第九の言 交差
──冥い……、
ぽつりと混じる思念。
──淵……。
哀しげな声が、呟く。
──何……故?
声が問う。
──戦は……。争いは、何をも産まない……。
泣きそうな声が、静かに染み通って行く。
「ジェナーっ!!」
ノアールは、大きく身を起こした。
瞳に写る、見慣れた天幕の布……。
「どうした? ノアール?」
ソル‐ヴォーグの声に滲む、労りの色。
酷い顔色を隠すように、ノアールが俯く。
「……夢を、見ていたようです」
ソル‐ヴォーグの問いに、絞り出すようにした答えたノアールの声には、深い哀しみが潜んでいた。
「ラ‐ヴィータの夢か?」
問いに、ノアールは顔を伏せたまま、頷いた。
「無力な私を、責めていました……。何故、戦を止められずにいるのか? と」
「……そなたは、良くやっている。ラ‐ヴィータが、そのそなたを責める訳があるまい?
ただの夢だよ……」
慰めも、ノアールには空しいものであった。
何よりも、誰よりも、己が、自分の無力さを責めているのだから……。
「私には……『さすらい人』の再来たる資格は無いのかもしれません」
力無く呟くノアールに、厳しいレオ‐シェンナの声が掛かる。
「貴方が、そのようなざまで如何なさるっ!!
姫巫女様が、貴方だけを唯一の『さすらい人』の再来として選ばれたのですよ!
それを貴方自ら、否定されるか!?」
その問いは、至極ノアールの胸中を抉った。
「だが、その私の補佐をすべきジェナーは私の呼び掛けにも答えない……。
それは私に、『さすらい人』の再来たる力が無い故ではないか、と思う」
抑揚を欠いたノアールの声に、集まっていた者達が息を飲む。
「ノアール……。そなたは疲れているのだ。ろくな休息も取らずに、がむしゃらに動くから息切れを起こしているのだ」
駆けつけていた、ジ・ダラルの最長老が、静かに歩み寄る。
「しかし……」
反論しようとするノアールの唇をそっと、その指先が押さえる。
「今は、休め。我々は、そなたまで失う訳にはいかないのだ。
嫌な夢を見ているようならば、起こしてやる。今一度、眠るのだ……」
最長老の指先から流れ込む、穏やかな気がゆっくりとノアールの眠気を誘う。
「……いやで……す。私には、休んでいる時間など許されていませ──ん──」
普通の時であれば、退けることの出来る程のその穏やかな最長老の気に、抗うことは許されなかった。
頑強に拒もうとしていたノアールの瞳が、ゆっくりと降りてきた瞼によって閉ざされる。
力を失い、腕の中に縋り付いてきたノアールの体を、静かに寝台に寝かし付ける。
「全く、強情な所は少しも変わらぬ」
苦く最長老が呟いた。
「ノアールは本当に、良くやっている。
『さすらい人』の再来と言えど、未だ三十の歳を数えるか否かと言う所であるのに……。
我等の如く、王族として百年以上の者でさえ、今のこの状況にあっては、身に受けるレ‐ラーム世界からの圧迫は大きいと言うのに……」
ソル‐ヴォーグの呟きは、そこに集まっている若い王族達の全ての胸中を表すものであった。
王族は、その血の中に潜む古の『さすらい人』の力をもって、レ‐ラームの、中々に不安定な気を支えている。
やもすれば、すぐに安定を欠き、他の空間と重なり大きな影響を受けるレ‐ラーム。
良き世界と重なれば、レ‐ラームにもたらされる恵みは大きい。
だが、そうとばかりは言えぬ。
ただ邪念と、負の気だけを送り込む空間もあるのだ。
故にこそ、王族はその内の特別な波動をもって、レ‐ラームの世界空間を支える。
戦に染まった王族は、その責を放棄している。否、その力を失っている。
自然、この世界を、レ‐ラームの民を守るべく集まった彼らの上に、その分の負担は掛かっていた。
その中でも、強大な力を持つノアールには、それは余計に大きく伸しかかっているであろう。
それでも、無理を押して休息さえろくに取らずに、ノアールは動こうとする。
その真摯さ故に。
その必死な姿故に、彼らは心を痛めた。
どれ程それが理解出来ても、自分達には彼を救う力は無く……。
「ラ‐ヴィータ……」
唯一、その彼を慰められる存在は、この場には無かった……。
*
目の前で、一人の者が、嘆いていた。
──誰だ……?
若者は、ノアールには気付かない……。
『王よ、お恨みします……。
あの時、……あの時、私の進言をお聞き下さっていれば、かようなことにはなっておりませんでした……』
銀色の膜で覆われた柩の前で、誰かが泣いている。
鈍い艶を放つ、撫で付けられた短い銀の髪……。
『一の君……。何故、かようなことを? 私では力にはなれませんでしたか?』
目元を覆う厚いサングラスに、顔が見えない。
『私が苦言を吐いたは、ただ、一の君に、良き王となっていただきたかった。ただそれだけであったのに……』
──ああ……、あれは私だ……。
夢の中、ノアールは呟いた。
このレ‐ラームに、生まれる前の世界だ。
そこでも自分は、王家に誕生した。
王の第一子として、多大の責を負わされ……。
けれど、それが辛くて、逃げてばかりいた自分。
父王に、余りに不甲斐ない己は見限られた。
王の跡を継ぐ資格が有りや? 否や?
閉じ込められた、試練の間──。
私は、……逃げた。
もっと、自分に相応しい世界に行きたい、と。
そして『望みし者』に出会った。
──それ程に望むのであれば、行くが良い。
そなたを必要としている界へ……。
そして、学ぶが良い。己の成すべきことを──
『望みし者』はそう告げた。全ての世界の存続するを……望みし者はそう告げた。
そして、自分は此処に来た。
けれど、ここでも自分の力は役に立たなかった。
──許せ……。
己の骸に縋って嘆く、いつの時も傍にあった警備の長。
逃げる己に、何時も苦言を吐いた。
『逃げてはなりませぬ。
王足る者、自分の責を取れずして如何します?
貴方の身には、国の全ての民の生命が、暮らしが、掛かっているのです!』
そして、今なら分かる。
同時に、その苦言は自分を励ましていたのだと。
『一の君は、決して自分で思ってある程小さな方ではありません。
それを自覚されぬから……。その本当の自分を拒否されるから……。
お逃げなさるな』
──許せ……。私は……無力だ! 誰をも救うことが出来ぬ……。
過去の記憶が、はっきりと蘇る。
今と重なる、無力な自分……。
暗い思いに沈みこもうとする、ノアールの意識。
『駄目だっ!!』
飛び込んできた、強烈な思念……。
『巻き込まれては駄目だ、ノアールっ!!』
叫ぶ声。注ぐ蒼銀の光……。
『それは、貴方の記憶ではないっ!! 巻き込まれるなっっ!!』
ノアールを包むように蒼銀の光が、横に降り立つ。
──私は、……誰も救えぬ!
ノアールの心が叫ぶ。
『帰ろう、ノアール。誰も、貴方を責めてはいない……』
蒼銀の光がゆっくりと近付き……。そして、ノアールを包み込む。
優しい腕。
──ジェ……ナー?
自分を見上げてくる、蒼銀に光り輝くジェナーの姿。
問うノアールに、少し怒ったような返事が返る。
『この俺が、他の誰に見えると?』
拗ねたような問い。
それは、己の初めて愛したジェナーの姿そのもので……。
──ジェナー…………。
深く、深く……ジェナーを抱き締める。
『会いたかったよ……。ノアール…………』
そう呟いて、ジェナーがノアールを抱き返す。
『迎えに来てくれて、ありがとう。一人では、抜けられなかったんだ。助かった』
そして、二人の意識はゆっくりと上昇を始める。
自分達を必要とする世界へと向けて……。
*
「ノアールっ!!」
ソル‐ヴォーグの青い顔が、ゆっくりと目を開いたノアールの前にあった。
「…………やっと目を醒ましたか」
安堵するような呟きは、最長老のもの。
「やっと?」
どこか霞のかかった頭で、ノアールが問う。
「…………お前、寝惚けているな?」
呆れたような最長老の言葉に至って、ノアールははっきりと覚醒した。
「寝惚けているな? は、無いでしょうっ!! 強引に眠らせたのは、最長老の筈です! 私には、のんびりと眠ってる暇は無いと言うのにっ!!」
叫んで飛び起きたノアールを、一斉に起こった安堵の溜息が包む。
「…………? 一体、どうしたんです?」
その異様な雰囲気に、流石のノアールも、訝しむ。
「……お前まで、眠りについたまま目を醒まそうとしなくなった。この三日、私は、己の術を間違えたのかと、肝を冷やしたぞ」
脱力して最長老が呟いた。
「三日……? 三日も私は眠っていたのですか!?」
ノアールは驚愕して、寝台を飛び出した。
向かう先は、ジェナーの眠る天幕。
眠りについたジェナーに、その体が衰弱しないように力を分け与えるのは、ノアールの役目であった。
他の誰の力も、ジェナーは拒否していたからだ。
その自分が、三日も寝込んでしまったとなれば、ジェナーの衰弱が進む。
それでなくても、自分で栄養分を採れぬ状態のジェナーの体は弱っているのだ。
やつれ果てたジェナーの姿など見たくはない……!
「ジェナーっ!!」
酷い自責の念に苛まれつつ、ノアールが天幕の中に飛び込む。
中には、綺麗に整えられた寝台に寝かし付けられているジェナーの姿──
が、ある筈であった。
ノアールの足が、止まる。
撥ね上げた天幕の入り口の覆いが、大きな音を立てて、ノアールの背後で閉じた。
茫然と立ち竦む。




