第三の言 承前
宿の小さな裏庭に立つ木の下、目の下にくっきりと隈を刻み、頬を赤く染めた、どこか意識のはっきりしていないジェナーが座って居た。
「早いなァ、ノアール」
木に凭れていたジェナーが、馬を引いて小屋から出てきたノアールに声をかける。
その姿に気付いたノアールが、馬を引き引き近付いてくる。
「……おはよう、ジェナー。昨夜はどうして部屋に戻って来なかった?」
同じ部屋で眠ることも出来ぬ程に、自分は信用ならないのかと、その瞳の険しさが語っている。
そんな様子に、ジェナーが深く溜め息を吐いた。
「そうじゃない。今さっき迄騒いでたんだ。あんたの行った後、盛り上げ過ぎて放して貰えなくなった。
食堂通らなかったのか?」
疲れ切ったように目頭を押さえ、再度溜め息を吐く。
「イゾルデに水浴びさせようと思って裏から出た」
事情を飲み込み、ノアールの表情が和む。
「荷物の用意してた方がいいかもしれんぜ。凄まじい有り様だから……」
一晩続けて歌っても枯れる気配さえみせぬ、素晴らしく鍛えられた喉に内心感心しつつ、ノアールの憎まれ口はとまらない。
「追い出されると言うのか? 喧嘩騒ぎでも起こしたか?」
「そうじゃ無いけど……。
主が、後片付けに頭痛めてる。みんな山程食って、飲んだから……」
見てはいないものの、惨状が目に浮かび、ノアールが苦笑を漏らす。
「お前らしいな」
「ほっとけ! ゆっくり眠れたあんたと違って、こっちは一晩中歌わされて寝不足なんだぞ」
「途中で手伝い女を見つけて寄越そう。安心して部屋に戻って休んでいろ」
「まだ神経が興奮してんだ。外のが気持ちいい……」
ジェナーは、ぐったりとした様子で、琴ごと膝を抱えて丸くなる。
「仕方ないな。肌着と薄衣だけでは風邪をひくぞ」
ノアールが、右肩の防具を兼ねた肩止めに手をやりマントを脱ぐ。
頭から、バッサリとジェナーに被せる。
「イゾルデの水浴びが済んだら、都を一回りしてくる。昼過ぎになる」
「分かった。殺し屋共に気ーつけてなァ」
ノアールの漆黒のマントにくるまったジェナーが、ヒラヒラと手を振って見送った。
ノアールは、満足そうに笑うと馬に跨がり、郊外に流れる川へと向かった。
約束通り、途中で口利きをしてくれる酒場に立ち寄り、ジェナーがゆっくり休める様にと、手伝いの者を数人宿屋へと向かわせる。
機嫌の良いノアールは、相場の倍を気前良く払ったため、主も気を良くしたらしく、特に真面目な者を派遣した様子である。
*
ノアールの機嫌の良さに、主に忠実なイゾルデはしっかり感染して、駄々をこねる事もなく機嫌良く水浴びを終わらせる。
都中を一周りしても余った時間は、市場へなりと寄って、何かジェナーへのみあげでも買って行こうかと、人の多い所は余り好まぬノアールが久々に足を向けた。
めったにやらぬ事をやったためなのか、余程、その手の場所とは縁がないのか……。
肝心な市場の入口で、うら若き娘達の集団に出食わして、ノアールは当惑した。
行きも返しも出来ない込み合いの中で、立ち往生と言う結果になってしまったのだ。
「一体なんの騒ぎだ……」
呆れて呟き、気を荒立てる馬から降りて、優しく轡を引いて宥てやる。
やがて、ゆっくりと人の波が動き出す。
騒ぎの中心人物らしい男が、歩き出した様子だ。
金髪碧眼、青白いと形容出来る白肌の、冷たく整った容貌に、穏やかな薄い笑みが登っている。滑らかで優雅な仕種。娘達の言葉に興じて男が、笑っていた。
イゾルデの体の影になり、その容姿を見る事が出来たのは、ほんの一瞬であった。
濃紺のくるぶしまである袷に、墨染の肩から掛ける薄布のマント。紫水晶の帯止めで、袷とマントを共に止めている。
──真官か? 随分と娘達に受けているようだが……。何処かで見たような?
擦れ違い、ようやく人の波の外に出されて、後ろを振り向く。
見えるのは、娘達よりも頭一つ高い、柔らかな金髪の後頭部だけである。
「思い出せんな」
呟くノアールに、息急き切った声が掛かる。
「騎士様! 良い所へ!」
「何だ、主人? 後片付けなら、手伝い女を寄越した筈だぞ」
投宿先の宿の主人に、ノアールが答える。
「それどころじゃありませんよ。騎士様のお連れの吟遊詩人が、魔物に襲われてます!」
「ジェナーの事か?」
ノアールの顔色が変わる。
「腕自慢の用心棒達が、こぞって助けに入ろうとしたんですが、数が多すぎて──」
皆迄聞かず、ノアールはイゾルデに飛び乗っていた。
「私は都の警備隊を呼びに行ってきます! 無理はなさらないで下さいよ!」
背後で叫ぶ主人の声など、ほとんど意識の隅に押しやっていた。
宿に近付くに連れて、騒ぎは大きくなる。反面、家々の扉は固く閉ざされている。
騒ぎに群がるのは、職を求める傭兵や術司、それに魔物の真の恐ろしさを知らぬ血気に逸った若者達。
家に閉じ籠もり、扉に魔物除けの印を切るのは、ここ数年に渡って都に出没し続ける魔物に、嫌と言う程被害を被っている市民達である。
宿の裏庭に、人垣を分けて飛び込む。
一帯が、普通人の目には写らぬ暗闇に染まっていた。その中で、数も定かで無い魔物達が獲物を狙ってウゾウゾと蠢いている。
「ジェナーッ!」
先刻別れた木の根元に、青い顔をしたジェナーがぐったりと凭れている。
闇の中、その周りだけがほの蒼い光りに包まれていた。魔物達は、ジェナーに触れようとしては、弾かれたように手を引く。と言う動作を繰り返していた。
恐怖の熱が少しずつ冷めていく。
「燐光花の香を焚きしめたマントか……」
納得して頷く。燐光花と呼ばれる、人跡未踏の険しい山の中腹に生息する花は、魔物除けになる。そう師に聞いたノアールは、術司の宣名の儀に際して、最終試験にはその花を得る事を申し出、見事やり遂げた。
呆れる師達を余所に、その花の一部でマントを燻し、残りで香料を採り、一部を瓶詰めに、残りを術司達の習練場に預けてきている。
自身は、魔に対する気配に敏感で、寝入りを襲われる等と言う事が無かったため、このような効用など思いも寄らなかった。
単なる風邪防止にかけてやっただけのマントが思わぬ救いとなったのに、満足と深い安堵を覚える。
が、それも一瞬で、険しい表情を浮かべ、ゆっくり、腕を、掌を、指を動かす。流れるような動きに合わせて、宙に光で描かれた文字の羅列が浮かぶ。
唇が小さく動いていく。それは、宙に浮かぶ文字を追っていた。闇封じの光系印呪である事に、周りの術司達が気づき、野次馬達を下げさせる。
文字の羅列が静止する。左腕が弓を構える型を、右腕が弦を絞る型をなぞる。
引き絞られた右腕の、伸ばされた人指し指と中指に、光文字が光輪型に変化して宿る。
「洌っ!」
鋭い気合と共に、右腕が大きく後ろに伸びた。光りの矢がノアールの足元から、ジェナーの間近まで一直線に走る。
切り裂かれる暗闇。光矢に触れて消滅する魔物。空間が大きく軋んだ悲鳴を上げた。
「せっかく出来た道連れを、お前達ごとき下級魔に取り込まれてたまるか!」
瞬間的に開かれたジェナー迄の道を、ノアールが走った。抜き放った細身の剣が、縋り付こうとする魔物達を切り裂いて行く。
「ジェナー!」
ほんの三ニイズの距離がもどかしく、ノアールは一気に跳躍した。
自らの結界の内に入る距離まで近付くと、躊躇うことなく呪型を結ぶ。
結界内の魔物は、その中の聖化された気に呑まれて一瞬にして塵灰と帰した。
「ジェナー、ジェナー! しっかりしろ!」
青い顔のジェナーを抱きとる。まるで力の無い体が、ノアールの腕に重かった。
「ジェナー……?」
*
薄い腐臭と闇のわだかまる通路。何処までも続く壁。折れ、曲がり、行き止まり。そして又続く。迷宮の如き壁の中、ジェナーは諦めきったやつれ顔で歩いていた。
異様な雰囲気に絶えず周囲を見回し、そろそろと歩を進める。
滞りがちな歩みではあるが、それでも先に進もうとするのは、好奇心の賜物。加えて、今の自分が、本当の“自分”では無いことを自覚しているからである。
一糸纏わぬその姿は、肉体を伴っていない。精神体とは言い難いが、“自分”と言う存在の意識の一部が、投射された状態なのだ。
『ぶ……不気味な所だなァ。“ジェナー”の奴、今度は誰に感応したんだ?』
自らの所有する晶琴を恨んで、ジェナーが愚痴る。
言織りと晶琴の繋がりは深い、奥深い精神、無意識的部分にまで干渉する深い物である。
一度、晶琴から選ばれ、または選びとり、互いに感応してしまえば、物理的な距離、物質あるいは空間を隔てようともそれを超越してしまうのである。
ジェナーの場合は特にそれが顕著であるが故に、『昔言織り』としての能力は遙かに超え、『今言織り』としての能力をも得ているのである。
故に……、その晶琴から受ける影響も並大抵の物ではない。
晶琴の特殊な波動は、誰彼構わず反応する訳ではないのだが、時としてとんでもないモノ、者、物に引きずられ、または引き寄せてしまう。当然、その所有者である、ジェナーもそれに巻き込まれてしまう訳である。
それは時として、とてつもない幸運に繋がることもあるが、大概は対処の困る出来事の発端となる。
今回はどうも後者のようだ。
何分にも放り込まれた場所が、場所なのである。
迷宮になど、極普通の物が収められている訳がない。
『せっかく良い気持ちで昼寝し──』
言葉が途切れる。驚愕と不信で真っ青になりながらゆっくりと背後を振り向く。
──なんで、……実体で無い俺を掴めるのかな~?
恐怖しながらも、それを楽しむ余裕が何処かに残る思考をしながら、強く掴まれた自分の髪の毛の先を見る。
恐怖が、一瞬の空白に変わる。
自らの髪を握りしめるモノが信じられずに、ひたすら無言でそれを見つめる。
大地に愛でられたような琥珀の肌、栗色の細く長い艶髪。翠の瞳は萌える若草を映して大粒の涙を零していた。
──愛くるしい……。大地の女神の娘御のよう……。
見惚れるジェナーに、愛らしい乙女が縋るように語りかける。
『私信じておりました。きっと助けに来て下さると……。
精霊に愛でられしお方よ、お助け下さいませ。私を解き放って下さいませ。
姫巫女様……』
『“姫巫女”? 貴方、一体だ──れ?』
問い掛けるジェナーの体が揺れた。
──おや~?
間の抜けた驚愕が、ジェナーの顔に浮かぶ。
そして──
「この馬鹿! 目を覚ませ!」
怒鳴り声と共に、両頬に、連続する強烈な平手が打ち込まれる。
「痛ひ……」
腫れ上がる頬を抱えて、ジェナーがパッチリと目を開く。
目前に、怒髪天を突いたノアールの顔。
「人の気も知らずに、熟睡するなど!」
口にするのももどかしげに、ノアールが叫ぶ。
鋭敏な感覚に支配されていたジェナーは、即座にそのノアールの怒りに感応した。
「な、何しやがんでェ! 肝心な所が聞けなかったじゃねェかっ!」
「何を寝惚けている、この大馬鹿! 周りを見て物を言え!」
怒りとしては、ノアールの物の方が強かった。
気押され、怯んだジェナーの視界に、漸く事の次第が映る。
五ニイヅ四方を埋め尽くす魔物達の群れ、群れ、群れ! 食人鬼、使い魔、人面虫、見たことも無いようなアメーバ状の魔物や集合気体のような魔物。
「……ギャ~~ッ! 何だよ、これェ?」
真っ青になってジェナーが叫ぶ。
「聞きたいのはこちらだ! お前、一体何をやったんだ?」
「し、知るかよォ! ノアール! 何とかしろ~!」
ほとんど泣き出さんばかりの勢いで、背後の木にしがみつく。
「目が覚めたのなら、結界を解くぞ」
「冗談! 俺にもやれっての?」
「因は、お前だ。責任をとれ。
お前の剣は、聖化されていた物だった筈だが?」
抜け目なく、観察されていた事を知って、ジェナーが膨れる。
確かにジェナーの持つ双剣は外見こそ地味で、一見価値が低いように見られるが、真殿において打たれた代物であり、魔物封じの力を持つ聖化された物である。
「どうなのだ?」
イライラと促されて、問われたことは真実故に否定も出来ず、黙って頷く。
「ならば、この手は、切れる筈だ。切れば死ぬから安心しろ」
「だって! 俺、剣部屋に置いてきてんだぞ!」
状況が状況だけに、ジェナーのあまりな返事に、ノアールが咎めるように眉を顰める。
「身を護る物を手放してどうする?」
「俺は、『吟遊詩人』だ! 戦士じゃねー!」
しっかりと腕の中の琴を抱き締める。
「まったく、……世話の焼ける」
頭を抱えかねない様で、ノアールの視線が、宿の二人の部屋の方に向く。
眇められる瞳。気が集中されているのが、ジェナーにも見てとれた。
両腕がスッと前に伸ばされ、掌が空を掴む。
瞬間、結界が揺らめいた。
その揺らめきに気をとられている間に、ノアールの手には、ジェナーの二振りの中剣が握られていた。
「そら。被害者出して責められたくなければ、しっかり働けよ」
ノアールが、剣を放って寄越す。
「濡れ衣だ! 覚えはねェ!」
水晶の帯布を外しているので、取り敢えず、薄衣を押さえる組み紐を剣帯代わりに、腰の後ろで鞘を交差させて剣を押し込む。
用意したのを見取って、ノアールが結界を解いた。
音ならぬ音を発して、結界が弾ける。
清浄な光と気に満ちていた中に、どっと、妖気と闇、そして汚濁に満ちた臭気が流れ込んできた。
「くそったれ! こうなりゃ自棄だ! こんな所で死ねるかよ!」
ジェナーの腰の両脇で、剣が鞘鳴りして抜き放たれる。
向かって来る獣の眉間に右手の剣が、食人鬼の喉元に左手の剣が吸い込まれるように突き入れられる。同時に傷口が筋肉の反射運動で締まる前に、目にも止まらぬ勢いで引き抜かれる。そのまま、刃は背後に隠された。
見えぬ武器は、相手を戸惑わせる。何処から繰り出されるか分からぬ攻撃、同時に無防備とも言える状態で突っ込んで来るのだ。躊躇うか、もしくは確実に倒すために、急所を狙ってくる。
ジェナーは躊躇いを許さない。そして、急所を狙う攻撃は的が絞られ、たやすく避ける事が出来る。見出された一瞬の間は、攻撃の好機。ジェナーは、その瞬間を逃すようなことは決してしなかった。
ぎりぎり迄剣は抜かぬが、一度抜けば容赦の無い攻撃を加える。自らの剣が抜かれるのは、相手を容赦する必要の無い者と見定めた時だけだから……。
「その意気、その意気」
勇戦するジェナーの姿を視界の隅に捉えながら、ノアールが呟く。
ノアールの周囲には、既に魔物の死骸が山となり、それを踏みにじっての奮戦である。
剣の一閃で、二、三匹の魔物が屠られた。その返す剣で、三、四匹が地に伏した。
長く真っ直ぐな黒髪が、時には円を描き、時には空間を切り裂く直線を描き、宙を舞う。
滑るような軌跡を残しつつ、優雅な舞いでも舞うように縦横無尽に剣が振るわれる。
相手が人では無く、むしろ害をなす魔物であるが故に、ノアールの剣は容赦が無かった。
人が相手であれば、これ程迄に苛烈で、一瞬の躊躇いも無く剣を振るう事は出来ない。
何処かに、未だ捨てきれぬ優しさが潜んでいた。それは、時に弱さに通じ、時に計りしれぬ強さに通じた。
二人の前では、殆ど虐殺の為の生贄となってしまった魔物の群れも、半刻もすると周りに群れていた人垣が仄見える程に減少してしまう。
「ジェナー、少しの間一人で頑張ってくれ」
言いざま、ノアールが背後の木の上に飛び上がる。
ほとんど息も絶え絶えの様子で、ジェナーがノアールに抗議しようとした。
が、そんな暇は無かった。
新たに食い付こうとする食人鬼を袈裟掛けに切り伏せる。
「くそったれ! 人を殺す気か!」
文句を言いつつも、上方に向かおうとする魔物達に、刃を閃かせて切り掛かる。
ジェナーには、既に戦法の影も形も無かった。向かってくる相手に、がむしゃらに剣を振るのが精一杯。倒した魔物の数を数えられたのも最初の十数匹。後は数える暇もあらばこそと言う、超過重労働であった。
木の上で、ノアールが周囲を見回す。
「術司は居るか? 手を貸して貰いたい!」
人垣の中から、数人が進み出る。
「遮壁を張ってくれ。炎系と潔系の術を司る。周囲に力が漏れると被害が大きい」
ノアールの言葉に、失笑が漏れる。
炎系もしくは潔系の術は、それぞれを極めるだけでも至難の業で有り、炎系と潔系の術を同時に司るには、相当高度な力場操作能力を持たねばならぬのである。そこまでの能力をもつ者は、相当な老境に達した者のみ。
そして彼らの前に立つのは、どう見ても二十歳前後の若僧である。
「笑わば笑え。だが、死にたくは無かろう?」
語られる言葉は、冷静そのもの。怒りや苛立ちは微塵もこもっていない。故に、重みが有り、逆らう事は許されない。
一人が、遮壁を張ると後は連鎖的に術司達は行動した。
ノアールとジェナーの立つ位置を中心に、十ニイヅのドーム型の力場が出来上がる。
やや顔を上向け、両手を僅かに広げて両脇に伸ばす。
瞳は固く伏せられ、口だけが小さく言葉を紡いでいく。やがて、その髪が、ふわふわと風に吹き上げられるように持ち上がった。
「ジェナー、待たせた!」
ふわりとその横に降り立ち、庇うように背後にやる。
「地、天、雷! 風、水、聖! 破、黎!」
烈迫の気合。
掲げていた腕を振り降ろす。
髪が強く宙を打つ。一瞬の間、黒い髪から色が失せた。
震動。そして──
地面が大きく持ち上がった。
その中心となる二人の立つ場所を起点に、大きな亀裂が走る。
噴火の前触れのように地から天に向かって雷光が走った。次の瞬間、巨大な火柱が天に走る。
遮壁に阻まれ、炎が大きな円を描いて力場の中を渦巻いた。
轟々と炎が乱舞する。死の舞い。
そして唐突に炎が消失する。
大音響。
そして──
大気が地を打ち付け、堰を切ったような大量の雨が降り注いだ。
それも、いわゆる清水と呼ばれる、微塵の生物も住めぬ程に純粋な水である。
清水は、稀にしか存在しない。深き森の奥。高く険しい山頂。荒れる海の小島。空の交差と月の合で生じる、異空間の亀裂。何れも、危険と引き換えにほんの僅かな量を手に入れるのがやっとと言う場所である。
力場全体を呑み込み、水中に没するに足る水の量である。
チラチラと陽を弾きながら、水が渦を巻く。
遮壁を破る寸前に迄膨れ上がり、やがてゆっくりと水位が下がり始める。
球状の小さな結界の中で、平然とノアールがそれを見つめている。
その横であんぐりと口を開けて、ジェナーが立ち尽くしていた。
「な……なんでェ? 最初からやれば良かったのにィ~~」
巨大な“?”マークを撒き散らしながら、ジェナーが力無く地面に座り込む。
「術を司るための印を結んでいる暇が無かっただろ?」
「こんな強い力持ってるのなら印など結ぶ必要無い筈だ! あれは、力場からの相乗効果を得る為のものだろうが!」
「私の場合は違う。『大は小を兼ねる』と思ってな。少々やり過ぎた」
「……なんだよそれ?」
「小さい術を司る時は、印で制御してやらないと暴走する」
「ち……小さい」
平然と答えるノアールに、ジェナーは頭を抱えた。
ジェナーとて、結構長い時を諸国を巡って過ごしたのだ。その中で、多くの術司達を、その術を見てきた。
だが、自らの司る術は巨大なものだと自負する術司だとて、その最大の術は……。
炎系ならば、小さな丘を溶解させるに止まり。
潔系ならば、闇に呑まれた湖を生き物の住める水に戻すに止まる。
その程度のものである。
それを、噴火もかくやと言わぬばかりの炎を呼び あの勢いであれば、小さな都市の一つ二つは完全に無に帰すであろう。大量の清水を呼び あの量であれば、おそらく今現在魔に巣くわれて不毛の地と化している荒野に、湖を呼び、木々を呼び、獣を呼んで人の住める豊穰なる大地へと還えすことが可能あろう。なお、それを『小さい』と言い切る……。
その上、普通は聖力を高め、その操作すべき力場の波動をより効率良く引き出すために用いる印を、逆に制御するために用いていると言う……。
余りと言うのも余りな、桁外れの能力に、ジェナーは酷い眩暈に襲われた。
そうこうしている内に完全に水が引き、辺りに静けさが戻った。
魔物の姿は一掃され、そこは元の静かな裏庭の観を呈している。
緩やかに結界が解かれてゆく。音がゆっくり、ゆっくりと戻ってくる。
へたり込むジェナーが、傍らに立つノアールを改めて見上げる。
そして再度、頭を抱えた。
「あんたやっぱり凄まじいな。息も乱れてなけりゃ、返り血一つ浴びてねェ……」
「お前は、体力無いな。私には良い運動だったぞ」
荒い息を吐くジェナーを見下ろし、ノアールの口の端が面白げに上がる。
「……化け物め──」
一苦労と言った様子で、笑う膝を押さえてジェナーが立ち上がる。
「俺は体力がねェから、一撃必殺の剣を使ってるんだ」
ヨタヨタとよろめきながら、自分の様を確かめる。
「くそ~、ドロドロだ。イゾルデ借りるぞ」
ジェナーの言葉に、ノアールが首を傾げる。
「都の外で水浴びしてくる」
未だ飲み込めないらしく、先を促す。
「都の中で魔の潔めをやれるか? 水が汚れる」
ようやく納得要ったように頷いた。
「感心な事だ。イゾルデも、不思議とお前には懐いてるし、勝手に使え」
「ありがと~~~。後始末頼んだぞー」
遮壁が解かれて近付いて来たイゾルデに、縋り付くようにして攀じ登る。
全身、これ魔物の体液と血に塗れている。
ノアールの口の端に思わず苦笑が昇る。
「……塔に登る泥人形の図だな」
「ほっとけ!」
ノアールの毒舌に力無く返事を返して、イゾルデの手綱を引く。ゆっくりと動き出す。
人垣が、潮が引くごとく別れ、ジェナーとイゾルデを通した。
やがて背後で、遠巻きにしていた囁きが、大きな歓声に変わった。