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第十話「暁への飛翔」⑧

 階段をのぼりきって左手、ブリッジとは正反対の位置に、甲板へと続く扉はある。輪郭が丸っこいその扉はクリーム色の内装と同じ仕上げで、手動でも開閉できるように巨大な円形のハンドルが中央につけられている。

 施錠されているなら諦めるつもりであったが、横にある操作盤に目をやれば、鍵がかかっている表示はない。彼女は躊躇なく「OPEN」の表記がある青いボタンを押した。

 空気が勢いよく噴出する音に続き、ばくん、と鈍い音をさせ、重そうな分厚い扉は自動で奥へと引っ込んだ。そして左に押し開かれると、潮の香りが流れ込んできた。

 出れば、右手に船体と同じ赤色の手すりが甲板の縁に沿って続く。丸いパイプを組み合わせた簡単な造りの手すりだ。それをなぞるように視線を彼方にやったさきで、赤いワンピースの裾が海風に揺らめいた。

 先客であった。

「ひとりか」

 レジーナがそう声をかけるまでアルマは彼女の接近にまったく気づかず、はっとしたかと思いきや、

「レジーナ……」

 と、いまだ出口が見えぬ迷路にいるような顔をねじ向けてくる。

 まだ早朝も早朝だ。よもやと思ったレジーナは、

「いつからいたんだ」

 と、その横に並び立ちながら訊いた。手すりに上体を預けて海を見渡せば、水平線に薄い朱色がにじんでいる。日の出が近い証だ。

 それからしばらく波の音だけがふたりを包み、やがて、

「……まだ、話せてなくて」

 と、アルマが力なく口を開いた。

「考えてみたの。受け入れられないことって、なんなのか」

 とつとつと紡がれる彼女の言葉を、レジーナは黙して聞く。その横でアルマは手すりを握る両手に力を込め、

「きっと、自由なんじゃないかって」

 そう、思い詰めたように言った。

「自由?」

 レジーナは横目で問うた。

「うん。空を飛ぶって、きっと……」

 アルマは声色を沈ませてうつむく。だがすぐさま、

「そうかもしれないな」

 と続いたレジーナの言葉に、目を見張って彼女を見た。

 慰めなど求めてはいない。こんな時に、レジーナという人間がそんな甘さを許すとも思っていない。彼女は決して「いい人」であろうとしないのだ。それは、これまでの会話だけでよく理解できる。

 けれども、こうもすっぱり肯定されると、さすがに刺さるものがある。

 アルマは次の言葉が出せず、眼下にさざめく海を見つめた。

 ――俺が一緒に逃げようなんて考えなければ、こんな思い、しなくて済んだんじゃないかって、思ってな。

 それはジックも同じだったのではないか。自分がいなければ、自分と出会わなければ、ジックはひとりでも研究所を脱して、自由に生きられたのではないのか。

 回顧するにつれ、飛べない理由が自分にある気がしてならなくなる。

 しかし、

「だから、飛べる」

 レジーナはそう断言した。

 アルマは途方に暮れかけていた顔を再び彼女に向けた。

「お前たちがどんな事情でここにいるかは知らない。だが私から見れば少なくとも、お前たちは自由だ」

「自由……」

「私もいまはそれに近い。過程はどうあれ、親の敷いたレールを行く人生から解放されたからな」

 それを言うレジーナの横顔は、清々しさだけではない、苦みのような含みがある。

「どこにだって行けるんだ。お前たちだって、自分で決めて、ふたりでここまで来たんじゃないのか」

 暁の空の下、彼女の言にアルマは静かに息を呑んだ。

 そう。ここまで来たのは紛れもなく、ふたりの意思に違いない。そこには後悔なぞ、微塵もなかったはずだ。

(なら、私にできることは)

 その直後、船体の揺れがひと際激しくなった。

「波が」

 険しい顔つきになるレジーナの視線のさきで、ヴェントゥスを浮かべる海面がその荒れ方を強める。次第にそれは巨大な渦と変わり、船体を引きずり込みはじめた。

「なかに!」

 レジーナに従い、アルマは艦内に戻る。そこでちょうど、異変を感じ階段を駆け上がってきた夫と対面した。

「ジック……」

「アルマ、大丈夫か」

「うん。外が」

 揺れはますます酷くなっている。

「ブリッジに行こう」

 アルマの手を取りブリッジへ向かうジックの背中に、レジーナは趣意のこもった真顔で続く。もし連合の追撃であるならば、今度こそ凌ぎきれない。打破できる唯一の可能性はジック・ブレイズにある。それを理解しているのか、と問いたげに。

 ブリッジには操縦席で状況を確認するシーカーのほかに、定位置に座る朔夜(さくや)の姿もすでにあった。

「連合か!?」

 開口一番、ジックはシーカーに訊いた。

 するとシーカーは、

「いんや、違うねえ。こいつぁ」

 と不敵な笑みを船体左へと急に向けた。

 その視線のさき、ヴェントゥスを飲み込まんとする大渦から、それを作り出す魔物の正体が現れ出でる。

 一同はそのあまりの巨大さに開いた口が塞がらなくなった。

 海面から突き出た部分だけでもすでに数百メートルはあろう青龍のごとき怪物は、こともあろうに機械のようだった。海蛇に似て長く伸びた胴体は一定の感覚で節があり、うねうねと波打っている。

 その名に、レジーナは噂程度だが覚えがあった。

「リヴァイ、アサン……」

 そう、ここはマシューら連合の追撃隊も忌避した<リヴァイアサンの巣>と呼ばれる魔の海域である。商船の多くが行方知れずとなり、海上都市建設の計画を大幅に遅らせ、あまつさえ巨大な龍を見たなどという風説が飛び交うことになった所以がいま、彼らを次なる(にえ)とすべく首を垂れていた。

 見える範囲だけで四つある(ひれ)とも羽とも取れる部位を滑らかにはためかせ、頭からうしろに伸びたツノのような長い(ひげ)をしならせる。その面貌、まさに海の覇者というに相応しい形相だ。

 どうりで再追撃もなく静かなはずである。実力の知れたこんな艦一隻、容易く手込めにできそうものなのに、連合はここまで偵察機のひとつも寄こしはしなかったのだ。

(そりゃあ来ないな。こんなのいたら)

 レジーナはさきほどまで呑気に寝ていた自分に呆れた。薄々おかしいと思っていただけにだ。

「海から上げろ!」

 すぐさまレジーナは操縦席に向かって言うが、

「とっくにやってるよ」

 言われたシーカーは気だるそうに答えた。が、一向に浮上する気配はない。そうこうしているうちに、船体が大きく斜めに傾いた。

 渦潮に飲まれている。

 レジーナたちは突然の揺れに体勢を崩し、それぞれ、座席や壁に体を打ちつけた。

 そのなかで、

「レヴィアタン……持ち場を離れたのか」

 かすかに聞こえた少年の声に、レジーナは聞き間違いかとブリッジ最後列の席を見やった。

 その真偽を確かめる間もなく、またも強い揺れが襲う。

「迎撃する」

 レジーナは座席につかまりながら立ち上がり、告げた。

「俺も――俺も、行く」

 まだ責任を感じているのだろう。ジック・ブレイズは鬼気迫る顔つきでレジーナに言い寄った。それに、

「好きにしろ」

 とレジーナは一瞥をやり、足早にブリッジをあとにする。

「待って、ジック!」

 レジーナに続こうとした彼をアルマが呼び止めた。

 無言で振り返り妻の言葉を待つジックであったが、アルマは逡巡し沈黙する。

 伝えたいこと、伝えねばならないことはもうわかっている。だのに、その想いをどう表すべきか決めあぐねるうち、

「わかってる」

 そう言い残し、ジックは駆け出て行ってしまう。もはやアルマに止めることはできない。彼女は口惜しげに歯噛みした。

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