第一の言 未大陸
薄暗い洞窟の中。光源と言えば、僅かに光りを発する光苔程度である。
二大陸の北の果てにある険しい山の下、遙か果てに存在すると言う未大陸へ続く洞窟に足を踏み入れて、はや二月。
ノアールの作り出す蛍火のような光の球に照らし出され、ジェナーの肌が青く染まっている。
もう一刻も進めば洞窟を抜けると言うジェナーの言葉に、最後の休憩をとっている所である。
その時を利用して、ジェナーはノアールに伝えるべき最後の『言』を織った。
「……それ程、大地は疲れているのか?」
「ああ。フォン・ノエラを出奔してから二大陸を隅々迄調べてまわった。
このまま今の調子で生み出させれば、三十年も経てば不毛の大地と化す。北大陸と南大陸は、今の人口の三分の二以下を養うのが一番理想的な状態の力しか持っていない」
ジェナーの言葉に、ノアールは自らの巡ってきた国々の様子を思い起こす。
確かに、場所によって不毛の地と化した所が目立っていた。
が、それはあくまでも、力場の異常で、魔に巣食われてしまっていたのだと考えていた。
「それに、今の若者達の活力は方向性を失っている。何故だと思う?」
「……それは、若さ故血気に逸っているだけだろう?」
「まあ、それも否めないがね。根本原因は、今の完成され過ぎている状態では、自分達の能力を試みる場が無いからだよ。だから、無意味な事で自分の余っている活力を使おうとする。このまま行けば遠からず、今は溢れている活力が、押さえられ過ぎて萎えてしまうだろうな。そうなれば、このレ‐ラームは滅びへの道をたどってしまうぞ」
言い切るジェナーの瞳が問う。『どうする?』と。
「だからその悲劇の起こる前に、私達はこの先の大陸に人々を導くのだろう?」
満足そうにジェナーが頷く。
「だが、それがまた大きな問題だぞ」
「何故?」
「……あんたって、どうしてそうお呑気なんだ」
がっくりと項垂れてジェナーが呟く。
「ジェナー?」
「あんたさ、自分が生まれた所を離れて、ホイホイやって他の地へ移るか? それも、あるかどうかも定かでない地へ……」
「若者の好奇心は旺盛だ」
気楽な答え。
「……見ず知らずの人間が、『このまま二大陸に止まれば、それがそのまま滅びに通じます』とか言って信じると思うか? 取り敢えず信じたとしても、今の自分の持っている物を捨てて、未知なる……それも、困難だと分かっている道を進もうなんて奴がそうそう居るかよ。
大概の人間が、自分は残って、他人を未大陸に追い立てようとするに決まってるぞ。
無理に追い遣られても、開拓意識は湧くまい? それじゃ、未大陸での発展が望めん。
『さすらい人』の使命は、あくまでも人々を未来へと導くことで、停まることではない」
再度深い溜息を吐いてジェナーが問う。
「それでは、私にどうするように望んでいるのだ?」
「……それが分かれば苦労はしないよ。言った筈だ。俺は飽くまでもあんたの補佐のための存在。古の『さすらい人』に関する情報を“ジェナー”から引き出して伝えることと、今の状況を調べ報告し、あんたの指示を仰いで行動することしか出来ない。
俺には、決定する権利は……ない」
どこか寂しげな様子で、ジェナーが答える。
「権利はなくても、責任はあろう」
完璧に論点が、ずれてる……。
ジェナーは頭を抱えた。
「だ~~~っ!! だ・か・ら! 決定する権利も、義務も、責任も、山程持ってんのは、『さすらい人』の再来たるあんたなんだよ!
俺には、このレ‐ラームの未来を決定するだけの権利は無い、の!」
「いいや、ある!」
きっぱりと言い切るノアールに、ジェナーは絶句。
「ノ……ノアールゥゥゥ~~~」
「……お前は、私の道連れだろう? だから、事を起こすに当たっては、同じように決定する権利がある。
それに、私にこの道を進むように導いたのはお前だ。十分に、問題解決のために頭を搾る責任があるぞ」
ノアールの青い瞳が真剣な色を宿して、ほとんど白銀に近いジェナーの蒼銀の瞳を見つめる。
「…………」
「ジェナー……。私は──」
ノアールの言葉が続く前に、ジェナーが立ち上がる。
「ノアール此処で待っててくれ」
「ジェナー?」
「未大陸は、全部“杜”の境界の内なんだ。人が住むには最高の環境だけど、人は棲めない。
精霊達に交渉して、人が住めるように杜の域を狭めて貰ってくる。
せめて森にならないと開拓も効かないからな」
「いくらお前が精霊たちと情を交わせるとは言え、そんな事迄任せられるか! 機嫌を損ねられたら、ただでは済むまい。私も同行する!」
ジェナーの申し出に、慌ててノアールが引き止めにかかる。
「……ノアール。俺が、“乙女”の称号を享けたのは、この精霊たちと交友出来る能力があるからなんだよ。
加えて、俺がその能力を持ってるのは、この時のため。ノアールの役に立つためだよ。
心配は要らない。未大陸が“杜”に覆われているのは、人が移り住む迄の間大地を護るためだったんだから」
にっこりと笑って答えるジェナーに、ノアールの表情が曇る。
──それでは、お前は一体何なんだ? まるで、レ‐ラームの……、『さすらい人』の再来たる私の犠牲になるためにだけ、異質な存在として生み出されたようではないか……。私は、そんなのは嫌だ。
「それに、ノアールが一緒だと、かえって精霊たちの方が臍を曲げる」
「は?」
ジェナーの意外と言えば意外な言葉に、ノアールが頓狂な声を上げる。
そんな純真な幼い顔を見せるノアールに、ジェナーが悪戯っぽく笑む。
「最近……、精霊たちよりもノアールに懐いてるもんだから、皆妬いてるんだよ」
そう言葉を残すと、ジェナーはさっさと晶琴を抱えて駈け出す。
「終わったら、杜の波動が森の波動に変わるから、あんたならすぐに分かるよ。
精霊たちの気配が消えたら追って来てくれ」
「ジェナー!」
*
言われた通りに、精霊たちの気配が薄れたのを見越してノアールが洞窟を抜けた。
二月振りに仰ぐ陽光。
青い空に走る二本の綺良めく帯“空の交差”……。
眩しさに反射的に閉じていた瞼を上げる。
目前に広がる豊かな活力を宿す琥珀の大地。
滴るような木々の緑。
萌える新緑の野草。
様々な装いを見せる美しい花々。
その先を流れる大河。
清々しい水を滔々とたたえて流れる川。
「……美しい。だが──」
一瞬の、心を奪われる感覚の後、ノアールは思った。
「が、……人が住むには最高の環境か?」
考え込むノアールの耳に、不意に伝わる鳥達の囀り。
「まさか……」
思わず否定の言葉が漏れる。“杜”には、人はもとより獣も棲めぬ筈である。
戸惑うノアールの眼前で、次々と生命に溢れる獣達のざわめきが広がって行く。
「ジェナー?」
原因として思い当たるのは、唯一の道連れたるジェナーのみ。
「ジェナーッ!! 何処に居る!?」
ノアールは、事の次第を見極めるために、翔系の印呪を用いた。
視覚を閉じ、意識を飛ばす。
聴覚を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。
微かに伝わってる晶琴の音と弱々しい歌声。
その地点から、獣達の新たな気配も起こっている。
術を解くと、すぐにその場所へとノアールは走った。
木々の作る穏やかな木漏れ陽の中に立つ、白銀色の後ろ姿。
その向こうに覗く、二大大陸のどこぞの森に繋がるであろう虹色の亀裂。
そこから、次々に獣達が踊り出していた。
草食の獣から、肉食の獣迄、ありとあらゆる種類の獣達がこちら側へと移って来ていた。
あるものはジェナーの足元で頭を垂れて、あるものはその足に擦り寄り、またあるものはその肩に飛び乗り、次々とジェナーとの挨拶を交わして森の奥へと姿を消して行く。
その光景は、余りにも自然で、同時に余りにも不自然で……。
呆然と立ち竦むノアールの目前で、ゆっくりと虹色の亀裂が閉じて行く。
「ジェ……ナー?」
ノアールの声に、ゆっくりとジェナーが振り返る。
「ジェナーッ!!」
消え入るような微笑を浮かべたジェナーが、ゆっくりと倒れて行く。
「ジェナー……?」
抱き止めた体は、余りにも軽る過ぎた。
驚いて調べて見れば、腕も足も折れるのではないかと言う程に肉が薄くなっていた。
今迄は、厚く着込まれた衣服に気付かなかっただけだ。
やつれ果て、青白く透き通る肌も、陽の当たらぬ洞窟で過ごしただけにしては、度を越していた。
「お前……! 体の調子が悪いのならどうして黙っていた!!」
怒りと哀しみと、気付いてやれなかった自分の不甲斐なさに思わず声を荒立てる。
「『言』を織ると言うのは、酷く体力が要るんだ。でも……やらなきゃならなかったからね。あんたに全ての事実を伝えるのが、俺の役目だったから」
洞窟を抜ける二月。
それ以前に共にシンを追って諸国を巡った半年……。
「お前は……!! お前は、一体自分を何だと思っているんだっ!!」
絞り出すようなノアールの声に、ジェナーが訝しむ。
「ノアール? ごめん……。何か気に触ったか?」
自覚のないジェナーの問い。
自らが犠牲になっているとは、本人は露ほども思っていないのだろう。
……だが、そうあればある程に、哀しみが深まる。
「……馬鹿者が。もう、無茶はするな。何のために私が居る? 私とて伊達に術司である訳ではないのだぞ……」
細い細いジェナーの体を強く抱く。
「ノアール?」
戸惑うような呼び声に、ノアールは更に腕に力を込めた。
「帰ろう……。此処では、お前をゆっくりと休ませることも出来ぬ」
静かに、ノアールの腕が、空に文字を描く。
小さく動く指先が、翔系の術である、身移しの術を司る。
その聖力を秘めた黒髪が、一瞬宙に舞う。
二人の背後に、虹色の亀裂が走り……。
優しくジェナーを抱きかかえたノアールが、その亀裂を潜った。




