第一話「黄金の騎士と黄昏の少女」⑨
どこをどう駆けたかはわからない。気がつけば、神楽夜は大天守より出で、眼下に大門を望む長大な坂の上に立っていた。
いまや大門を含む城壁の彼方には、右手より射す斜陽がみかん色に染める、古都の街並みが一望できる。
そして振り向けば、門越しに白亜の大天守が屹立する。喜ぶべきか悲しむべきか、鍾馗らは追ってきていない。
ひとまず、考えられるだけの時間はできたということだろう。神楽夜はひと口では言い表せない心の内を、深々とした嘆息として吐き出した。そのまま門の脇へ力なく歩み寄り、壁にぐったりと背を預ける。
覇気のない目を遠くにやれば、影絵となっていく城下町の上を、からすの群れが横切っていた。おそらく巣に帰るのだろう。
(いいな、自由で)
そう心中に吐き出しながら、神楽夜はずるずると崩れるようにうずくまった。
多少の困難はあれど家には帰れると、淡い望みを抱いていた自分が馬鹿だった。否や、いまの自分も大馬鹿者だ。こうして塞ぎ込んでいれば、少なくとも悪い方向には行かないと考えている。実に浅ましいではないか。
結局はただの時間稼ぎでしかない。老師のあの口振りだと、ほかに策はなさそうである。さすれば是が非でも、養父探しに駆り出させるに違いない。
そこで脳裏によみがえるのは、大広間に踏み込む前に麟寺が言った、あの言葉である。
(なにが)
――道を決めるのは、いつでも自分だ。
(だよ)
神楽夜はまたも嘆息を吐き、膝を抱いた腕のなかに顔をうずめた。
(好きでこうなったんじゃない)
不慮の事故だった。そう、事故だ。あの場で繭の覚醒を予見できる者などいなかった。
(その責任も、誰かが負わなくちゃいけないっての?)
麟寺が「責任を取る」と言い出した時から感じていたことだ。いったい彼がなにをしたというのか。
今般言い渡された養父探しは、彼女にとってそれと同じだ。やらねばならぬ理由はない。第一、国の存亡をかけて、どこにいるかもわからぬたったひとりの男を探しだすというのは、いくらなんでも無謀が過ぎる話ではないか。
それに、己が身をもって万人を救おうなど、およそ人間のすることではない。ならば養父が姿を消したのは、それに嫌気が差したからではないのか。三年もの間、便りのひとつもないことが、それを物語っているではないか。
きっと、逃げるための口実が欲しかったのだ。そう、いまの自分のように。
うしろ向きな考えというものは、どうしてこうも簡単に連鎖するのか。神楽夜の思考は、混沌とした黒い渦に囚われていった。
その時、うずくまる彼女に、何者かの影がかかる。
気配に気づき、はたと顔を上げた彼女は、
「あなたは、さっきの……」
と、呆然として男を見た。
「みなはエルソードと呼ぶ。カグヤ・イヴ」
引き上げたと思われた黒ずくめの男――エルソードは、逆光を浴びながらこちらを見下ろしている。赤々とした入り日を背に、全身を覆う黒い布を風に揺らすそのさまは、どこか邪悪にも思える。死神のようだ。
「なんで、名前……」
それも彼女を困惑させた。この男に名乗った覚えはない。
うろたえつつ見上げる神楽夜を前に、エルソードはなにがおかしいか鼻で笑った。
「なんですか」
神楽夜はわずかに怒気を含める。しかしエルソードは釈明するでもなく、
「いや、やはり人違いのようだ」
そうあっさり返してくる。
「人の顔見て笑って、そのくせ人違いって」
(なんだ、こいつ)
睨み上げる神楽夜の目はますます厳しいものになるが、それでこの黒ずくめが怯むはずもない。
「失礼をした。君によく似た人を知っているものでね」
穏やかな態度を変えずに告げた。
ほかの者が相手ならば下手な言い訳にしかならないだろうが、エルソードのその言は娘の関心を大きく引くに充分だった。
「え」
神楽夜はがばと立ち上がり、
「どこにいるんですか、その人!」
と、食ってかかるようにして黒ずくめに訊いた。
一方のエルソードといえば軍帽のつばが目元を隠し、その表情を読み取ることはできない。しかし、続く声色には落胆がにじんだ。
「それがわかれば、こうして声をかけることもない」
黒騎士の言葉に、神楽夜は乗り出した身を引っ込める。そのまま視線を足元へ落とした。
「それに、そんな迷った表情はしなかった」
「――そう、見えますか」
いざ明言されるとにわかに腹が立つ。さして知らぬ他人からであればなおさらだ。
だが、黒騎士はそんな心情すら見透かしたように、
「ああ。甘えた子供そのものだ」
と追い打ちをかけるように言った。
「な……」
信じられないといった顔でまたも睨みつけた神楽夜であるが、それでも喉元まで出かかった言葉を飲み下した。売り言葉に買い言葉である。この男と言い争ったところでなんの解決にもならないし、不毛なだけだ。
(どいつもこいつも……自分の都合ばっかり)
しかし、すぐにこうも思った。
(……勝手してるのは、お互い様か)
と。エルソードの言うとおり、いまここにいる自分は、己可愛さにだだをこねる子供のようでしかない。腹を立てたのは図星だったからだ。
そう考えるうち、彼女の脳裏に再び麟寺の言葉が去来した。
――たとえ誰かに流されたとしても、決めたのは自分だ。選択には責任が伴うことを、忘れるな。
(責任……)
繭のそばまで行くことを選んだのは自分だ。そして、ここに戻ることを選んだのも自分だ。黙って守られることは違うと、そう考えたからではなかったのか。
だのに、いまの自分はなんと、都合のいい。
その自省を貫くように、
「なぜ恐れる。カグヤ・イヴ」
と黒騎士の問いが駆け抜けた。神楽夜ははっと目を見開き、男を見た。
男が背にした山の向こうに、残紅が静かに落ちていく。それに伴い確かな像を結ぶ黒騎士の、軍帽越しの碧い瞳が、神楽夜の真髄を見抜かんと炯眼を射る。
それは人か、それとも悪魔か。
「なんでって……そんなの、わからない。怖いから怖いじゃ駄目なんですか」
「怖いから、か。それも正しい。だがそれでは理由になっていない。なぜ恐怖を感じる? なにが恐ろしい?」
「なにが……」
問いの意図がわからず、神楽夜は黒騎士から視線を外すと、眉間にしわを寄せて黙り込んだ。
そもそも自分は恐れているのか。単にいわれのない役目を押しつけられ、「なぜ自分が」と辟易しているだけではないのか。
うつむく彼女は胸の前に持ち上げた右手を見つめ、それを握り締めた。
もしなにかに恐怖を感じているとしたら。
そう考えて真っ先に脳裏を掠めるのは、やはり、あの黄金の騎士の姿である。
騎士の回想が引き連れてくるのは、死への恐怖だけではない。いまも右の拳に残る、腹を貫く感触さえもよみがえらせるのだ。
無我夢中で抉り抜いたあとにやってくる、それまで動いていたモノが動かなくなるという不可避の事実。そう、あの瞬間にこそ、神楽夜は恐怖を覚えた。決定的に変わってしまうこと、取り返しがつかなくなることを恐れたのだ。
己の生死がかかっていたとはいえ、自分の手は、確かにあれを貫いた。いかに甘いとそしられようとも、そこにあったかもしれない命を奪った可能性は、決して無視できるものではない。
なぜなら聞こえていたからだ。声らしき音を。自分はそれに誘われたがために、あの騎士と対峙する羽目になった。
(そっか……怖いんだ、私)
踏み出せば、なにかが変わる。その時のように。
だが。
――芯がない。
老師のその言葉どおり、受け止められるだけの自分がまだ、手元にはない。
己の名すらわからないのだ。背中の傷のわけも、どこに求めればいいのかさえわからない。
地に足がついていないような日々に、もはや答えは望めないと知っている。しかしだからこそ、これ以上過去を置いていかないためにも、彼女は劇的な変化を避けたかった。
(だって、ここを離れたら)
それこそが、黒騎士の指摘した恐れだった。自分ら姉弟が拾われたこの地にこそ、出自に至る手がかりがあるはず。そう信ずる彼女にとっては、国の行く末も無論大事だが、己の過去を得ることもまた等しく要事なのである。
すると、思案に耽る神楽夜に突として、
「あの夕日、街の者からはどう見える?」
と、黒騎士は身を翻して問うた。
彼らから見える西の山間には、まだ落日が頭を覗かせている。しかしその山が壁となり、城下の街は一面、影のなかだ。ここは街のある平地に比べ高さがある台地ゆえ、当然である。
「どうって……たぶんもう、見えてない」
神楽夜のその素直過ぎる答えに、
「そうか?」
と、エルソードは含みのある横目で彼女を見やる。
そして続けた。
「場所を変えれば、見え方も自ずと変わる。己が見えないというのなら、自分の置き場を変えることだ」
「どう、して」
神楽夜は驚嘆した。この男にひと言でも心の内を言っただろうか。
だがそれよりも、
「――自分の、置き場を」
神楽夜はその言葉を取りこぼしてしまうほうがいけない気がした。
「問い続けろ、カグヤ・イヴ。『なぜ』と己に問い続けろ。思考の歩みを止めるな。生きて、そこに在るのならば」
エルソードの諭すような言葉は、神楽夜ではない、遠い誰かに向けられているようでもあった。
「……余計なお世話だったな。失礼する」
黒衣が斜陽に翻る。坂を下る黒騎士は、近づく夜の気配に溶けるようにして去っていった。
――問い続けろ。
彼の言葉が、ひとり残された神楽夜の胸に残響する。
(このままで、いいわけないよな)
自分を手探る日々のなか、自分がしたことすら目を逸らすなら、自分はいったいどこにいる。
「行くか……」
旅立ちを半ば諦め混じりにつぶやくと、彼女は入り日の残滓に顔を向けた。
「姉ちゃん」
背後からした呼び声に思考を遮られ、神楽夜ははたと振り返った。
見れば、心配げに眉根を寄せる朔夜がいる。おそらく駆け回ったのであろう。少し肩で息をしている。
「――行こう、サク。養父さんを探しに」
朔夜はやにわに切り出されたその言葉に、一瞬だけ戸惑いの色を顔に浮かべた。てっきり断ると思っていたのだ。
いったいどうした弾みか。そう訊いてみたいところだが、もはや問答の余地はないだろう。とかく、この姉は「こうと決めたらこう」という頑固者だ。その実、沈みゆく夕日を後光のように浴びる姉の顔には、静かなる決意が見て取れる。
もとより、朔夜も父親捜しには乗り気だ。
「うん」
かすかな間を挟んでそう応じれば、それを認めた神楽夜は小さく頷き、城へ戻るべく一歩を踏み出した。