第十話「暁への飛翔」⑦
アルマと別れたレジーナは自室に戻ると、明かりもつけぬままにベッドへ身を放り込んだ。
革靴を適当に脱ぎ捨て、仰向けになる。そして嘆息をひとつ漏らし、目元を覆うように左腕を置いた。
(ありがとう、か)
この二十年の人生で、いったい何度もらっただろうか。きっと数えるほどしかない。実の親からは一度だってなく、覚えている限りでいえば、あの青年が最後だろう。
そう。あれは彼女がまだ、年端もゆかぬ小娘であった頃だ。
かつてレジーナが住んでいた屋敷の傍らには、木造の古い修練場があった。剣術やら体術やらを鍛える稽古場である。斜陽に染まるその場所で、レジーナはこう訊き返した。
「二年?」
それを受け、対面していた金髪の青年は、
「十七から入れるっていうから、早い方がいいと思ってさ」
と、剣を鞘に納めながら背中で答える。
青年とはここで剣術を磨く仲である。歳はレジーナより五つ上だ。彼が同じ敷地の別館に住んでいるとは、この修練場で出会うまでレジーナは知らなかった。
「再来年にはいなくなるって、こと?」
彼女は視線を落とした。ようやく続けられそうなものを見つけたばかりだというのに、これではまた父が激怒しかねない。
一代で<シスル・エンタープライズ>を世界的大企業にした父ルーベンは、とりわけ結果を重視する男だった。それは実の娘であるレジーナに対しても変わらない。娘がやりたいと言ったことはなんでもやらせたが、反面、やるからには極めろ、と言うのが父だった。
深く落ち込むレジーナの脳裏に、
「なにかひとつでもやり遂げなくては駄目だ!」
という父の怒声がよみがえる。
いろいろなことに興味があった彼女にとって、たくさんの事物に触れられることは喜びであった。しかし彼女はその分、飽きっぽくもあった。
彼女にしてみれば経験することに意義があったのだが、ダンスにピアノ、水泳と、どれも中途半端に終わるうち、父はその在り方が我慢ならなくなったのだろう。
しまいに父が口にした言葉は、彼女自身わからない、心のどこかを抉った。
「お前に投資してるんだ」
その言葉の意味を探るように、幼少から彼女を突き動かし続けていた好奇心は静かに鳴りを潜めていった。
そんななかで青年に手ほどきを受ける剣術は、レジーナに「これなら」と感じさせる手応えをもたらしてくれた。
それが、あと二年で終わる。レジーナの顔は憂鬱にますます沈んだ。
が、
「心配ないよ」
不意に青年がそう言って、彼女は顔を上げた。
「先生に話したんだ。そしたら、教えてもいいって。まあ、旦那様のお許しは必要だけど」
続けてそう話す青年に、
「そっか……うん」
と、少女の反応はそっけない。
青年は、彼女が置かれた環境を本人から聞き及んでいる。ゆえに、浮かない返事の理由を早々に察した彼は、手にした鞘を横にして壁掛けの棚に置きながら、静かに口を開いた。
「俺、恩返しがしたいんだ」
「恩返し?」
初耳である。
「うん。意外かもしれないけど、俺は引き取られたのがここでよかったって思ってるんだ」
青年は置いた鞘から手を放し、レジーナを向く。その顔がレジーナにはよく見えない。窓から差す夕日に照らされているはずなのに、なぜか影がかかっている。
その影が、
「俺は軍人になるよ。――の名に恥じない軍人に」
そう言ったのを皮切りに、西日に燃ゆる修練場が消え、闇になる。と同時に、ねじれ遠退いていく青年の姿が、冷ややかな顔で見下すスーツ姿の父に変わった。
そして、
「期待していない」
父がそう言い捨てて踵を返したところで、レジーナは深く息を吸いながらベッドの上で目を開けた。
体を起こし、暗い室内に目を凝らす。執務机に埋め込まれたデジタル表示の時計は午前の四時半になろうとしている。
なにもかけていなかったのが災いして、体はすっかり冷えていた。腕をさすりながら上着に代わるものを探して見回す。と、
(上がったのか)
部屋にひとつだけ設けられた小さい丸窓から、白ばむ空が見えた。どうやら知らぬ間に海上へ出たらしい。景色が流れていないことから、艦はただ波に揺られているだけのようである。
ヴィクトリア・フォールズへ発つのかもしれない。そう考えたレジーナの脳裏をアルマの困り顔がよぎる。
(まあ、気にしたところで)
仕方がない話とはわかっている。それでも気になってしまうのは、きっと、彼女のもがく姿が過去の自分と重なるからだろう。
自分の在り方に迷っていた、あの頃に。
近づく朝の気配に誘われて、気晴らしを求めたレジーナの足は自然と甲板を目指した。




