第四の言 王
時の緊急性に促されて、ノアールはその晩の内にジ・ダラルを出立した。
見送るジ・ダラルの民の顔も緊張に強張っていた。
このような事になるのであれば、国を閉ざすべきでは無かった……との、思いと共に。
だが、全ては繰り言。
今はただ、行動あるのみである。
手紙に記されていた事実の確認と共に、ジェナーの足取りを追うべく、ノアールは、まず隣国を訪ねることにした。
ジ・ダラルの北西約三百ロンデ(約六五○○km)に位置する草原の戦人の国ハン・カラル。茶色の髪、黒の瞳、日に焼けた濃い茶色の肌。小柄だが、がっちりとした戦士の肉体を持つ騎馬民族の民は、今、迫る戦に緊張の真っ直中であった。
続いて訪れた、ハン・カラルより南へ百ロンデ(約二〇〇km)に位置する内陸の深い森に育まれた森の国、ハン・イーズ。黒い髪に、茶の瞳、薄い琥珀の肌。小柄で、身軽な穏やかな狩猟の民……。この国でも、同じく戦の準備が着々と進められていた。
残る生国、エル・クォードなどもう論外の状態であった。元々が、広大な大地を背景にした豊かな鉱物を持つ軍国である。
他の二国を従えて、先頭切って戦の用意は進められていた。
二大大陸が互いに連合し、戦を始める寸前だと言う手紙の記述は確かなものであろう。
たった三月……。いやその三月にこれだけのことが起こってしまったのだ。たかが、三月とは言えないであろう。
二人が、未大陸に目を向けていた間に、一番回避しなければならぬ状況が……。
それも最悪の形で進行していたのだ。
それで無くても弱っている大地の上で戦など起こそうものなら、弱った大地は、人の発する負の波動に急速に衰えるであろう。
レ‐ラームにおいては、全てが聖力に支配され、波動によって構成されている。
人も獣も、森も大地も、目に見えぬ精霊でさえも、全てがその身に多少の差はあれ、聖力を持っている。
だから、その何れもが互いに影響を与えてしまうのだ。
良くも悪しくも……。だからこそ、二人は戦の原因と成り得る物に、神経質な迄に注意を払った。
時が、差し迫っていたとは言え、何らかの手段を講じておくべきであった。
今更では有るが、自分の見通しの甘さに眩暈を覚えた。
戦の気の充満する周囲に、機嫌の悪い愛馬イゾルデを宥めながら、ノアールは急いでその三国を駆け抜けた。
その上空を行くのは、銀色の鳳凰。
ジェナーの通ったであろう道を、ひたすらに追い掛けている。
その後を、がむしゃらにノアールも追い掛けているのである。
隈なく全ての国を通過するその道程に、恐らくはジェナーも自分と同じ気持ちを抱いているだろうことを思うと、心が痛んだ。
自分の補佐をする者であると自負していただけに、この状況は己の不手際であると責め立てているであろう。
「全く……!! “乙女”の称号を、今程恨めしく思ったことはないぞっ!!」
苦りきってノアールが叫ぶ。
聖獣を手足の如く操る“乙女”達……。
ジェナーは、その能力を最大限に発揮しているらしい。
その移動の早さは、聖獣の中でも一番強靱で、一番の移動速度を持つ獅子の胴体に鷲の頭を持つ、グリフィンを使っているであろうことを示していた。それも、銀色系の聖獣は特に、大きな力を持つ。
状況の確認をする必要が無ければ、翔系の術を用いて一気にフォン・ノエラ迄翔びたい程である。
「頼む……。手遅れにならないでくれっ!!」
*
「……戦を回避したいのは儂もやまやまだが──」
父王の躊躇いがちな言葉に、鈍い銀の髪を持つこの国の唯一の王子がきつい瞳を向ける。
「なればこそ、私の身一つで事が解決するのならば、それに越したことはないのではありませぬかっ!?」
厳しい声。短く幾らかの段を付けて切り揃えられてある固い真っ直ぐな髪が、差し込む陽光に鈍い光を弾く。
「だが……ソル‐ヴォーグ。そなたは、この国の唯一の後継者だ。いくら表を賓客と繕っていても、実際には人質と変わらぬ。一国の王太子を人質などに、出すことは出来ぬ」
「父上っ!! 父上は、王としての務めをお忘れか!? 我々王族は、レ‐ラームの民を護るべき者で、決して傷つける者となる訳にはいかぬのですよっ!!
たかが、私の身一つのために、南大陸中の国を巻き込み戦を起こすとおっしゃるのですか!? 私はそのようなことを認める訳にはいきませぬっ!!」
ジェナーと同じ、澄んだ湖に一雫の蒼を溶かしたような銀色の瞳が閃き、白い肌は怒りに赤く染まっていた。
何時からであったろう……? 気付いた時には既に遅く、父王は腑抜けと化していた。
王としての務めを忘れ果て、快楽に走り、あげくの果てがこのざまである。
北大陸の強国、エル・クォードからの申し出に対しての不味い対応……。
それが、怒りを誘い、対立。
それに止まらず、今、戦にまで発展しようとしているのだ。
それを阻止するためには、唯一。己を人質として、かの国へ差し出すこと。
ソル‐ヴォーグ‐ル‐シィール‐ソーンは、勿論その役を快く引き受けるつもりであった。
戦など……起こってしまっては、無為に多くのレ‐ラームの民の血が流されてしまう。
その初めの時に、この世界に温かく受け入れられた王の異なる血。
その血に従って、王族は決してレ‐ラームの民を傷つけてはならない。
王族は、その受けた温情の下誓ったのだから……。
この世界を、レ‐ラームの民を、護り、育んでいくことを……。
──……父上。私は、今程貴方を情けないと思ったことはございません。一体何のために、ラ‐ヴィータが辛い思いをして出奔したのか……。
苛烈に閃いていた蒼銀の瞳が、伏せられる。その色は恨めしげな色に染まっていた。
「いいか、ソル‐ヴォーグ……。決してはやまった真似をするでないぞ!」
掛けられた言葉に、ソル‐ヴォーグは激しく反発した。
「その言葉は、そっくり陛下にお返しいたしますっ!!」
もはや、父と呼ぶにも値せぬと断したソル‐ヴォーグの言葉は冷たかった。
素早く礼をとると、呼び止める声も無視してソル‐ヴォーグは謁見室を飛び出した。
「ソル‐ヴォーグ……。どうして私の心を分かってはくれぬ?」
落胆して呟く王に、静かな声が掛かる。
「陛下……。そう気を落とされますな。王子殿下も今暫くお考えになれば、落ち着かれましょうから……」
紫の僧服に身を包んだ青年が、静かに王座の横に立っていた。
「そうであろうか……。あれは、どうにも融通の効かぬ所がある」
「子を思う親の気持ちは、親になれば良く分かります。殿下にも、間もなく御子が生まれますれば……」
青い瞳が、穏やかに微笑みながら告げる。
「何……?」
「殿下の奥方様は、御懐妊の様子です」
王の顔に、喜びの色が広がる。
「そうか……。そうか……。あれも親になるか……。儂にも孫が出来るのか……」
夢想するように宙を彷徨う王の視線は、僧形の青年の口許に浮かんだ冷笑を目に留めることは無かった。
*
「すまぬ……。お前には辛い思いをさせた」
労りの籠もった声に、銀色の大きなグリフィンがぐったりと大地に寝そべったまま、小さく頭を振る。
場所は、フォン・ノエラの王城にもさほど遠くない、森の一角である。
そこに、日を夜に継いで駆けつけたジェナーの姿があった。
“鳳”の異常な死に、異変を感じとったジェナーは、その透見の才を極限まで解放した。
遠く、近く、写し出されたのは、戦に鬼気迫る形相をしたレ‐ラームの民の姿!
どの方向に、どの国に向けてもそれは変わらず……。
生国、フォン・ノエラも恐らく似たような状況であることが知れた。
フォン・ノエラには、大切な兄を残してきている。その身を案じたジェナーは、それでも戸惑ったのだ。
ノアールの傍を離れるか、否かを……。
けれど、この行動は、私事。
『さすらい人』の再来として、それでなくても多くの責を負うノアールに、行動を共にしてもらう訳にはいかなかった。
だが、告げれば恐らくはノアールは同行すると言い出すに決まっていた。それは、嬉しく思う。が、反面、理性がそれを拒む。
己は、……ノアールにそれ程に気遣われる謂れの無い者であると。
己は、……その補佐役に徹せねばならない。……と。
そう、決断したジェナーの行動は早かった。
人に知られぬ内に、行動する術は心得ていた。
素早く身支度を整え、晶琴の力を用いて、遙かフォン・ノエラより一番の移動速度をもつグリフィンを呼び寄せる。
そして、時の状況を計るために、全ての国を巡って二大大陸最南端にある生国、フォン・ノエラにたった今、到着したのである。
出奔して約八年を経て、レ‐ラームの民として生を受けた地へと、ジェナーは再び戻って来た。
自分の生の……、全ての始まりの地へと。
乳白色の水晶で作られた、フォン・ノエラの王城……。朝日に照らし出されて、“南国の白銀宮”の呼称そのままに輝いている。
「兄上……。ラ‐ヴィータは戻って参りました。何か、御力になれましょうか? 大切な……大切な、私の兄上様……」
小さく呟くと、深くフードを被り直して、城への道を辿り始めた。
*
紛糾する長老会議の中、唯一人不機嫌に沈黙を守っているのはソル‐ヴォーグ。
議題はその身の振り方であるのだが、本人の意志など最初から無視されていては、他にどうしようもなっかたのである。
そして進む内に、とうとう流れは……、“戦いも辞さず”へと収束していった。
それを破るかのように、ソル‐ヴォーグが立ち上がる。
沈黙を守っていた王子の、急な行動に一斉に視線が集まる。
「陛下には、申し訳ありませんが、私は、今日にでもエル・クォードへ出立いたしますので……。無用な会議などこれまでになさいませ」
冷たく言い放たれた言葉に、議場の空気の温度が一挙に下がる。
「な……何を申しておる、ソル‐ヴォーグ!! 申し渡しておいたはずぞっ! そなたを、人質になどならせはせぬとっ!!」
その中に、激昂した王の叫びが響き渡る。
「もう、その言葉は聞き飽きました。私は、王族として必要な行動をとるのです。陛下の指図は受けません!」
王と王子の対立に、議場にざわめきが広がる。
やがて、そのざわめきに澄んだ音色が混じり始める。
その音色に思い当たった者達の驚愕に、再度別のざわめきが起こった。
会議室の扉がゆっくりと開く。
深くフードを被った人物が、その身を中に滑り込ませる。
「……私ならば、その役目出来ませぬか?」
静かに上がった白い華奢な腕が、フードを外す。
溢れ落ちる銀色の緩い巻き髪……。伏せられていた顔が、ゆっくりと上がる。
薄い蒼銀の瞳が、真っ直ぐに注がれる。
室全体が、驚愕に息を飲んだ。
スイ……と、その膝が折られる。
「水晶真殿が巫女、言織り“ジェナー”ただいま戻りました」
最深の礼を執りながら、滑らかにジェナーが告げる。
一斉に、止められていた息が吐かれた。
「ラ‐ヴィータ姫様!」
長老の一人が、信じられぬと言わぬばかりの叫びをあげる。
「エル・マリカの王の言葉は誠であったのか……。生きておったとは……」
茫然と呟かれる王の言葉。
旅立ちの夜、兄ソル‐ヴォーグ配下の術司達によって司られた幻……。
輝く銀の光に包まれて天空高く消えてゆく“姫巫女”の姿。
民は、姫巫女の召天を知る。
精霊に愛されし乙女は、聖なる力の下に、召された。
姫巫女を喪ったと嘆くよりも、そのような存在に、たとえ短い間でも慈しまれた、己たちの幸福を噛みしめた。
「……よく戻った。そなたであれば、エル・クォードも文句は言うまい。この役目、そなたが引き受けよ。戦など、出来うるならば起こって欲しくは無いからの。
そなたのような姫をもって、儂も嬉しく思うぞ」
ジェナーは深く頭を垂れたまま、その言葉を賜った。
「お役に立てて嬉しゅうございます、陛下」
静かに答えた声は、ジェナーにしては恐ろしい程に平板なものであった。
全ての感情を押し隠した声。
義務的な、臣下としての声。
王とジェナーの間には、親子の情愛は一かけらも存在しなかった。




