第十話「暁への飛翔」⑤
ヴェントゥスに残された一行は神楽夜救出の目処をつけられぬまま、明かりのない大西洋に身を潜めていた。
連合艦隊の追撃を免れたとはいえ、神楽夜とゼルクを同時に失ったのは深い痛手である。当然、艦内の空気は葬式のように暗い。なかでも、強い自責の念に駆られたジック・ブレイズの憔悴ぶりは、目に余るものだった。
包囲網を突破してからというもの、ジックは自室にこもり気味である。そんな夫を心配し、妻のアルマ・ブレイズはこうして頻繁に部屋とブリッジとを行き来していた。
時刻は夕食の頃合いである。
樹脂製のトレイに野菜のスープと缶詰入りのパンを乗せて持ってきたアルマは、入室するなり、明かりの消された室内に小さく驚いた。
「ジック……」
哀れみを含んだ調子でそう呼びかけるも、ベッドの上で仰向けになった夫は、トレードマークである赤いテンガロンハットを顔に被せたままだ。
アルマはトレイを部屋の片隅にある執務机に置き、ベッドに腰かける。その軋みにすら、ジックはなんら反応を示さない。
顔が見えず、アルマはどう触れるべきか迷った。
――俺の、せいだ。
連合の包囲網から脱したあと、ジックは神楽夜が連合に捕まったと知り、やり場のない怒りと悔しさを込めてそう言った。
夫がそういう顔をするのを、アルマはもう何度も見てきている。
研究所から逃げ出したあとからそうだった。ジックは夜になるとしばしば彼女に「ごめんな」と言うようになった。
「どうして?」
追手から逃れようとひたすら東へ進み、マルマラ海と黒海の間の陸地を伝って砂漠へと出たある夜、アルマはそのわけを訊いた。彼女がまだ、髪を染める前のことである。
窓のない石造りの廃墟のなかでは、ジックが起こした小さな焚火が哀しげに燃えている。部屋の片隅に肩を並べて座したふたりは、ひとつの赤いポンチョに一緒にくるまり、その揺らめきを見つめていた。
ポンチョは、ここに至る道中の商店から盗んだものだ。いま着ている服のほとんどは、そこで盗った。
「私、なにも後悔してないよ」
アルマは隣の夫に真摯なまなざしを向けた。しかしジックはそれに目をやることもなく、
「でも……」
と、そのあとに続く言葉を口にしない。だからアルマははじめ、彼がなぜ謝るのか理解できなかった。あんな場所で生かされるくらいなら、いっそ死んだほうがいい。彼もそう思っていると信じていたからである。
それだけあの場所での時間は筆舌に尽くしがたく、まさに地獄のような毎日だったのだ。
ゆえに、彼女は日々願っていた。
肉を削がれるたび。
武装した兵士の集団に嬲られるたび。
劇薬を投与されるたび。
自分を実験動物として生み出したのならば、いっそ人間らしい感情など排して欲しかったと何度も願っていた。何度も何度もだ。
けれども、自分を冷徹な目で観察する白衣の者らに、その願いが届くはずもなく。来る日も来る日もガラス張りの巨大な箱のなかで、彼らの理想のために酷使され続ける。
だんだんと彼女も気づきはじめていた。
彼らが自分に求めるものは、なんでもない。
どこまでいけば壊れるのか――ただ、それだけだと。
そう。彼女は通過点でしかなかったのだ。
実のところ、ブレイズ研究所の活動は、その中心にいたジックの両親が<プラハの悲劇>で死亡した際に一度、凍結している。彼らしか研究内容の真髄を知り得なかったからだ。
だが、なんの因果か。ほどなくして、ジックの父母がかけた保険は明るみに出ることになった。
黄金の繭を観測するため、ヴェルナー・ゲッツェン率いる討伐隊に同道する任を帯びたブレイズ夫妻は、万が一に備え、それまでの研究成果のすべてをある場所に秘匿していたのである。
当時三歳だった彼らの実子、ジック・ブレイズの腹のなかだ。
すべては予想し得たことだった。
マイクロ・チップとして埋め込まれていたそれの発見は、研究を続けたい者にとって僥倖以外のなにものでもなかった。
かくしてブレイズ研究所の残党は、十五年もの年月をかけその中身を読み解き、アルマという試作品をこの世に生み出すに至った。その後の彼女がどのような地獄を見たのかは、もはや触れるまでもないだろう。
父母の死後、長らく被検体となっていたジックにアービターの証が現れたのはこの頃だ。だが、人間としての限界に立たされ続けた彼に、力を使って状況を打開しようなどという希望が湧くことは、一切なかった。
やがて、目を覆いたくなるほどに擦り切れたふたりは、研究者たちからすればもうごみでしかなかった。だから彼らは最後に、異種交配を模索した。人間と人造人間を交えたさきになにが生まれるのが、それを試そうというのである。無論、使い捨ての作り物である女に生殖能力はない。遺伝子的に交える試みだった。
そうした異種交配によって英雄足り得る存在が生まれるのは、神話によく見られる説話だ。異種婚姻譚とも呼ばれるが、研究者の一味にそのような思想を持つ者がいたとしても不思議ではないだろう。なにせ彼らが目指すものは「人類を超える人類」なのだから。
しかしそれが結果的に、彼らの破滅を早めることになった。
すでにアービターとして目覚めていた男に、なにかを守りたいという心の火を灯してしまったのだ。それは研究員らの失策であり、また、心などいらぬと思っていた男と女にとっては、なんとも皮肉な運命であった。
「……もしかして、あそこにいたほうがよかったって、思ってる?」
アルマは隣で黙り込んだきりの夫から顔を戻すと、目の前で燃える焚火を見つめ、そう言った。
けれどジックは苦々しい面持ちでうつむくのみである。
「ジック……?」
訊かなければならない気がした。少し問い詰めるような雰囲気になったかと後悔したが、アルマはそのまま夫の言葉を待った。
するとジックはしばしの沈黙のあと、
「俺の、せいで」
と消え入りそうな声でつぶやいた。
「……俺が一緒に逃げようなんて考えなければ、こんな思い、しなくて済んだんじゃないかって、思ってな」
そしてやや間を置いて、
「怖いんだ」
ジックがつないだ手に力を込めたので、アルマは不安げに彼の横顔を見つめた。
「無事に朝を迎えられるのかって。眠っている間にやつらが来たらと思うと、怖くて眠れなくなる」
ジックの目には隈ができ、アルマには心なしか痩せたように思える。
人を人として扱わないあの場所から逃れて、早一ヶ月。いまだ追手の脅威は尽きない。その疲れが現れているのは明らかだった。
「私は」
今度はアルマがジックの手を強く握り返した。
「私は、ね。ジックといられるだけで、いい。ジックが生きて、ここにいてくれるだけでいいの。ふたりで老いて、死ぬ。そんな当たり前のことに向かえるって、すごいことだよ」
だから、後悔なんてない。アルマの澄んだ琥珀色の目を見て、ジックはその心を確かに受け取った。
「老いて死ぬ、か」
「うん。だって私たちは、夫婦だもん」
そうはいっても、式など当然挙げられようもない。指輪だって渡せない。アルマははなからそんなものを求めはしないだろうが、わかっていてもジックはなにか、証に代わるものが欲しかった。
「……なあ。どこかで指輪、探さないか」
やにわにそう切り出したが、
「え、指輪?」
応じたアルマの顔はどこか浮かない。
「いらない、か……?」
やはりと思い、ジックは遠慮がちに訊いた。
するとアルマは、悩ましげに眉を「ハ」の字に寄せて唸り、
「あ!」
と、なにかを思いついた様子で声を上げた。
「髪の毛」
突拍子もない答えにジックが「髪?」と確かめる。
「うん、髪の毛の色。こんなに白いと目立つから、変えたほうがいいかなって」
染料なら安く買えるでしょ、とアルマは続けた。
「いいのか、それで」
改めて訊くジックを置いて、アルマはポンチョからもぞもぞと抜け出ると、ガラスのはまっていない窓辺に歩み寄り、
「うん。ジックと同じ色にしたい」
そう言って振り向いた。
夜空に浮かぶ白銀の月と同じ、真っ白い髪がさらりと煌めく。
「私、ふたりでいろんなところに行ってみたいんだ」
窓の外に浮かぶ月を見上げて、アルマは言う。その希望に満ちた横顔は、ジックにすれば、出会った頃からは想像もつかないほど見違えたものだ。
自分がどうしたいかを口にできるようになったことからして、大した変わりようである。それが、自信を失いかけていたジックの心をわずかに引き上げた。
そう。自分たちはもうどこにでも行けるのだ。
「ああ、行こうな」
ジックは穏やかに言った。
しかし夫妻の旅は、自由を謳歌する旅とはならなかった。時を経るごとにアルマ・ブレイズは衰弱していき、やがて旅の目的は、その治療法を求めるものへと変わっていったのである。無論、脱走した当時のふたりには、想像すらできないことだった。
回顧から返ったアルマは、ベッドの脇に置かれた汚れ切ったバックパックのなかから、髪の染料が入った小瓶を手に取り眺める。染料は、ジックが用心棒などの真っ当な仕事をして稼ぎ、買ってきたものだ。ちゃんと働いて買うあたり、ジックはアルマがなぜ指輪を諦めたかをちゃんと理解したようである。
盗ってきたものよりも、心があれば、なにもいらない。
それ以前に、実験動物だった自分に<ブレイズ>という姓がついただけでも、アルマは充分だったのだ。
それはきっと、この男も理解している。
アルマは手にした小瓶から、寝返りひとつ打たない夫へと首を振り向けた。
(私なら、なんて)
かける言葉を探しても浮かばず、アルマは仕方なくベッドから腰を上げた。
小瓶を、夕食の乗ったトレイの横に置く。そしていま一度ジックの寝姿を見やり、彼女は静かに部屋を立ち去った。
その音を聞いてようやく、ジックは顔に被せたテンガロンハットを片手で取り上げ、渋面を覗かせた。




