第一話「黄金の騎士と黄昏の少女」⑧
麟寺のうしろに続いて城内を進むと、どんどん人の気配が薄れていった。と同時に、厳かな空気が漂いはじめる。
京都白城は外観こそ城を模倣しているが、内部は至って現代的な造りをしている。神楽夜たちが歩いている廊下も、敷き詰められた大理石調の床タイルに、アール(曲げ)のついた木製の柱型が一定の間隔で立ち並ぶ当世風な趣だ。人が行き交うためか、それとも権威を示すためか、その幅は大人が四、五人並んでも余裕がある。天井も高く開放的だ。
神楽夜は城のなかに入った経験は数えるほどしかない。養父に連れられて応接室に通された程度だ。こうまで奥に入ると、城のどのあたりにいるのか、すでに見当もつかない。
きょろきょろと不安げに視線を走らせる神楽夜の前に、重厚な木の扉が立ちはだかった。艶のある深い茶色の扉には細かな彫刻が施され、金の取っ手がついている。両開きになっているその右側を押し開けた麟寺に続き、先へ進む。
今度は床が絨毯に変わった。落ち着いた赤の絨毯だ。そこから左右の壁には漆塗りのような木の腰壁が立ち上がり、それより上はベージュに近しい優しい色合いの壁紙が張られ、額に収められた絵画が飾られている。
そこは、ここまでの通路に比べるといささか手狭だ。人がすれ違うには十分だがその程度である。また明かりも、低めの天井に吊るされた小さいシャンデリアが点々として、床に光の傘を落とすだけである。
全体的に仄暗いその場所を進めば、右手の壁沿いにアンティーク調のフラワースタンドが見えてくる。高さが胸の下ほどまであるその上に、細身のガラス花瓶がひとつ乗り、そこに挿された一凛のすみれが神楽夜の視界の端に流れていく。
と、そこで麟寺が足を止めた。
「ここだ」
またしても巨大な扉があった。さきほど抜けた扉とはふた回りは違う。装飾は近いが、神楽夜には地獄の門に見えた。
麟寺は金の取っ手に手をかけ、動きを止めた。これから起きることを彼は知っている。だからこそ彼女らの道行に、せめてなにか、言葉を贈らねばと立ち止まった。
取っ手から手を放した麟寺は姉弟に向き直り、その巨躯を屈める。
親心をこの子らはまだ知らない。それだけ養父は不器用な男だったことを、なによりも麟寺が知っている。
だから。
「カグヤ、サクヤ。このさき、さまざまな理不尽がお前たちに降りかかることだろう。だが忘れるな。道を決めるのは、いつでも自分だ。たとえ誰かに流されたとしても、決めたのは自分だ。選択には責任が伴うことを、忘れるな」
この扉を抜ければ、そこはきっと地獄に違いない。やにわに紡がれた師の言葉は、自分たちがたどる道を暗に示しているようだ。その、どこか焦りを感じさせる物言いに、
「どうして、そんな……」
と神楽夜は疑念の色を浮かべる。
それでも、麟寺は言葉を続けた。
「そして忘れるな。ここはお前たちの帰ってくる場所だ。いいな?」
「先生……」
言わんとするところがはっきりとは見えないが、ついて来るべきではなかったと、神楽夜はいまさらながらに後悔した。
「――行くぞ」
立ち上がった麟寺によって、扉が押し開かれる。
踏み込んださきは、舞踏会でも開くのかといったくらいの、ばかにだだっ広い空間だった。控えめながらも高級そうな調度品が目に留まる。
欅の床が敷かれ、白い裂地の壁が続くその最奥。玉座には、十三にしてこの国を統べる神皇泉白神と、その傍らに控える翳祇鍾馗の姿があった。
白神は殿様然とした白い紋付袴という身なりでいる。が、黒髪は髷を結うわけでもなく短髪で、目元は妹の紫蘭とは異なり垂れて、口角は緩やかに上がり、ごく普通の少年といった印象だ。だが、紫蘭とともに幾度か暗殺の危機を乗り越えただけあり、幼いながらも慧眼を持つ神童である。
座して待つ彼はあどけない顔をして、その実、己が傀儡であることを理解しているのである。もちろん、自分が退けば妹がこの場に立たされることもだ。それだけはならないという思いも秘めるがゆえに、彼は皆が望む人形を演じていた。
「陛下、お待たせいたしました」
姉弟を先導する麟寺はそう告げると、ふたりを玉座の前に留め置き、自分は白神を挟んで鍾馗と対になる位置に移動した。
それを見送りつつ彼らの背後に目をやれば、壁面を埋め尽くして並ぶ窓は身の丈の三倍以上はあった。いまはそこから黄昏時を迎えた京都の街並みが広がっている。
壮観と評したいところだが、国家の重鎮三名を前にしたこの状況である。さきの麟寺の発言といい、神楽夜はいやな予感しかせず、しかめた面を崩せない。それは朔夜も同じようで、呼吸の音すら遠のくような静寂のなか、姉弟は直立して固唾を呑んだ。
やがて、鐘馗は厳めしい口調で話をはじめた。
「お前たちにトウヤを探してもらう」
久しぶりに聞いた養父の名に神楽夜は、
「養父さんを? なんでまた」
と、すかさず問いを投げた。それに、
「繭だ」
鍾馗も即座に応じる。
「繭?」
「お主が倒したものとは別に、この日本にはもうひとつ、繭がある」
(別の……?)
黄金の騎士が、神楽夜の脳裏に差し迫る死の象徴となってよみがえる。彼女は慌てて、きつく瞼を閉じた。
鍾馗は続ける。
「青い繭だ。三年前、トウヤが日本海に沈めて以来、落ち着いていたものが、いまになって覚醒の兆しを見せている。対抗しうるのは、トウヤを置いてほかにない」
なんとも一方的な話だが、その前に、神楽夜は三年前という単語に引っかかりを覚えた。
「待って。三年前って、養父さんがいなくなった……」
そう、それは雨の夜。養父は鬼の形相で帰宅した。焦りや怒り、憎しみといった激情がない交ぜになったその顔に、当時の神楽夜は声をかけることをためらい、結局理由を聞けぬまま養父は失踪したのである。
(あれは繭と、戦ったあとだった……?)
しかし、それと出奔の理由とが結びつかない。神楽夜が怪訝に眉をひそめると、
「やつは、アービターを探しに出たのだ」
と、鍾馗は聞き覚えのない単語を口にした。
「アービター?」
「ただの伝説にすぎん。だが、これまで繭が現れた場所には、必ずアービターの姿があったとされる。ゆえに、彼らは繭を討滅する使命を帯びた戦士といわれている」
(彼ら……)
つまり複数人いる、ということか。
「それと養父さんが、どんな――」
関係があるというのか。神楽夜はそう最後まで口にしかけ、不意に頭をよぎった考えにそれを呑み込み、
「……アービター。養父さんが」
と、おおよその事情を察した。
「もはや一刻の猶予もならん」
強まった鍾馗の語気に、神楽夜は開いた口を塞ぐことを忘れ、彼を見つめた。
鍾馗は畳みかける。
「もし再び東京のようなことになれば、この国は終わる」
そこで白神の片眉がぴくりと動いたが、それに気づいたのは朔夜だけだ。
首領を横にそこまで言い切るとは。麟寺は予想外のあまり、思わず盟友の顔を横目で確かめた。しかし、鍾馗の燃えるようなまなざしは、神楽夜を捉えて離さない。
神楽夜は困惑しつつ訊いた。
「でも、探すにしたって」
「七か月前、シスル財閥の令嬢と接触したという情報がある。ロンドンだ。それに――ここにはゼルクがある」
鍾馗の背後に広がる京都の風景が、軍の飛行場へ切り替わる。背後にあったのは窓ではなく、巨大なモニターだった。斜陽に焼かれる<アームド・ゼルク>がそこに映し出される。
鍾馗はそれに振り返りもせず、
「やつがいまも生きている証だ。アービターは互いを引き寄せる。ゼルクが父への導となろう。そして、あれを動かせるのは貴様らだけだ」
そう、姉弟に使命を授けた。
「動かせるのは、私たちだけ……」
確かめるようにつぶやく神楽夜だが、内心は穏やかでない。
鍾馗の言うとおり、<アームド・ゼルク>は本来の持ち主である灯弥以外だと、姉弟によってのみ稼働する。たとえ弟・朔夜が同化をし、姉・神楽夜に代わって別の者が搭乗しようとも、なぜか制御を移譲することができないのだ。
それが姉弟であるがゆえなのか、理由は判然としない。そも、人間が機械に意識を移し、それをまた別の者が操作するなど、奇想天外、荒唐無稽というほかない。理由なぞ探すだけ無駄なようなものである。
(先生が言ってたのはこのことか……)
神楽夜はどうするべきか決めあぐねた。それを隣立つ朔夜は不安そうに見上げた。
養父が生きている。それ自体は喜ぶべきことだろうが、神楽夜はいまいち乗り切れない。
朔夜とともに山で拾われて数年、家族としての形を取りはじめたそばからの失踪。理由を告げぬ出奔は、疑念だけを残して然るものだ。不明の三年が、彼女に二の足を踏ませるには充分な理由に育っていた。
沈黙が、その場を支配する。
すると、
「行こうよ」
それまで黙して語らなかった朔夜が、突として口を開いた。
「父さん、探しに」
「サク……」
国がどうなるかなど関係なく、子には親が必要である。弟の純粋なまなざしはそう訴えるようで迷いがない。
だが神楽夜は承服しかねた。国家の運命をもかけた人探しだ。ならばこそ、相応の人材がいるではないか。それを十八番とする家門が。
「翳祇のひとではダメなんですか」
「ならぬ。カグヤよ。貴様も東京を見たであろう。分断こそ免れたとはいえ、我が国は国難のさなか。連合がいつ海を越えて来るかもわからんのだ」
連合は、現在の地球の支配者といっていい。日本がそこからつま弾きにされた歴史を、学がない神楽夜が知るはずもなかった。ふたりの温度差には、それも大きく影響している。
死に体の日本を救おうなどという国は、この世界にはないのである。たったひとつ、月を除いて。
鍾馗の顔は、国を守らんとする固い意思が浮かんでいた。それを汲み取れない神楽夜ではない。ただ、どうしてか黄金の騎士の姿がちらつくのだ。思い出すだけで脳の前部分に血が集中するような、ぼうっとした頭痛に苛まれる。
それは、生きている実感に乏しかった毎日に、奇しくも色を添えた。うろ覚えのなかで、それだけが鮮明に残っている。受け入れがたいことだが、神楽夜はあの戦いで絶頂すら覚えかけたのだ。恐怖と興奮、そのふたつをむさぼるような自分を、だからどうにかして、かつ密かに、遠ざけたかった。
その中身までとはいかなくとも、迷いがあること自体は鍾馗に見抜かれている。彼は言葉をつけ加えた。
「アービターは、ひとりで一軍に匹敵するという。その絶大な力を欲する者は多い。連合は然り、レジデンスもまた然りだ。我らがアービターを探していると悟られれば、さらに厳しい状況に追い込まれかねない。――遺憾だが、いまの我が国に、他国と戦う余力はない」
最後のひと言は力なく響いた。だが、そこに宿る無力感をいま一身に感じているのは、ほかならぬこの姉弟である。
「私たちだけじゃ、無理だよ」
神楽夜は鍾馗から視線を外した。
麟寺は、己の責任でもあるために口出しはすまいと黙していたが、そこでようやく声を上げた。
「なにも、お前たちだけで行かせようとは考えておらん。――入れ」
促されて、神楽夜たちが入ってきた扉が再び開いた。その音に、神楽夜と朔夜は同時にうしろを見やった。
現れたのは三十代を折り返したくらいの、世間擦れした印象の男だった。こけた頬に眠たそうな目をして、無精ひげを生やした口元には嘲りが浮かんでいる。寝ぐせなのかパーマなのかわからない、ぼさぼさした赤茶の髪がだらしない。しわくちゃなリネンシャツも一層だらしなさに拍車をかけている。
彼の紹介は鍾馗が引き継いだ。
「傭兵だ。貴様らとゼルクの輸送を担ってもらう。無論、護衛もだ」
(護衛? こんなひとが?)
と神楽夜が心に秘めたはずの文句は、男には筒抜けだった。愕然とする神楽夜を見て、それを鼻で笑う彼には、客がそういう顔をするのを愉しんでいる節がある。
男は一転、ぎらついた目を神楽夜に向けて名乗りを上げた。
「シーカーだ。どんなブツでも最速で届ける。よろしくな、雇い主さん」
(ブツって……)
あまりの乱雑な言い回しに神楽夜は言葉を失った。そこで間髪入れず、
「貴様の雇い主は我が国だ。勘違いするでない」
と釘を刺す鍾馗に、姉弟は視線を戻す。
「繭はいつ目覚めるかわからん。早急に見つけだし、ここへ連れ戻せ」
鍾馗は改めて下知を放った。
無謀だということは、その場にいる誰もがわかっている。だが選べる道はただひとつだ。
神楽夜に繭と戦う選択肢はない。あの勝利は偶然だと、骨身にこたえているのはほかならぬ神楽夜である。ならば、導き出される答えは明らかだ。
すでに決められたことを思案するには長すぎる間を挟んだあと、
「少し……考えさせて」
神楽夜のそのひと言に、鍾馗の怒声が飛んだ。
「時間はないと言った! 勅命であるぞ!」
決して予想しえなかった答えではない。
しかし、神楽夜の選択を誰が責められよう。事の正否によっては、何千、何万の命が犠牲となるかもしれないこの期に、我が身可愛さで尻込みするとは、齢十七かそこらの娘にとって、至極当然のことではないか。
さりとて鍾馗の怒りが間違いかと問われれば、国を預かる者として、それもまた当然のことなのである。
「行こう、サク」
神楽夜は踵を返した。だが、朔夜はその場を動こうとはしない。
「サク?」
不思議に首をねじ向ければ、
「僕は……僕は、父さんを探したほうが、いいと思う」
弟は背中でそう言った。
まさかとは思っていた。しかし、それもひとつの答えである。神楽夜は孤独になった自分の想いを呑み込むように、小さく息を吸って、口惜しげにその場から駆け出した。
その背中に静止を命ずる鍾馗の声が向けられるが、彼女の足が止まることはなかった。