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第九話「リンケージ」⑤

 一方、イネッサとふたり部屋に残された剛三郎は、アニキが言った「カビが生える」の意味を理解しつつあった。

(すっげぇ、いづらい)

 ベッドの上のイネッサは相も変わらず膝を抱いて塞ぎがちで、別に自分がそうさせたわけでもないのに、剛三郎は変に自責の念に駆られていた。どうせならむせび泣いてくれたほうが、まだ慰めようもあるというものである。

 物音ひとつしない室内では、椅子が軋む音ですら気を遣う。というか、いまこの部屋にいると、気を遣わざるを得ない気がしてくる。剛三郎は音を立ててしまうたびになぜか恐々として、死んだように体勢を変えないイネッサのほうを確認するのだった。

 そして思うのである。

(なんでオレだけ)

 と。

 結局マシューから雇ってもらうことは叶わず、仕方なしに九垓が補助役として雇ってくれる運びとなった。そこまではいい。それで最初に与えられた任務がこれだ。

(なにが警護だ。自分でこんなふうにしたくせに)

 イネッサの警護は、もともと九垓がマシューより仰せつかった仕事である。だのに散々ぱら険悪な雰囲気にしたあげく、別の仕事を理由に逃げるとは。

 ただ、アニキが請け負った仕事の補助をして賃金を貰う約束ゆえに、剛三郎も簡単には文句を言えない。さもなくば、早速今夜から食いっぱぐれてしまう。

 剛三郎は静かに嘆息した。その表情はとても十代前半の子供がするとは思えない、人生の酸いを味わう顔である。

(腹、減ったなあ)

 マシューが去り際に「昼食はすぐに持って来させる」と言って、かれこれ小一時間は経つ。剛三郎はため息とともに、なにも載っていないダイニング・テーブルに突っ伏した。

 腹の虫が侘びしげに鳴く。

 ちらり、とイネッサを盗み見ても変化はない。

(カビ、生えるわ、これ)

 第一に、時間を潰せるものがないのがいけない、と剛三郎は考えた。

 かつていた施設はこの基地のように無機質な造りをしていたが、多種多様な本と同年代らしき子供たちがたくさんいたこともあり、退屈はしなかった。強いて苦痛だったといえば、やることなすことすべてに先生の許可が必要だったことくらいである。

 しかし、いまは感謝している。世界史やら軍事教練やら、よくわからない知識と技能を詰め込まれたおかげで、マシューたちの役に立てるのだから。カーゴフローターの起動ができるのも、その時得た予備知識がなければすんなりとはいかなかっただろう。

 剛三郎少年は自信を持ちはじめていた。自分ならばこんな地味な任務よりも、教会を脱した時のような実戦に近い経験を積んだほうがいいはずだ。それこそがアニキに近づく早道だ、と考えるくらいに。

 それだけに、ますますこの部屋に残されたことが納得ならない。

(早く戻ってこいよなあ)

 そうしたら、まずは格闘の手ほどきをしてもらおう。剛三郎はその胸中ともども、さらにテーブルへうなだれ、無為に時を過ごした。

 すると、これまた大げさに腹の虫が鳴いた。いや、自分のにしてはでかいな、と剛三郎はだるそうに体をテーブルから起こす。その矢先またも、まるで宇宙人が小声で話すような奇天烈な音が響いた。

 もはや疑う余地もない。剛三郎は黙って彼女を向いた。

 のっそりと頭を起こしたイネッサはむっつり顔で、この世の終わりみたいな表情をしている。その間も、彼女の腹の虫は無遠慮な鳴き声を響かせていた。

「イネッサも腹減った?」

 なにげなく訊いた剛三郎に、イネッサは被ったフードのなかで首を縦に数回、力なく揺らした。それだけでも充分な変化である。アニキが見たらなんと言うか。

「ほれ見ろ。やっぱ人間、食うモン食っとかねえとな」

(なんて言いそうだな)

 剛三郎は頭に浮かんだアニキの姿を追い払って、ひとり頷く。

 アニキは単純そうに見えて、実は相手をよく観察している。剛三郎はさきほどのやり取りで、九垓にそんな印象を抱いた。そして同時に、他人との関係になにか線引きをしたがる、というふうにも感じた。必ず金の話を持ち出すあたりがそうだ。

 傭兵として生きてきた彼の性なのか。とすれば、同じ道を行くと決めた自分にも必要な生き方かもしれない。

「ゴウザブロウくん」

 物思いに耽る剛三郎はふいに呼ばれ、視線をイネッサに戻した。

「本当に、あの人について行くの?」

 訊いてくるイネッサの困ったような顔には、釈然としない気持ちが表れている。

 いくら自分の人生だから自分で決めろと言われても、剛三郎はまだ子供である。イネッサからすれば、神の導きや大人の助けがいる存在だ。それなのに、人生の命運すら分けかねない選択を迫られて、イネッサは剛三郎が不憫に思えてならなかった。

 まだ考える時間はある。否、あらねばならない。まして、死地へ赴く言い方をする九垓について行こうなど、子供の彼がいますぐに決めるべきことでは絶対にない。

 剛三郎はその思いを、彼女が問いに含んだ「信じられない」と言いたげな語感に垣間見た。イネッサはよほど九垓のことを受けつけられないらしい。自分と同じ救われた者のはずなのに、不思議である。

(ちょっと冷たかったもんなあ、アニキ)

 回顧した剛三郎は、

「アニキは、そんな悪い人じゃないって」

 とささやかな抵抗のつもりで言った。恩人を悪く思ってほしくないという思いももちろんだが、なにより、単純に毛嫌いしてほしくなかった。

「確かに金にがめついとこあるけどさ。でもアニキ、どっからでもやり直せるって言ってたし。やってみたけりゃやってみろって、オレ、言われた気がしたから」

「でもあの人、一緒に行くと地獄を見るって」

 そこが、イネッサの解せないところだった。そんな物騒な話に子供を巻き込むなぞ、まともな思考の持ち主とは到底思えない。普通なら断固として止めるだろう。

 この少年もそうだ。孤児院に行けば暖かい部屋と温かい食事が与えられる。寝床だってそのへんの地べたなどではなく、きちんとしたベッドのはずだ。人間らしい生活を送ることができる。というのに、なんでまたあらぬ道を選びたがるのか。

 イネッサは腐っても信徒。聖なる道を行かんとする者だ。このまま黙って見てはいられない。思い立ったイネッサが考え直すよう口を開きかけた時、一拍の間を置いた剛三郎が「うん」と小さく相槌を打った。

「いいんだ。もう決めたから」

「でも」

 と続くイネッサの二の句を遮って、

「だって、アニキたち、ちゃんとオレに訊いてくれたぜ?」

 揺るがぬ目をして、剛三郎は言った。その目を見た瞬間、イネッサの脳裏によみがえったのはなぜか、去り際の母の顔だった。

(同じ目、してる)

 母の面影などないのに、剛三郎が向けるまなざしは、あの日の母が宿した熱を帯びている気がする。決意の熱だ。なにかを決した者が抱く覚悟を、この少年はすでに得たらしかった。

 はっとしたまま固まるイネッサに、剛三郎は言葉を紡いだ。

「オレ、アニキのやってる傭兵ってのが、本当はどんな仕事かわかんない。地獄だって言ってたけど――けど、否定、しなかっただろ? なんて言うか、ちゃんと話してくれるんだなって、思ったよ」

 理屈などわからない。剛三郎はただ感じたままを話すだけである。自分を子供としてではなく、ひとりの人間として扱ってくれたのだと感じたそのままを。そして決意を新たにする。

「やっぱり、オレはアニキと行く。アニキと一緒にマシューのあんちゃんを助けるんだ」

「助ける……」

 いまさっき、剛三郎は九垓の仕事を傭兵だと言った。現に賃金の話も出ていた。ならば、マシューと彼らの関係は主従だ。それなのに「助ける」と言ってしまうあたり、やはり剛三郎は九垓の仕事のなんたるかを理解できていない。傭兵は誰かに使われる仕事なのだ。決して慈善的な行いではない。

「そんな生易しいものじゃないから、地獄だって言ったんじゃないの?」

 イネッサはますます止めねばならないと思った。かつて父から、自分が生まれた年に起きた<プラハの悲劇>では、連合兵や傭兵が数多く死んだと聞かされている。兵士の世界を知るイネッサではないが、九垓の言う地獄はそれほど想像にかたくない。

 けれど剛三郎は、

「大丈夫だって」

 とイネッサの揺さぶりにも動じることなく、おどけて見せる。

「オレ、なくすものないからさ」

 ――なにかを得るには、なにかを失う覚悟がいるって話さ。

 早々に九垓の言葉を引き合いに出して笑う剛三郎は、大人になろうと必死に背伸びをしている子供だった。

「君に、それはまだ早すぎるよ」

 視線を落としながらイネッサは嘆くように断ずるも、

「いつか後悔すんのかもしんない。でもさ、そしたらやり直すよ、オレ。死んだら終わりだから。オレはそのためにも、アニキと行く」

 生きていればやり直せる。その言葉を真に受ける少年に、イネッサはなんて馬鹿な子供なのかと心底呆れ果てた。

 確かに生きてさえいれば、いつでも、どこからでも立ち直ることはできるだろう。けれど、過ぎ去った時間だけは、どれだけ求めようとも還りはしないのだ。純粋でいられる自分、子供だからこそ許される時間を、少年は棒に振ろうとしている。

 ――だって、アニキたち、ちゃんとオレに訊いてくれたぜ?

(ただ訊いたってだけで、そんなの)

 剛三郎の言い方は、まるで尊重してくれたと言わんばかりだ。果たしてそうと言えるか。本来なら親が追うべき責任を誰も負えないから、ああやって剛三郎本人に押しつけただけではないのか。

(押しつける……)

 そこに至ったイネッサははたと違和感を覚え、思考を停めた。

 ――グラディア様が、アリサにお赦しを授けてくださる!

 クラドノでの夜、亡き父は自分に向かってそう叫んでいた。

(お赦しって――どうして、あんな人に赦してもらわなきゃいけないの)

 いったいそれは、誰の、なんの責任だというのだろう。そのためにどうして自分が武器を持たねばならなかったのだろう。母が連れていかれた理由を魔女狩りだと言うだけで真実を明かそうとしない父に、問うべき責任はなかったのか。

 どんな罪も、どんな悪人も、神は赦すと父は言っていた。むしろ母がいなくなってからは、それしか言わなかった。

(そんなの……それこそ、押しつけじゃない)

 ――ま、人間どっからでもやり直せる。

 自分の足元が揺らぐ錯覚すら覚えるイネッサの心に、九垓の声が残響し続ける。

(でも、もう)

 ――もう過ぎちまったことなんだから。うしろばっか見てねえで、前を見ろ、前を。

(うるさい。うるさいうるさい!)

 また塞ぎ込み、イネッサは視界を闇に落とした。

 ――自分の行先は自分で決めるもんだ。

 この部屋で聞いてきた一連の言葉が、イネッサに重くのしかかった。本当は聞きたくなどなかった。早く立ち上がれ、感傷に浸っている場合などないぞ。自分はなにも言っていないのに勝手にそう言われている気がして、彼女はなにもすることができなかった。殻に閉じこもるみたいにうずくまる以外、なすすべがなかったのである。

 ――大事なのは、自分がどうありたいかだ。

 マシューの声が脳裏にこだまする。

(わかってる。そんなのわかってる。でも。でも、もう。お父さんも、お母さんも、誰もいない。そんな正論(こと)言わないで。言わないでよ。私がいったい、なにしたっていうのよ)

 部屋に自分しかいなければ、彼女はいますぐにベッドにつかみかかり、シーツを八つ裂きにして喚き散らすところだ。ふつふつと湧いてくる激情はなにに宛てたものかもわからない。行き場のない怒りが、全身をめぐる血を煮立たせるようだった。

 きつく眉間にしわを寄せ、服の上から二の腕にまた爪を立てる。顔を伏せているから剛三郎に気取られることはないが、その表情は苦悶そのものだ。

 ――それで被害者面してんのが気に食わねえ。そのとおり、お前のせいだ。

(そう、私のせい。私の、せい)

 九垓の言い分が、すっと飲み込めた気がした。自分は被害者ではない。これは、ほかならぬ自分が招いた結果だ。その事実から目を背けて、こうして鬱屈としていたのだから、九垓から「自分しか見ていない」と言われても否定はできない。そんな自分に、剛三郎に対するマシューや九垓の姿勢をとやかく言う資格はない。

 イネッサは下唇をかんだ。悔しさからではない。ようやく納得できても、これから自分がどうすべきか見えてこないからだ。

 やり直せるなら、あの場所からもう一度と言いたいところである。

 そこでふと、

(……お父さん)

 イネッサは残してきた父の遺体を思い出した。あのままにしておくのは、あまりに忍びない。それに、これではあの場所が、自分の帰る場所ではなくなってしまう気がする。

 もし自分に果たせる責任があるとしたら、巻き込んだ父をきちんと弔うことだけではないか。

 願わくば、そこから――。

 やり直せるという九垓の言葉を胸に、イネッサは静かに顔を上げた。

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