第一話「黄金の騎士と黄昏の少女」⑦
京都大北山の一帯に造られた飛行場は、陣笠をかぶった足軽のようなグスタフが立ち並び、軍の施設らしい整然さで神楽夜たちを出迎えた。その光景は、今朝、東京へ発つ前に見たものからなにも変わっていない。しいていえば、陽が傾きはじめていることくらいである。
一行は輸送機を降りてすぐ、待機していた黒塗りのリムジンに乗り換える。向かうは市街地北側に位置する京都御苑だ。
そこに、目的地たる巨大な城がある。
かつて天皇の住居であったその場所に、なぜいまになって純日本式の城が建っているのか。それを紐解くには、時間を一年前に戻さねばならない。
そう、あの黄金の繭が現れた一年前に、である。
繭によって一夜にして東京が消し飛び、日本は脳と心臓を同時に失った。
政治的空白を生むことは、時に国家の存続をも揺るがしかねないが、当時の日本はその危険性が特に強かった。日本を除き、地球上で唯一の国家たる<地球連合>による併呑の波が、すぐそこにまで迫っていたのである。
混沌のただなかへ突き落された当時、それを危ぶんだ者らにより、日本各地でさまざまな勢力が勃興するのは必然といえた。その勢いのつき方は群雄割拠といわれた戦国時代を彷彿とさせ、人々にさらなる混迷の到来を予感させた。
が、事態は一転して収束する。連合だけでなく国内にも、この機を待っていた者がいたのである。
得意の陰陽術を用い、古より皇族を支えてきた家筋――祀木家だ。
祀木家が決起したとき、すでに情勢は決したも同然だった。かの家に同じく、歴史の影で国を支持してきた御剣および翳祇の両家が、各地の軍主要施設ならびに主要人物を押さえたのである。
その電撃的な采配はすべて、祀木家当主、風歌によるものだった。
だが力による統制は、無論、反発を呼びかねない。それも織り込み済みだった祀木家は、大儀を得るため、かろうじて繭の被害を逃れた皇族の末裔を擁立する。帝の直系にあらせられる神皇泉家の嫡男、白神である。
白神この時、十二歳。幼帝を担ぎ出し、乱れる人心を導かんとする体制は、君主制への回帰といって相違ない。
そして、その象徴として建設されたのがここ、京都白城である。
台地の上に建つ城は、名のとおり穢れのない白壁をして、さらに石垣のような防壁を基礎とし、京都の街並みを一望する。そのさまを上から見れば、天守を囲って五つの小天守が建ち並び、それぞれが渡櫓で結ばれ、五角形を描いていることがわかる。
小天守の根元に設けられた門を抜ければ、まずは二の丸だ。左右に目を向ければ、乗用車が悠々とすれ違えるほどの幅で砂利敷きの道が続く。その道は渡櫓が描く五角形に沿って走り、春には桜並木がなんとも優美な情景を作り出すことで有名である。観光客に人気の場所だ。
そこから視線を正面に戻せば、向こう側の本丸とこちらの二の丸とを区切って堀が横切り、それをまたいで橋が渡されている。緩いアーチを描いた木製の橋だ。小天守から堀の内側にある本丸へと至る経路は、すべてこの造りとなっている。
それ以外に、国政の主要施設である天守へ行く方法は、南側の大門を抜けるしかない。といっても、大門が閉まるのは基本的に夜間のみで、小天守を経由する者はそもそも限られる。多くは、南東と南西に位置する小天守の間、その大門から出入りするのが常だ。それも、もっぱら観光客ばかりであるが。
神楽夜がここへ至る途中で目にした時も、門前は年配の団体観光客でごった返し、それに混じるように、休憩がてら散歩を楽しむ職員や中折れ帽にコートを身に着けた男が歩いていた。
あまり機能的とはいえない城の配置は、当然、戦を想定した造りではない。陰陽道に明るい祀木家の思想が反映されたものだ。当主の風歌いわく「結界をなすため」らしいが、法術に疎い麟寺や鍾馗には正直、眉唾な話である。
そんな彼らを乗せた車は、城がある京都御苑内に滑り込むと、渡櫓に沿って、北側に位置する小天守の裏へまわった。
前述のとおり、城は台地の上に位置するため、坂をのぼるにつれて、雑多な生活音は一挙に遠のいていく。果たしてそのさきにある北の小天守は、祀木家・御剣家・翳祇家、いわゆる御三家の縁者に向けた居住区だ。ゆえに、訪れる人間はここで生活する者に限られる。
が、いまはそこに先客がいた。
「もう来ているか」
小天守の麓に車が止まると同時に、麟寺は外を睨みつけそう言った。その視線を追えば、漆黒のリムジンがもう一台停められている。
鍾馗は降車しながら、
「気の早い連中だ。こちらに準備などさせんつもりらしい」
と、煩わしげにそれを睨みつけた。どうやら、月の連中とやらはすでになかのようである。車中はもぬけの殻だ。
鍾馗と麟寺がそちらに気を取られている一方、神楽夜は弟に続いて車を降りた。
すると直後、
「姉ちゃん、あれ」
と朔夜がなにかを指し示した。
そのほうへ、つい、と視線を流した彼女は、途端に息を呑んだ。
開け放たれた小天守の門の向こう、二の丸をなす道の上に、純白の西洋甲冑に似たグスタフがまるで姫にかしづくように跪き、主の帰還を待っていた。
白銀の騎士だ。その佇まいは実に高貴で、兵器と評するのがおこがましく思えるほど優美、かつ、清廉の極みである。
神楽夜はたちまち目を奪われた。
塗装ひとつ取ってもそうだ。機体色の基調となる白と、それを引き締めるように配置された黒い縁取りは大変潔い。それだけでなく、角飾りなどの要所に金や銀の差し色が施され、見る者に「下賤な者が触れてはならない」と強く認識させる。
機体の形状は全体的に柔らかい線を描くが、肩や胸、膝といった部分が鋭利で、間延びした印象はない。
なにより目を引くのはやはり、背中で折り畳まれた白い翼であろう。天使のようだ。それも相まって、鎧が抱かせる鈍重さはかけらもない。神楽夜が飛行場で見た日本軍のグスタフとは、品格からして明らかに異なる代物だった。
白銀の騎士はその傍らに鈍色の長剣を、剣先を上にして抱えている。
否、それは両刃の剣のようであるが、よく見れば長大な砲身を持つ銃だ。地面に置かれた銃床から視線を上へとなぞり上げれば、引金らしき部位が確かにある。
神楽夜は吸い込まれるようにその機体へ歩み寄った。
「すげえ」
なんとも語彙力のない感想である。加えて、
(ゼルクが和とすれば、こっちは洋だな)
などと考えていると、知らぬうちにうしろから大男らが追いついてきた。
姉弟の背後に立ち、機体を見上げた麟寺は眉間のしわを深くする。
「月のグスタフ……。仮にも日本の中枢だぞ。あんなモン、誰が招き入れたのだ」
機体を顎で示し「あんなモン」呼ばわりする大男に、その隣に立つ鍾馗は、
「あの女狐に決まっておろう」
と同じく顔をしかめて応じる。女狐とは、いまやこの国を影で操る祀木家の当主、祀木風歌のことだ。
麟寺の言うとおり、ここは自国の枢軸である。そんな場所に他国が兵器を持ち込めること自体、おかしな話だ。ゆえに目の前の事実は、その国との力関係を暗に示しているともいえる。
麟寺が憤る理由はもちろんそこにあるが、いまはそれ以外にもうひとつ。こんな人目につきにくい場所を選び、正面から堂々と入ろうとしない月の連中の、その狡猾さがなにより気に食わなかった。
しかし、事情を知らぬ神楽夜たち姉弟には、なんのことか皆目見当がつかない。それをいいことに、
「サクヤ、俺が許可する。やっていいぞ」
と大男は出し抜けに下知を放つ。朔夜のその力を使えば、地球圏最強と称される月のグスタフさえ、容易く手中に収められるに違いない。半分は冗談だが、もう半分は本気だ。
それを、この真面目な少年は真に受けた。
「え!」
首をねじ向けた朔夜は、不敵に笑う大男のどこまで本気か知れぬその顔に、正直に困惑の色を浮かべてみせる。
そのなんとも実のないやり取りに、鍾馗は横目で見ることすらやめ、いよいよ呆れ果てた様子で嘆息した。
「馬鹿を言うでない。月との交友を反故にしてみろ。すぐに連合の領土であろうが」
実に堅物らしい返しであるが、現に日本は、この地球圏で唯一月と国交があるために、連合による統一を免れてきた。
しかしそんなことはこの大男も承知している。
「お前んところは古いつき合いかもしれんが、俺は違う。どうにも胡散臭い。今日もあの男なんだろう?」
そう言って隣の渋面を見やれば、
「ああ、その予定だが。あまりベラベラと喋らんほうが良い。どこで聞いておるかわからぬ」
鐘馗は意味ありげに足元へ視線を落とす。そこにはなにもない。あるとすれば、影だけである。
その行動に朔夜が不思議そうな目を向けていると、鍾馗は顔を静かに戻した。
「カグヤ、サクヤ。最近は特にだが、人の出入りが多い。この麟寺のように騒ぐでないぞ?」
「やかましいわ。ほれ、行くぞ」
もとはといえば自分からはじめた話であるのに、麟寺は鬱陶しそうに受け流すや、さっさと本丸に向かいだす。それに続き、鍾馗も止めていた足を動かしはじめた。
黒い軍服に包まれた巨大な背中と、その隣を歩く痩身の着流し姿が遠のいていく。それを気遣わしげに見送る神楽夜の脳裏には、
――責任を取らねばならない。
という麟寺の言葉がこだまするが、なすすべはない。たとえ同道して申し開きに加わっても、たかが小娘ひとり、相手にされるはずがないのは知れたことだ。だから、ここに来る車中で老師から言われたように、城のなかでおとなしくしているほかない。
神楽夜は無言で白銀の騎士を見上げ直した。
(月の、グスタフか)
はじめこそ美麗に思えたそれも、いまは権力を誇示するようで疎ましい。そう感じるうち、よからぬ考えが首をもたげてくる。
「ねえ、サク」
不意に出た姉の言葉に、弟はその求めるところをいち早く察知し、たちまち非難がましく眉根を寄せた。
「えー、やだよ」
麟寺が冗談で言ったことを本当にやれと言うのだろう。そう見透かし機先を制したが、
「大丈夫大丈夫。タッチして、駄目ならすぐ逃げる。オッケー?」
姉はまったくもって聞く耳すらない。
そこでもう少し突っぱねればいいものを、この弟も弱いもので、不服そうに鼻息を漏らしながら機体へと歩み寄っていく。姉が恐ろしいというわけではないが、どうしてか逆らえないのはやはり、姉弟の性なのか。
(なにが、オッケー? だよ。まったく……)
心中で悪態をつき、朔夜は白騎士へ手を伸ばした。
その時、
「サク!」
唐突に呼ばれ、朔夜はどきりとして姉に振り返った。早くこっちへ来いと手で合図を送っている。なにやら焦燥に駆られた形相だ。
意のままに姉のもとへ戻るや否や、朔夜は小天守の門まで引きずられるようにして連れ去られ、その枠の影に押し込められた。
「なになになに!」
「静かに!」
神楽夜は弟を黙らせるなり、門の影からそっと顔を覗かせる。それに倣って朔夜も頭を突き出した。
(今度はなんなの……)
腐りながらも見ていると、左手の桜並木に沿ってこちらに向かい、駆けてくるふたつの人影があった。少女と青年の組み合わせだ。さきを行く少女から数メートルほど遅れて青年が続いている。
このままだと、ふたりは門の前を横切る。
「まずい」
神楽夜は慌てて顔を引っ込めると、弟を門枠の影へさらに追いやり、自身もその横に並んで壁に背をつけ、息を潜めた。
やがて、駆けてきたふたりが門の前に差し掛かる。彼女らはそこを素通りし、白いグスタフの足元に達すると、途端に足を止めた。
青年は金のくせ毛をして、全体的に線が細い。沫雪のような肌は光に吸い込まれそうだ。タキシードに似た白い軍服がその印象を強めている。
少女は、上は藤色の小振袖に下は紫紺の馬乗袴という出で立ちで、黒髪を肩口で切りそろえている。彼女は張られた弦のように背筋をピンとして深呼吸すると、微笑みをしまって青年に振り返った。
それを受けて青年は、
「シラン様、戻りましょう」
と柔らかい声で呼びかける。誠実さがにじむ声色だ。それがかえって面白くないのか、
「兄上だけでよい。リンジとショウキもおるじゃろうが」
と、少女は唇を尖らせる。
対する青年は困り顔だ。
「陛下の肉親は、いまやシラン様だけなんですよ?」
と諭すように言葉を運ぶが、それもまた少女の不興を買う。
「形ばかり気にしおって。フウカと話せばいいじゃろう。私も兄上も、なんの力も持っておらぬ」
そう言うと、少女は桜木の影や渡櫓の白壁を目で指しながら、
「私ひとりにこれだけの護衛をつけるより、東京の復興にでもやったほうがずっと意義がある。そう思わぬか、オルテンシア?」
呆れた様子で問いを投げた。
そのとおり、いまや彼女らを囲む空間の至るところに、鍾馗の配下、翳祇家の者が潜んでいる。いわば忍びとしての役目を負う彼らの擬態技術は凄まじく、常人はおろか、相当の修練を積んだ者でさえ看破するのは難しい。が、「シラン」と呼ばれたこの娘は、年端もいかぬであろうに、それを気配だけで見破ってみせた。
その心眼の鋭さは目を見張るものだが、片や、青年がかもす余裕ある態度も刮目に値する。
潜む翳祇の者たちが、警告の意図で放つ視線を一身に浴びてなお、
「僕といるからでしょう」
と、はにかむほどだ。
青年の相手は時の主上、神皇泉白神が実妹、紫蘭である。御年十二歳。
ゆえに、少しでもおかしな動きをすれば、首が飛ぶ。そのような状況にありながら、青年は涼風を愉しむくらいの態度を崩さないのだから、顔に似合わず肝が据わったものである。
神楽夜がそんな感想を抱いて観察していると、青年の微笑みを見た紫蘭は素早く顔をそむけるではないか。よくよく見れば、その頬にかかった髪越しに、潤んだ瞳が彼を盗み見ている。
(へえ)
どうやら紫蘭もまた承知の上で、この逢瀬の時を迎えているらしい。
と、ふたりにまた動きがあった。
「シラン様」
名を呼びながら歩み寄る青年と、それをはたと見上げた紫蘭の視線が結ばれる。その間にも、
「シラン様は必要です」
と真剣な声色で言ってくるものだから、彼女は次の言葉を黙して待った。
一方、両者の距離が縮まるにつれ、周囲は、鳥のさえずりすら失せるほど冷たく殺気立つ。翳祇だ。そこにいるいまにも花が咲きそうなふたりと、こうして門に隠れ潜む姉弟だけが、まったく別の空気をまとっている。
それでも青年は紫蘭の前に跪き、穏やかな顔つきで目線を合わせた。
「その時その時で一番大切なものはなにか、それをシラン様は感じられる。なんの力もないとおっしゃいますが、シラン様はだからこそ、困っている方と一緒に悩まれるのでしょう?」
そこで金のくせ毛の青年は、これまた白く麗しい両手を、向かい合う紫蘭の両手へと伸ばした。そして、やんわり取ったその手を、自分の胸元へ集めるように引き寄せると、
「兄上想いのお優しい方だと、僕は思っていますよ」
と、まるで口説く調子で微笑んだ。
(げ……)
そう顔を引きつらせたのは神楽夜である。あのような甘だるい空気、この娘は正直、背筋が寒くなる。憧れもしない。
だが、諸手を握られた紫蘭はまんざらでもないようで、
「ふん。そんなことだろうと思ったわ。みんな兄上のことばかり。なんじゃなんじゃ。立場を考えてないのはどっちなんじゃ」
などと呆れたふうに装って、またも顔を明後日に向ける。
するとその目が、ある一点を見つめて固まった。――門のほうだ。
「さあ、戻りましょう」
青年は握っていた紫蘭の手を緩やかに戻し、立ち上がったところでそれに気づいた。彼女の視線を追い、開け放たれたままの門戸へと首をねじ向ける。
途端、紫蘭が吼えた。
「誰じゃ!」
彼女の詰問に観念したか、威武朔夜はやや間を置いて門のなかから、なんともばつが悪そうに現れた。
しかし、盗み見していた不届き者がひとりでないことを紫蘭は見抜いている。不機嫌そうに腕を組んだ彼女は、縮こまる朔夜に対し、「もうひとりを出せ」と言いたげに門を顎で指し示した。
見目麗しい顔立ちだからこそ際立つ、その射殺すような眼光に怯んだ朔夜は、
「ね、姉ちゃん?」
と尻目に、門のなかの主犯格を呼ぶ。
そう言われる前に出てくればまだ恰好がついたものを。そろりそろりと姿を見せた威武神楽夜は、まるで縄をかけられた盗人のように情けない。へらへら笑っているのも余計に怪しい。
そんなふたりを、青年は当然ながら微量の警戒をもって迎えた。紫蘭への視線を遮るように立つと、右手を左腰へ伸ばし、そこにある白い筒状の物体を握り締める。ペンライトよりずっと太いなにかだ。
神楽夜はそれを、
(懐中電灯?)
と取った。言わずもがな、まったく違う。形状は確かに似ているが、それは荷電粒子の熱線による光剣を発生させる装置だ。いわば剣の柄にあたる。
この時代、荷電粒子の兵器転用、つまり、ビーム兵器の実用化は、月の<白銀機関>以外でなされていない。この星を牛耳る<地球連合>も、宇宙に居を構える<レジデンス>も、いまだ開発段階にある。そんな世界情勢を知りもしないこの娘には、それが懐中電灯に見えても無理はない。
だが、神楽夜とて多少なりとも武術の心得がある。彼女は、わずかに腰を落とした相手の構えに抜刀の意を汲み、その得物の正体を推し量った。
にへら顔をしまった神楽夜と、居合の構えを取る青年との間に張り詰めた空気が流れはじめる。
その時だった。
「悪趣味」
ずかずかと前に出た紫蘭は神楽夜を見るなり、腕を組んだままそう言った。
それに神楽夜は、さきほどまでのふざけた顔を呼び戻すなり、
「そういうシランはいい趣味してる。公然で堂々と逢引なんて」
と、すかさずいじりにかかった。こういったことになると意地汚くなるのはこの娘の性分である。
ちなみに、ここは衆目に晒されているがゆえ、厳密には逢引ではない。しかし、その言葉がかもすいかがわしい雰囲気だけで、少女を動転させるに充分だった。
「あ、逢引!? 違う!」
反響するほどの己の声に紫蘭は慌てて口をつぐむが、神楽夜が注目したのはそのうしろだ。
青年はその様子を見るなり構えを解いて微笑んでいる。
(さては、わかってやってるな)
この優男、侮れん。神楽夜は青年をそう見た。
時に、油断というものは緊張の糸がほぐれた瞬間にこそ訪れる。
「姉ちゃん、アイビキってなにさ」
朔夜は隣の姉に無垢なる問いを投げかけた。
純粋さは時として罪なものだ。図らずも乙女の怒りを買った朔夜は、紫蘭の破竹の勢いたる口撃にさらされ、己の過ちをしかとその身に刻み込むこととなった。
これでまたひとつ、からかうネタができたというもの。同い年に見えるふたりの戯れを眺めた神楽夜は、
(なるほど。こういうのが好みなワケか)
と胸中で改めて納得しつつ、その視線を青年に流す。
すると気づいたか、青年はこちらににこりと微笑んだ。
「先ほどは失礼しました。白銀機関のオルテンシア・ワトホートと申します」
(失礼しました……?)
剣を抜きかけたことか、はたまた、乙女を惑わす心根の悪さか。神楽夜は解せぬままにオルテンシアへ名乗り返した。
向かい合ったオルテンシアの顔は、整ったなかでも鼻先や頬に丸みがあり、美しい二重の目元も相まって、ややもすれば女性に見紛う端麗さである。中性的な顔立ちが浮かべる微笑みは、不覚にも神楽夜に「可愛らしい」と感想を抱かせるほどだ。
(こいつが先生たちの言ってた月の一味?)
もっと高慢そうな輩を想像していただけに、はっきりいえば拍子抜けである。麟寺らがあれほど忌避する理由が思いつかない。堅苦しそうな軍の高官どもより、ずっと与しやすそうではないか。
ただ、こういう男にこそ気をつけるべきだ、と大して磨いてもいない女の勘が言うものだから、
(まあ、見てくれだけじゃねえ)
と、神楽夜は青年の顔をしげしげと観察した。自覚はないが、世間一般ではそれを「見惚れる」という。
その熱視線をさらりと躱すように、オルテンシアは跪く白い機体に顔を振り向けた。
「やはり持ってくるべきではありませんでした。護衛のつもりだったのですが……」
「え?」
唐突に釈明するオルテンシアに、神楽夜はなんのことかわからず訊き返した。
「とても熱心にご覧になられていたようでしたので」
青年は顔を神楽夜へ戻し、柔和な笑みを浮かべてみせる。要は、機体のそばでなにをしていたのか、と指摘しているのだ。そうとわかると、別にとぼけたつもりはないが、どうにも具合が悪い。
とりあえず神楽夜は適当に、
「ああ」
とだけ返して視線を逸らすが、内心、
(やっぱ気づかれてたか)
と苦々しく舌を打った。
これ以上仔細は言うまい。見入っていたのは事実なのだ。朔夜の体質云々は置いておいて、追及される前に機体の外観を褒めて話を終わらせよう。
(よし)
そうと決めると、神楽夜はオルテンシアに目を戻した。
そして口を開きかけた矢先、
「ここで護衛なぞ必要なかろう」
と横から紫蘭が割って入ってきた。
やはり体力で劣る朔夜では、紫蘭の相手は難しいようだ。弟はといえば、白い機体の足元に隠れて様子を窺っている。
しかし、紫蘭はひとしきり満足したのか、構うことなく続けた。
「ましてや、あの男ではな」
「大佐も必要ないとおっしゃっていたのですが、ヴァルド卿に押し切られまして」
事情を知るらしいふたりのやり取りに、
(あの男?)
と神楽夜は心中で首をかしげる。その言で思い出されるのは、去り際に麟寺が言っていたことだ。
――今日もまたあの男なんだろう?
こうまで煙たがられるとなれば、相当に意地汚い蛇蝎のごとき男なのか。卿という言葉は位の高い者に向けて使う敬称だが、もしやそのヴァルドなる人物が、みなが敬遠する「あの男」ではないのか。
「ねえ、その――」
神楽夜がそれを訊こうとした時、図らずも、答えは向こうから訪れた。
「大佐!」
オルテンシアはやにわに姿勢を正し、本丸へ渡る橋のほうへ向き直る。それに釣られて顔を振り向ければ、黒いてるてる坊主のような人物が、すぐうしろに麟寺によく似た大男を引きつれ歩いて来ていた。
神楽夜はその黒ずくめから目が離せなくなった。出で立ちがあまりに異質なのだ。
黒い軍帽を目深に被り、鼻先から顔の下半分を黒いフェイスマスクで覆い、頬から耳に向かって剣先のような黒い耳当てをつけた――何者か。
鋼らしき左右の肩当ては、半円をさらに半分にするように丸めた形状をしており、正面から見ると、武士などが身に着けていた肩衣(裃でいう上着)に近い印象を受ける。その鈍い銀色と軍帽に設けられた黄色い飾緒、そして肌の白さだけが、黒一色のなかで彩りをなしている。
体格は、肩からくるぶしまでをすっぽり覆う黒いマントのせいで見て取れない。年の頃はおろか性別もだ。顔の大半を隠されていて知ることは叶いそうもない。
だが、その目。距離が縮まるにつれ、神楽夜はこの者が男だと看破した。青年のような爽やかさのなかに宿る、真贋を断つ鋭さを感じたのだ。
オルテンシアの前に至り、静かに佇むその者には異物感がつきまとう。白い衣服が多いなかでただひとりの黒だからか。
そこで迂闊にも、つぶさに観察していた神楽夜とその男の視線とが、かち合った。
髪まで黒いその男は海のような碧い瞳を見開き、どうやら驚いているようだった。そしてそのまま、
「その顔――」
と不思議なことを言った。強い意志を感じさせるような、深みのある落ち着いた男の声だった。
(なんだ?)
惚れたか。まさかまさかそんなことはあるまい。それとも、初対面でいきなり面貌に文句をつける気なのか、この男は。わずかに湧いた負けん気に、神楽夜は訝しむ様子を隠すことなく、男と目を合わせ続けた。
矢先、
「おーい、カグヤ!」
と、橋の彼方より麟寺の大声が轟いた。
麟寺はその巨躯を躍動させ、小走りで駆け寄るなり黒ずくめへ向き直り、
「本日はご足労いただき、ありがとうございました」
と深々頭を下げる。そして面を上げると、今度は黒ずくめの半歩うしろに立つ巨漢に対し、
「グラッグスも、わざわざすまんな」
そう親しげに礼を述べた。
「なんのなんの! こちらこそ急に来てすまなかったな。今日は戻らねばならんが、次は」
その「次は」のあとで、くいくい、と猪口をあおる仕草を見せるあたり、随分と日本に被れていると見える。
(似てる。すごい似てる)
神楽夜は唖然とした。
オルテンシアに似た服装の頑健なその者は、隆々とした筋肉が服越しにもわかるほど、がっしりした体つきをした大男だ。毛深い眉と堀の深い顔立ち、白髪の混じったこげ茶の髪をうしろに撫でつけた風貌は、まさにライオンと評するのが適当だろう。体つきから声の持つ圧まで麟寺にそっくりである。
神楽夜はここに至り、オルテンシアが言っていた「ヴァルド」という人物がこの男ではないかと推察した。グラッグス・ヴァルド。いかにも力業で押し切りそうな印象である。そのあたりも麟寺に近しい。
なれば、隣の黒ずくめこそが「あの男」か。
「参りましょう、エルソード卿」
ライオン、もといグラッグス・ヴァルドは黒ずくめにさきを促した。
エルソードと呼ばれた黒ずくめは、その野太い声に頷きをひとつ返し、颯爽と歩み出す。
(エルソード……)
その背中を目で追っていると、
「それでは、僕もここで。またお会いしましょう、カグヤさん」
オルテンシアは神楽夜にそう告げ、次いで紫蘭の前に跪いた。
「シラン様、お元気で。ご無理はされませんよう」
「大儀であった。行け」
「では」
先刻見せられていた甘い場面が嘘だったかのように、紫蘭はさばさばと青年を送り出す。
控えていた巨大な白騎士は、オルテンシアをその胸に収めると、碧い双眼を輝かせた。
機体は緩やかな動作で立ち上がり、背面の羽を広げはじめる。それと並行してエンジンの回転率が上昇する音が強まり、宝石のように煌めく青い光が機体全体を包みだす。
やがて閃光があたりを覆い尽くし、神楽夜が手で視界を遮った次の瞬間、そこにいたはずの機体は忽然と姿を消していた。
(消えた……)
これが月の技術力か。神楽夜は夢でも見ていた気分で空を見上げる。
その背に、
「すまんが、サクヤと一緒に来てくれんか。話がある」
と、麟寺は極めて深刻そうな声を投げかけた。
「話?」
振り返れば、
「そうだ。お前さんらに頼みたいことがある。行くぞ」
麟寺はそう急かすなり、踵を返してさっさと行ってしまう。
(頼みたいこと?)
不吉な予感を覚えながら、朔夜はどこかと見回せば、弟は白いグスタフがあった場所に呆然と立ち、空を不思議そうに眺めていた。