第三の言 別離
どこまでも澄んだ青い空。
その色を写して、静かにたゆとう青い湖。
穏やかに降る陽光。
綺羅めく空の交差。
波間に揺れる小船の上、ウトウトとまどろむジェナーの姿があった。
毎日を、思い切り歌を歌って過ごし、ジェナーはすこぶる機嫌が良かった。
未だ、ノアールからは言を織ることは許されていないものの、一番の喜びの素である歌を歌うことは許されているので、不満に思うことは無かった。
幸せな、まどろみの中を散策するジェナーの鼻先に、小さな青い光りが浮かぶ。
瞬間、ジェナーは飛び起きた。
「ノアール?」
問うたジェナーの声は弾んでいた。
『体の調子はどうだ?』
青い光りが徐々に大きくなってゆき、その中に、ノアールの姿が写し出される。
「もう! どうしていっつも第一声がそれなんだよっ!! 俺は、子供じゃないぞっ!!」
『ああ、元気にしているようだな』
満足したようなノアールの声が返るに至り、ジェナーはむくれた。
ノアールが、ジェナーを置いて、ジ・ダラルの長老達と未大陸へ翔んで約半月が過ぎようとしていた。
「……それで、そっちの様子はどうなんだい?」
『心配いらない。順調に進んでいる。獣達の繁殖も順調だし……、そちらからも今日また余剰分の獣を移したからな』
「杜の方は?」
『大丈夫だ。少しずつだが、着実に森への移行が行われてるよ。移民が終了する頃には、十分な広さになっているだろう』
「良かった」
『それで、今日はお前は何をして過ごしているんだ?』
日に少なくとも一度は連絡を取ってくるノアールを心待ちにして、ジェナーは色々なことを話していた。
「今日はね、ノアールが昔学んだっていう、習練場を案内して貰ったんだ。今修行している子供達と、一緒に遊んだんだよ」
笑って返すジェナーに、ノアールは訝る。
習練場では、何があろうと“遊び”など無い筈である。
『ジェナー……? 遊びとは、何をやった?」
「剣の稽古──」
言った瞬間、ジェナーは慌てて口許を押さえた。
『ジェナーっ!! あれ程、無理はするなと言って出た筈だぞ!!』
剣幕に、ジェナーが頭を抱えて小さくなる。
「ご……ごめんよぉ。見てるだけじゃ、つまらくて……」
『……今日中には調査が終わる。夕刻にはそちらに戻れる筈だ──』
不機嫌に続いた言葉は低かった。
『覚悟しておけよ』
そう言い放って、青い光は不意に消失した。
「だ~~っ!! 不味いっ……。本当に不味いぞ! あれだけ、ばらすまいと決心してたのに、あっさり喋っちまった……」
己の舌の軽さに、ジェナーは心底頭を抱えた。
「俺って、どうしてこうなんだ? 懐いた人間には、とことん隠しごとが苦手になっちまう……」
帰って来た時のノアールの不機嫌を想像して、ジェナーは青くなった。
落ち込むジェナーの身を、不意に風が包む。
「? ……風精霊?」
その風の中に、精霊の意識を感じてジェナーが問う。
巻き上げられて、ジェナーの白銀の髪が広がる。
「……何だ?」
示された方向へジェナーの注意が向く。
陽光を弾いて、銀色の小さな光の点が真っ直ぐにこちらに向かって飛んでくる。
それが何であるのかと訝っていたジェナーの顔から、それを悟った瞬間完全に血の気が引いた。
「鳳!?」
小船の上、高く差し伸ばしたジェナーの腕の中、血塗れの白銀の鳳凰が堕ちてきた。
フォン・ノエラに誕生した聖獣、鳳凰。聖獣は、その殆どが人には決して馴れない。
その中でも銀色系を纏う聖獣達は、“乙女”の称号を受けた者だけにしか扱えない……。
かつて、故国であるフォン・ノエラにおいてジェナーは、白銀の見事な翼を持つ雌雄一対の鳳凰を、“鳳”“凰”と名付けて溺愛していた。
「お前が一羽で行動するなど……。凰はどうした? お前の片割れの凰は……?」
力無くその首が持ち上げられる。
久々に出会う主人は、相変わらず優しく自分を抱いてくれる。労りの籠もった腕に、その小さな頭を擦り寄せる。
「フォン・ノエラからずっと飛んできたのか? 一体誰が、こんな酷いことを……」
銀の羽にこびりついた血糊を、濡れた布で優しく拭ってやる。
「矢に当たったのか? どうして兄上の元を離れたりした? 兄上の側に居さえすれば、誰もお前達を傷つけることなどしないのに──」
ジェナーの顔色が更に変わる。
故国を出た夜、見送ってくれた兄に残してきた二羽の鳳凰……。
何事か起これば、この二羽を放して自分を呼んでくれと託してきたのだ。
「国で……何かあったのか? 兄上に何があった?」
何事か答えようと、その嘴がわななきながら開かれる……。
しかし、その嘴からは何の声も漏れることは無かった。
ジェナーの腕の中、此処まで飛んで来るために、全聖力を使い果たした鳳凰がみるみる温もりを失っていく。
「鳳!? しっかりしろっ!! 死ぬなっ!! 死ぬんじゃないっっ!!」
幼い頃……、未だ晶琴との出会いを果たす前の事。精霊と言葉を交わすことは出来ても、人と言葉を交わすことの出来なかったジェナーを慰めてくれた異形の友。
何処に行くにも共に在り、悲しみも喜びも共に別ち合った友。
成す術もなく、その命が消えていく哀しみは、例えようも無い程に、ジェナーを打ちのめした。
*
「ジェナーが居なくなった?」
その夜も更けた頃、ノアールはジ・ダラルへと帰還した。
疲れ果てたノアールを待ち受けていたのは、信じ難い事実であった。
昼間小船で出掛けたきり、夕刻を過ぎても戻らぬジェナーを心配して探しに出た者達が持ち帰ったのは、一羽の銀色の鳳凰の骸であった。
綺麗な布でくるまれて、湖の底に沈められていたとの報である。
そしてその布は、唯一ジェナーが大切にしていた薄絹のベールであった。
大切な……大切な……。自分の命を捨てても構わぬ程に愛していると言明していた、その兄から贈られたと言っていた、ベール。
自分の元を……、絶対に離れないと言っていたジェナーが、何も言わずに姿を消した。
その事実にノアールはただ、無言無表情に立ち尽くした。
表に出されることなく終わった激情に身を委ねるノアールの姿を、最長老が痛ましげに見つめた。
「何事が起こったのかは存知ませぬが……。酷なことをなさるな、姫巫女殿」
呟いた言葉には、深い悲しみが滲んでいた。
「最長老……。私は、明日ここを発ちます」
「……姫巫女殿を追うのか?」
その問いに無言のまま、ノアールは、割り当てられていた部屋へと向かった。
「私は……独りだ」
ノアールは小さく呟いた。
「もう……どうにでもなれば良いっ!! 私は、もう知らないぞ! 私独りで、どうしろと言うのだ、ジェナーっ!!
私は……、私にはお前が必要なのだと分かっていると思っていたっ!!」
ノアールの発した激情に、黒い髪が放射状に大きく波打つ。
「ジェナー!! お前にも私が必要なのだと思っていたぞっっ!!」
ノアールの髪が一挙に、黄金色に変色する。
その瞬間、ジ・ダラルの各都市で大きな騒ぎが起きた。
浮き島のことごとくが、その固定の術を解かれ、激しく波打つ湖に翻弄されはじめたのである。
島の上に建設された建物などひとたまりもなく一瞬にして瓦礫の山と化す。
あちこちで悲鳴が上がり……、力の弱き者を庇って、力の強い者達が、守護結界を張るのに奔走すると言う大騒ぎが繰り広げられる。
「ノ……ノアールっ!! 聖力を制御しろっ!! 馬鹿者がっ!!」
その紛れもない怒気を含んだ最長老の叫びに、ノアールは初めて自分の状態を知る。
開かれた意識に雪崩込む、多くの人々の恐怖。
傷つき倒れた者達の悲しみの声。
「……わ……たしは?」
茫然と立ち竦むノアールの頬に、思い切り最長老が平手を見舞う。
「情けない真似をさらすなっ!! 己が役目も忘れ果てたか、ノアール‐ハン‐ノエル!!」
叱責に、ようやくノアールの意識が収束する。
無造作に広がっていた髪が、静かに宥められてゆき、やがて黒い色を取り戻して行く。
「……落ち着いたか?」
静かに問う声に、青くなったノアールがゆっくりと首肯する。
「全く……。これで何度目だ? お前の桁外れの聖力にはほとほと手を焼くぞ」
「も……申し訳ございません。すぐに修復します」
「良い、良い。訓練生共には、良い課題だ。
……しかし、宣名の儀以来、お前の精神は安定していてこんな事は無かった筈だがな……。
姫巫女殿が姿を消したことが、それ程に辛いか?」
「…………」
無言のままのノアールに、最長老が苦笑する。
「それ程に、かの歌姫を愛したか……。家族、兄弟と言えども執着すること無く。悲しむことは知っていても……、愛することを知ろうとしなかったお前がな……。かの歌姫の威力は、大したものだ」
その言葉に、驚愕でノアールの顔から一切の表情が消える。
「愛? 私が、ジェナーを? あいつを……愛していると?」
呆れ果てたように、最長老が深い溜息を吐く。
「お前は、……自分の感情に疎いとは知っていたが、そこ迄酷いとは思わなかったぞ。気付いていなかったのか? 自分が、かの歌姫に対してどのような感情をもって接していたのか?」
素直に頷くノアールの姿は、初めてジ・ダラルに来た時と同じく幼く、心細げな物で、思わず頭を抱えてしまう。
「育て方を間違えたかな、私は……」
「最長老っ!!」
咎めるような、問うような叫びにようようにしてその顔が上げられる。
「いいか、ノアール……。その人を失いたくない。守りたい。……共に居たいと願うのは、自分がそれだけその人のことを想っていると言うことだ。加えて、お前はその人が可愛くて、愛しくて仕方なかっただろう? その一挙手一投足に、自分でも戸惑う程に、喜怒哀楽を繰り返していただろう? 抱き締めて……、放したくないと思わなかったのか?」
静かな問いに、考え込んだノアールの顔が、見る見る赤くなっていく。
「それが、愛すると言う事だよ。鈍感坊や。遅い春、おめでとう……」
呆れ果てて、溜息と共に祝福してやる。
「……私もジェナーも、互いを掛け替えのない道連れだと……。そう信じて疑ってもいませんでした。けれど……、それが……、その──」
言い澱むノアールの頭を、小さな手が優しく撫でてやる。
「良い良い……。今のお前を見て私も察しがついたよ。追いなさい、姫巫女殿を……。お前がそれでは、かの歌姫も自分の感情になど、気付いてもおらぬであろう。
……本当に、困った恋人達だ」
『恋人』なる単語に過剰反応して、ノアールはそれこそ全身から湯気を立て兼ねない程に紅く染まる。
「本当に……。昔と変わらず可愛い御子だ。
『さすらい人』の再来として、重い荷を負うが哀れよの……」
ピクリ……と、その顔が青ざめる。
「まあそれも、姫巫女殿の協力があれば乗り越えられよう……」
本格的に、ノアールの顔色が変わる。
「ジェナーは……、私を見限りました。でなければ、何も告げずに姿を消したりする訳がない……!!」
強く……強くその唇が噛み締められる。
「お馬鹿さん……。何も知る前から判断を下すことが、どれ程愚かなことかは教えた筈だぞ。まずは、姫巫女殿を見つけ、何故の行動か問い質すこと。全てはそれからです」
慰めるように、再度その頭を梳くように撫でてやる。
子供扱いに少々気恥ずかしい思いもあったが、ノアールはその手を払おうとはしなかった。
何と言っても、この世界とは異質な存在である自分を真先に認めてくれた人物なのだから……。
父も……母も……兄でさえも理解してはくれなかった、自分の異質さを初めて理解してくれた人であったのだから。
「最長老様っ!!」
切羽詰まった声が、二人の沈黙を破った。
「何事です?」
落ち着いた声が、宥めるように答える。
「銀色の鳳凰が現れました。先程の骸に取り縋って泣いております……」
最長老とノアールが顔を見合わせる。
「案内しなさい」
敵意を剥き出しにして銀色の鳳凰が、術司達を牽制していた。
その傍らには、ジェナーのベールに包まれた、同じ銀色の鳳凰の骸……。
遠巻きにして、その様子を見ていた術司達を掻き分けて、二人はその傍らへと立った。
甲高い声が、鳳凰の嘴から迸る。
全身が、銀色の灼熱の炎に包まれる。
近寄る事も出来ずに、周囲に居た者達が後退する。
その中でただ一人ノアールが、その炎も気に掛けることなく、真っ直ぐに鳳凰へと近付いていた。
「脅えるな……。私はお前の敵ではない」
静かな声で告げる。が、鳳凰の炎は更に広がり、強さを増した。
「…………」
静かな……静か過ぎる程に澄んだ空の青を映すノアールの瞳が、大粒の涙を零す鳳凰の銀色の瞳を見つめる。
激しく……同時に穏やかな想いがその間に交わされた。
徐々に、炎が収縮してゆく。
そして、それは唐突に消失した。
「…………××××」
──ラ‐ヴィータ……。
切なげな思念と共に、ことりと小さな音を立てて力無く、鳳凰の首が床に落ちた。
駆け寄るノアールの腕の中、悲しげな想いが伝わってくる。その弱り切った体にノアールがゆっくりと癒しの術を司った。
「…………何を持ってきた? お前達は──」
呟くノアールの瞳が、鳳凰の足に結び付けられた通信筒に留まる。
銀色の、繊細だけれどもしっかりとした作りの通信筒。その封止めに使われている紋章は、確かにフォン・ノエラ王族の物であった。
ノアールの腕が、ゆっくりとそれを取り上げた。
もどかしげに、その封を解く。
広げられた書面……。
のびやかに整った文字が、それでも酷く急いだような筆跡をもって告げていた。
『戻るな!! 決して戻ってはならぬっ!!』
その書き出しと共に……現在の二大大陸の様子を──。




