐かしい畳の匂いが鼻をくすぐり、木の床がきしむ音が耳に届く。ここが現実だと感じられる瞬間だった。
「……ここは、本当に旅館なの?」
彼女は自分に問いかけるように呟いた。すると、突然背後から声が響いた。
「お待ちしておりました」
驚いて振り返ると、そこには一人の若い女性が立っていた。白い和服をまとい、優雅な姿勢で立っている彼女は、静を見つめて微笑んでいた。美しく整った顔立ちで、瞳には深い知恵と静寂が宿っているように見えた。
「ようこそ、月影館へ。私はこの旅館の精霊、霞と申します」
「……精霊?」
静はその言葉に耳を疑った。精霊――そんなものは童話や神話の中にしか存在しないはずだ。それが目の前に立っているということは、ここは本当に異世界なのだろうか。彼女は混乱し、言葉を失ったまま霞を見つめた。
霞は静かに微笑みを浮かべ、続けた。
「こちらは異世界でございます。そしてあなたは、ここに転生されたのです。私たちの旅館、月影館を再建するためにお力をお借りしたいと考えております」
「転生……異世界……?私が、再建を……?」
静の頭は混乱の極みに達していた。現実とは思えないこの状況。自分が死んで、転生して、異世界に来たという事実を理解するには、あまりにも突拍子もなかった。霞はその様子を見ながらも、静かに説明を続けた。
「この月影館は、かつて多くの異世界の人々に愛された老舗旅館でした。しかし今ではその栄光も失われ、廃れたままです。私はこの旅館を再び輝かせるために、あなたのような知恵と経験を持つ方をお呼びしました」
「私の……知恵と経験……?」
静は自分の人生を思い返した。確かに長い間、家族を支え、家事や子育て、家庭の維持に尽力してきた。しかしそれは普通の人生であり、特別な何かを成し遂げたわけではない。それなのに、この異世界で何ができるのか、彼女にはまだ見当もつかなかった。
「……私に、できるかしら」
その言葉に、霞は静かに頷いた。
「もちろんです。あなた様が長年培ってこられた知識と経験、それは異世界でも貴重な財産です。お客様に癒しと安らぎを提供する場所を再び作り上げていただければ、きっとこの旅館は再建されるでしょう」
静はしばらく考え込んだ。転生して異世界に来たという事実を受け入れることは、簡単ではなかった。しかし、その中で一つの思いが浮かび上がってきた。かつての人生でも、彼女は家族を守り、家を維持することに生きがいを感じていた。今、この異世界で再び「守るべきもの」があるのなら、それは新たな生きがいになるかもしれない――。
「わかったわ。やってみる」
静は、覚悟を決めた表情でそう言った。霞は嬉しそうに微笑み、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。では、さっそくご案内いたします。この旅館の未来は、あなた様にかかっています」
静は深呼吸をし、ゆっくりとその場に立ち上がった。彼女の前には、未知の土地、そして未知の挑戦が広がっていた。しかし、その心には少しずつ決意が芽生えていた。
「……新しい人生か。悪くないわね」
こうして、田中静の異世界での新たな人生が始まった。