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第九話「リンケージ」③

 その頃、同基地内の宿舎の一室で、九垓(くがい)は出入口の扉に辟易(へきえき)とした顔をやった。

 部屋の外には常時二名の兵が警備についている。外出にも必ず護衛がつく徹底ぶりはいいが、九垓は自分の実力が疑われているようで面白くない。

 ――神父(やつ)が追って来ないとも限らない。万が一に備えて、お前はここに残れ。

 ケルト海へ追撃に出る前、マシューが九垓に言ったことだ。雇い主の指示であるから異存はないけれども、あの<サムライ>と手合わせできないことは、やはり面白くない。

 そう、面白くないのだ。

(なんで、こいつのお守りなんだ)

 九垓は不服そうな顔を、今度は、ベッドの上で膝を抱くイネッサに向ける。彼女の様子はここに来た時から変わらない。頭からシーツを被り、ろくに食事もとらず、ぼうっと一点を見つめたままだ。

(まったく、陰気なシスター(やつ)だ)

 その思いを口に出したわけではないのに、

「アニキ、なに怒ってんだ?」

 と剛三郎がいやに目ざとく反応してきて、九垓は気まずそうに視線を逸らした。

「なんでもねぇよ」

 ぶっきらぼうに返すものの、胸の内はイネッサへの文句にふつふつとしている。いい加減、部屋中に立ち込める湿気た空気にも飽きてきた頃合いだ。このさきずっとこれでは、こちらまでしなびてしまう。

 九垓は「なんでもない」と言ったその口で深く嘆息して見せ、

「いったいいつまでそうしてんだ、シスターさんよ」

 と呆れた調子でイネッサを見た。

 突然話を振られたイネッサは少々驚いた様子で「え」と声を発し、視線を合わせないまでも、九垓へ目を動かした。イネッサからしてみれば、そんなことを言われる筋合いなどない。この男はなにを言い出すのか、という顔になるのも当然である。

 それでも、九垓は構うことなく続ける。

「自分から逃がしてくれって言ったくせに、いつまで湿気た(つら)してんのかってさ」

 イネッサは九垓の言い分がわからず黙った。というより、どうでもよかった。自分は唯一の肉親を目の前で殺されたのだ。それなのにこの男はその心痛を察しもせず、ずけずけと物を言ってくる。あっけらかんとした口調も不愉快で、彼女は嫌悪に近い感情を抱き、自然と表情の(かげ)りを増した。

「……放っておいてくれませんか」

「あのなあ。そんな顔でいられたらカビ生えちまうって」

「カビ……?」

 イネッサは忌まわしげな顔つきで、視線を合わせないように再び九垓のほうへ目だけを動かした。

「そうだよ。なあ、ゴウザブロウ?」

(うわ、こっちに振りやがった)

 まさか自分にボールが飛んでくると思っていなかった剛三郎は、どぎまぎしながら、

「あ、ああ、アニキ」

 と、とりあえず同調する。しかし胸中ではイネッサに同情するばかりだ。あんな化け物に命を狙われたあとで平然としていられるわけがない。それができるのは、経験を積んだアニキだからこそではないか。同じものを求めるのは酷な話に思えた。

 イネッサを見れば、顔つきはさきにも増して沈み込んでいる。剛三郎は安易に同調したことを悔やんだ。

 ところが、九垓はそれすらもお構いなしに言葉を重ねる。

「親父だかなんだか知らねえけど、死んじまったもんは仕方ねえだろ。さっさと切り替えて、これからどうするか考えたほうがよっぽどマシじゃねえか?」

 九垓はそう言うが、到底イネッサには受け入れられない。

(そんな簡単に)

 割り切れるなら苦労はないのだ。

 イネッサは膝を抱く腕に力を込め、

「あなたに……そんなこと言われる筋合い、ありません」

 これ以上かかわってほしくないという明確な意思を、うつむいたまま絞り出した。

 ふたりの間に走る緊張感に、剛三郎は心配そうな顔でやり取りを見守る。思えば、九垓のイネッサへの態度は昨日から変であった。どうしてそこまで絡むのか、疑問の目を九垓に向けた。

 すると九垓は、

「大アリだって。俺が助けなかったらお前、いまごろミンチだったんだぜ?」

 と大げさに肩をすくめる。

「……お礼がほしいってことですか」

「そうじゃねえ」

 九垓はため息交じりに言い、

「ちったあ生き残ったことを喜べってコト」

 と野暮に思いつつも説教を垂れた。さらに続けて、

「こうして四六時中同じ部屋にいんのに、いつまでもくっらーい顔されるこっちの身にもなれっての」

 そう言って腕を組み、ぷいと明後日のほうへ顔を背けてしまった。そこでようやく、イネッサは九垓の姿を直視した。

「でも、私は……」

 偶然とはいえ、あの場に出てこなければ、父はあんなむごい死に方をすることはなかったのではないか。

 いつまでも踏ん切りのつかないイネッサに、

「ああ、もう」

 と九垓はますます肩を落とす。もともとまだるっこしいのは好きではない。

「なにが引っかかってんだ? あれだろ、死んだのが自分のせいだって思ってんだろ?」

 核心に踏み込むことにした。

 図星をつかれ、イネッサは眉間にしわを寄せた。そのしわが、続けて九垓の口から放たれた、

「そのとおりだよ」

 という言葉により深さを増して、はっとイネッサは彼を睨みつけた。

「どういう」

 意味かと問う前に、九垓は、

「それで被害者面してんのが気に食わねえ。そのとおり、お前のせいだ。だいたい、逃げたきゃ自分の足でとっとと逃げればよかったじゃねえか」

 と、教会を出てから溜め込んでいたものを次々に吐き出した。

 九垓は他力本願な人間が大のつくほど嫌いである。自ら努力せず他人の力ばかり頼る輩は、総じてよい結果をもたらさない。それが彼の持論であり、傭兵稼業で学んだことでもある。

 これまで渡り歩いた戦場でも、勝ったはいいが、自分の去ったあとが続かないという結末を何度も見せられてきた。そして、そういう人間たちが決まって言う台詞を彼は知っている。

「私だって……こんなはずじゃ」

 イネッサが発した案の定の言葉に、九垓は鼻で笑った。

「じゃあ、どうなるのがベストだったんだよ」

 その問いにイネッサが己の内を覗き見ても、答えはない。そもそも、死ぬかもしれない恐怖から逃れたい一心の選択だったのだ。それ以外のことなど、考えてもいなかった。

 漠然とした理想をいうなら、父が無事で、自分はどこか遠くに逃げられていればよい。しかし、果たしてそれは叶うものだったのか。たとえ自分が逃げられても、父はその責任を負わされて、同じ末路をたどったのではないのか。

 いずれにせよ、イネッサは答えられない。それも九垓にはわかっていたが、あえて彼女が言葉を紡ぐのを待った。けれど、やはり答えは返らず、

「どっちにしたって考えるだけ無駄だ。もう過ぎちまったことなんだから。うしろばっか見てねえで、前を見ろ、前を」

 と、九垓は軽口でも叩く調子で言った。

(まったく、柄にもねえ)

 発言を省みた九垓は、背筋を走る悪寒に顔をしかめる。やがて場の空気に耐えきれなくなった頃、部屋の出入口にある自動扉が左右に開いて、九垓はほっと胸を撫で下ろした。

 入室したマシューは部屋の微妙な空気を察してあたりを見回し、

「――どうした?」

 と、苦い顔をした九垓に訊いた。

「なにかを得るには、なにかを失う覚悟がいるって話さ」

 九垓は後頭部に手を組んで、腰かけた木製の椅子に反り返った。

(なにかを失う、覚悟……)

 イネッサは人知れず顔を伏せた。

 それが父親だった、ということなのか。その代わりに得たものが、この自由であると。だとすれば、なおさらイネッサは喜べない。どれほど狂信的であっても父は父であり、残された唯一の家族であったからだ。

(お母さん……)

 抱き寄せる膝に額を預け、イネッサは想う。これからのことを考えたほうがいいという男の言い分はわかる。しかし、自分はあの街から出たこともなければ、ひとりで生活したこともないのだ。

(本当に、ひとりになっちゃったんだ)

 彼女を苛む絶望感は、役目を失ったことも大きかった。任されていた孤児たちの世話やスラムへの水の配給といった仕事がなくなったいま、自分がなにをすべきなのか、彼女には想像もできなかった。

 ただそれは、これまで特に考えもせず、父に言われた雑用をこなしてきた彼女自身にも責がある。その彼女がさきのことを考えるようになったのは、自分の身に死が迫っていると直感してからというのだから、皮肉な話だ。

「とりあえず、イネッサとゴウザブロウの居住権は、明日にでも目処がつきそうだ」

 マシューは適当な椅子に腰かけながら、ここに来る途中に受けた報告を明らかにした。動きからは疲れが見てとれる。<サムライ>との戦いは、やはり骨が折れるものだったのか。九垓は気になっている話を催促すべく、

「それよりもさ、兄貴」

 と切り出した。

「あの<サムライ>に乗ってたのはどんなやつだった? 女だったんだろ?」

 問われたマシューは「ああ」とため息交じりに返事をし、

「<サムライ>ならぬ<サムライ・ガール>だったよ」

 と天を仰いだ。

「いや、そりゃ知ってる」

 九垓が知りたいのは見てくれだとか年の頃の話である。自分とあれだけの打ち合いを演じたのだ。さぞ屈強で鬼神のごとき風貌に違いないと踏んでいた。

「化け物みたいなやつだったんじゃねえかって。あの――」

 神父みたいな。そこまで言いかけて、九垓は言葉を飲み込みながら、ちらりとイネッサを盗み見た。

 うずくまったままのイネッサは表情が読み取れず、そもそも話を聞いているのかすらわからない。

(やりづれえ)

 さらに落ち込まれてはかなわない。九垓は言葉を選ぶのにわずかの間を要したが、そこにいち早く気づいたマシューは、

「普通の女子(おなご)だった。見た限りでは子供だ」

 と深刻そうに先んじた。その態度には、いたいけな子供を使う日本の非道ぶりに対する非難の声が含まれている。

「ガキんちょ?」

「ああ。黒髪に赤い目の女子だ。体つきも人並みで、とてもあれに乗っていたとは思えない」

「でも、乗ってたんだろ?」

 マシューは肯定の意味を込め、黙して息をついた。

(赤い目の女ねえ)

 九垓は俄然、興味が沸いた。これまで行った戦地で、先祖に日本人がいるという者は数名見てきたが、どれも大した人間ではなかった。真面目すぎて損な役回りをし、ろくな戦果も挙げられずに死ぬやつばかりで、印象はよろしくない。しかし、その赤目の女は別のようだ。

 さらに九垓は日本という国にも関心を持った。自分をこれほどまでに滾らせる相手を生み出した日本とはいかなる国か。ことによると、赤目の女以上の手練れに出会えるかもしれない。

 生きるために続けてきた傭兵という稼業が淡々としていただけに、こうした心躍る機会に巡り合えたのは、九垓にとって僥倖(ぎょうこう)以外のなにものでもなかった。

「カグヤ・イヴだったっけ? それで、肝心なことは聞けたのか、兄貴?」

 いわずもがな、長らく指名手配しているあの男との関係についてである。

「育ての親、だそうだ」

 マシューは腕組みして思案げに答えた。それもそのはず、まだ確証が得られたわけではない。女が自ら名乗ったのはイネッサに対してであり、この場に至っては「トウヤ・イヴが育ての親である」こと以外、黙秘を貫いている。それにたとえ名乗ったとしても、本名であるという保証はない。

(せめて日本と交渉できれば)

 しかし、アルカンからは時期尚早であると止められている。アーキタイプの解析が済んでからの腹づもりらしいが、マシューには遅すぎるように思えた。

 というのも、

 ――それはできない!

 クラドノの地で投降を呼びかけた際、神楽夜はそう断じた。その語気は明確な意志を孕んでいた。もしあの艦の人間が志を同じくするならば、鹵獲したアーキタイプとその操縦士をこのまま放っておくとは、マシューには考えにくかった。

 先んじて追撃に出る手もあるが、アルカンはこれにも慎重な姿勢である。なるべく事を荒立てたくない彼の性格が出ていた。口説くには相応の根気がいる。

(こっちはこっちで準備しておくか)

 マシューは腹に決めると、

「時に、ゴウザブロウ」

「あん?」

「さっき居住権の話をしただろう。どうする、このまま進めてもいいか?」

 少年に是非を預けた。

 アニキに弟子入りし、旅してまわるつもりだった剛三郎は小さく驚きの声を漏らす。そも、改めて聞かれるようなことだとは思っていなかった。

「もしかしたら、日本に帰りたいんじゃないかと思ってな」

 神妙な面持ちでマシューは言う。

 考えてくれていたとは意外だった。剛三郎は悩ましげに首をかしげ、「うーん」と唸って見せる。正直なところ、帰りたいかどうかはわからない。

「でも日本のことって、大して覚えてないんだよなあ」

 と剛三郎は思ったことを素直に口にした。

「このまま居住権を得てこっちで暮らすとなると、まずは孤児院で生活することになるぞ。親を探したりしたくないか?」

 マシューは心配げな顔を剛三郎に向ける。

「え! オレ、アニキに弟子入りするって」

「それはここに来るまでの話だ」

「そんなあ……」

 居住権の話を振られた時点で妙な予感はあったが、それでもすっかり安心しきっていた剛三郎は見るからに気を落とした。その沈んだ空気のまま、

「親はわかんないから、いいよ」

 と剛三郎はふてくされ気味に言う。

「そうか……」

 マシューは想うところがあるのか、なにやら無念そうに顔を戻す。それが九垓には気になった。

「なんだよ、兄貴まで湿っぽいな」

「いや、昔の自分のようでな。私は孤児院に行かないことを選んだが、もしかすると別の生き方もあったのか、と」

 マシューはテーブルに置いた両の手のひらを見つめる。

「後悔してんのか、あんちゃん?」

 問いに視線を上げれば、今度は剛三郎が心配げな顔を向けてくる。淀みのないその目は、いまの自分にはできないものだった。

 マシューは一瞬の間を置くと鼻で笑い、

「私はマシュー・ゲッツェンだ。後悔などない」

 と剛三郎を見据えた。

「自分の行先は自分で決めるもんだ。孤児院だって悪いところじゃない。しかし、クガイと行くとなれば、きっとお前が想像する以上に過酷な世界が待ってるはずだ」

 それでも行くのか。覚悟を問われた剛三郎は自分の心に耳を傾けた。

 その間、マシューの話を肯定も否定もせず聞いていた九垓は、

(なんだかんだ、面倒見いいよなあ、この人)

 とマシューへの見方を改めると同時に、

(俺がガキの頃にいてくれりゃあなあ)

 などと自分が剛三郎くらいだった頃のことを思い出していた。そこに視線を感じて我に返れば、剛三郎と目が合った。

 あの頃の自分に声をかけられるとしたら、なんと言うだろうか。

 ――自分の行先は自分で決めるもんだ。

 マシューの言葉は、九垓自身の生き方そのものだった。剛三郎の「後悔しているのか?」との問いにマシューは言葉に詰まったが、九垓はそこに微塵の後悔も抱いてはいない。

 当然だった。後悔とは選択の果てにある。戦災孤児として行き場を失った彼に、選択の余地などありはしなかったのだ。ゆえに、そこに後悔はない。

 されど、目の前の少年には選択肢がある。九垓は少年にかける言葉を探した末、

「ま、人間どっからでもやり直せる。来たきゃ来ればいい。けどな――」

 と真剣な顔を作り、

「死んだら終わりだ。俺と行くってことは、それを承知のうえで地獄を行くことになる。まっとうに生きたいんならおすすめしないぜ」

 珍しく真面目なことを言った。

 それが効いたか、剛三郎は一層深刻そうにうなだれる。そのさまに後押しを求めているように感じたマシューは、

「ゴウザブロウ」

 と少年を呼んだ。剛三郎とふたたび視線を結んだマシューは、その目を決して逸らすことなく、

「大事なのは、自分がどうありたいかだ」

 と語って聞かせた。

 死んだら終わり。それは剛三郎もよくわかっている。けれど、あの助け出された瞬間のまばゆい光景は、少年の心に焼きついてしまっていた。

 記憶を少し過去に向けるだけで思い出される、トラックの荷台に充満する人間たちの臭い。すし詰めにされ、目と口を塞がれた少年にとって、臭いと音はより鋭く彼の感覚を刺激した。それが、いまだ肌にまとわりついている気がする。

 だから、乾いた風と刺すような陽光を浴びた時の解放感は、なにものにも勝る喜びを彼に教えた。イネッサがくれた水のうまさもそうだ。どれも、まるで新世界に来たかのような高揚感を覚えさせた。

 そのなかで、少年は九垓の背中を目にした。少年は、徒手空拳にて賊を制圧するその雄姿を見て、目指すべき未来像を定めたのである。

「オレ……アニキみたいになりたい」

 小さい声であったが、揺るがぬ意志が込められた少年の決意に、九垓は意外そうに少しだけ目を見開いた。自分は血にまみれた傭兵である。よもや自分のようになりたいという人間がいようとは、正直、意外だった。

 ただ、剛三郎は自分の稼業の血生臭さをまだ知らない。

(実際に見れば、考えが変わるかもな)

 とも思いつつ、

「わかったよ。んじゃ、これから毎日みっちり叩き込んでやる」

 渋々といった調子で承知の旨を伝えた。実際、剛三郎が放つ熱意に負けた格好だ。

 これに表情を弾けさせた剛三郎は力強く拳を握りながら、

「ほんとか!」

 と再度確認する。が、九垓が被せるようにして「その代わり!」と言ったものだから、急に押し黙ってしまった。

 考えてみれば、なんの条件もなく弟子になれるわけはない。剛三郎はアニキの次の言葉を不安げに待った。すると、

「お前、自分の飯代は自分で稼げよ?」

 アニキの口から出たのは、なんの変哲もないことだった。

(なんだ、そんなことか)

 身構えて損したと思った剛三郎は安堵して、

「お、おう! 当然!」

 と応じるが、それを見た九垓はにやりと笑う。どれだけ大見得を切ろうとも、たかが子供である。

「言ったな? そんじゃ、今日の晩飯からだなあ」

 剛三郎にいますぐ稼ぐすべはない。

 アニキから挑発的なまなざしを受けるや、剛三郎は途端に嫌な顔になり、

「というわけで、あんちゃん」

 などと言って、マシューへ首をねじ向けた。それにマシューは「なんだ」と目を合わせない。さっきまでの思慮深さはどこへやら。九垓とふたり、なにもない窓の外を眺めていたりする。

(こいつら!)

 示し合わせたようなふたりの行動に、剛三郎はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。しかし文句は言いたいが、せっかく弟子にしてもらったばかりだ。言い方ひとつで早速破門は勘弁である。ここは素直になろう。

「あんちゃん、頼む! オレを雇ってくれ!」

 このとおりだ、と頭を下げる剛三郎を、マシューは仕方なさそうに横目で見下ろす。幼さから来る愚直さは、かつての自分にもあったものだ。否、勢いの度合いが落ちたというべきか。

(このあたりにしといてやるか)

 少々からかい過ぎたと反省しつつ剛三郎に向き直るマシューは、塞ぎ込んでいたイネッサがこちらを見ていることにはっとした。

 イネッサは咎める目つきでマシューを睨む。

「子供にそんなことさせるなんて……」

 侮蔑を含んだ物言いにマシューは返す言葉を探したが、その間に素早く反応したのは九垓のほうだった。

「なんだ、元気になったのか?」

 いつもの軽い調子で訊いてくる男に、イネッサは不快そうな顔を隠さない。さきほどの問答から、この男の態度は鼻についてばかりである。

「信じられない」

 こきおろすイネッサの言をマシューは黙って聞く一方、九垓は険悪な雰囲気を高めるかのように、大げさにため息を吐いて見せた。

「シスターさんよ」

「イネッサです」

 気分を逆なでされたイネッサは顔を伏せたまま、やや高圧的に返す。だが、九垓は懲りることなく、

「イネッサ。悪いが、これが俺らのやり方だ。それにな、この道を行くって決めたのはこいつだぜ?」

 と、剛三郎を顎で示した。それは、傍らで一部始終を聞いていたイネッサも知っている。しかし彼女は納得がいかなかった。

「大人げない」

 なおも批判するイネッサに、九垓は、いよいよ堪えていた苛立ちが抑えられなくなってくる。

「そうやって生きてるやつもいんだよ」

 九垓はわざとあざけるような言い方を選んだ。修道女が世間知らずという偏見と彼女への当てつけのつもりである。その意図を充分に感じ取ったうえで、イネッサは九垓にむっと険しい顔を向けた。

「わかっています。でも、子供には――子供たちには、親が、必要でしょ? 親がいないなら、その代わりになる大人がいてあげないと」

「そんなの、お前が言う資格ないだろ」

 ぴしゃりと言い放った九垓に、イネッサは絶句した。

「ひどい……」

「ハ。ひどいのはどっちだ」

 そうあざ笑う九垓を、イネッサは再び睨んだ。

 自分はそこの少年にまっとうな道を歩んでもらいたいだけなのに、なぜ笑われなければいけないのか。孤児院に行くほうが、どう考えてもその子の幸せにつながるではないか。

 それに、軍人であるマシューに比べ、無軌道で野蛮な香りのするこの男について行くなど、とても看過できることではない。

「ひどいですとも。私の孤児院に引き取ったほうがいいくらい」

 イネッサは不機嫌に吐き捨てると、顔を戻す。その顔が、

「自分ばかり可愛いシスターのところにか?」

 との言葉に、激しく歪んだ。

 三度(みたび)、イネッサは九垓を睨む。今度はさきほどとは違う。暗い青色の瞳には、明確な敵意がある。

 見かねたマシューが仲裁に入るが、

「俺にはそう見えるけどね。いまのいままで、一度だって孤児院のこと心配したかよ。てめえのしでかしたことばっかじゃねえのか?」

 九垓の暴言はもはや止まらない。彼がイネッサに苛立ちを覚えていたのは、垣間見える自己中心的な部分にであった。

「兄貴だって思い出してみてくれよ。はじめからそうだったろ。こいつは、最初っから自分のことしか見てねえよ」

 ――私を、ここから連れ出してもらえませんか。

 教会での夜のこと、イネッサがマシューに乞うたことだ。会話を聞いた九垓は、彼女が人のために力を尽くすふりをして、その実、澄まし顔で自分のことしか考えていない人間であると直感した。

 そして直感のとおり、彼女は自分が招いた事態であるのを棚に上げ、さも被害者であるかのように塞ぎ込んだ。確かに見方によっては被害者だろう。だが九垓は、イネッサの「あなたは悪くない」とでも言ってほしそうな態度に、ますます腹を立てた。だから、ここまで移動する車中でつい、

 ――願ったり叶ったりじゃねえか。

 と言ってしまったのであった。

 そして、自分だけ逃げようとするくらいなら、さっさと逃げればよかったのだと考える。けれどもそれは、イネッサの事情を無視した独善的な物言いにほかならない。彼は、イネッサをそれほど知らないのだから。

「そこまでだ、クガイ」

 マシューは声色に真剣さをにじませた。九垓は仕方なく口をつぐむが、悪びれた様子はない。

(こんな男)

 イネッサの頭に不穏な考えがよぎる。それと同時に、窒息しかけ、もがき苦しむ赤いテンガロンハットの男が思い出された。

 あれは、父に言われるがままやったことだ。母から譲り受けたこの秘術で、誰かを殺めようなどと考えたこともなかった。これは恵みの力なのだと、彼女は母にずっと言い聞かされてきた。

 ――力は、人のために使うものなのよ。

 在りし日の母の微笑みが瞼に浮かぶ。

(……お母さん)

 イネッサは膝を抱きながら、九垓に見えないほうの二の腕に爪を立てる。

 ――アリサにお(ゆる)しを授けてくださる!

 そう言う父を信じたわけではない。あれは母を売った男だ。そして七年前のあの日、母アリサを自分のもとから連れ去ったグラディアが、いまさら母に赦しを授けるなど、到底想像もできはしなかった。

 しかし、それで母の汚名が雪がれるのならば。

 その願いのために、彼女ははじめて手を汚すことを選んだ。結局、うまくはいかなかったが。

 もはや外界からもたらされる一切を絶って、ひとり、暗闇に落ちていたい。そんな幻想を抱くあまり、彼女はまたも塞ぎ込む。

 そうしていてもなにも変わらないと、九垓は知っている。彼がイネッサに向けるまなざしには、哀れみ以外に、どこかやりきれない思いが含まれていた。

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