第八話「冷々たる別離」⑪
それに足を止めた一行が暗い路地を睨み見れば、路端に停めたアストンマーティン・ヴァンキッシュに寄りかかる人影が、手をひらひらと挙げている。その気抜けしたような印象は至っていつもどおりに見えるが、鍾馗だけは異変に気づいた。
「……どうした」
怪訝に訊けば、
「なに、派手にやってくれたもんですから、危うく死にかけましたよ」
人影は冗談のようにそう言うと車体から身を離し、建物の間に差す月光のもとに進み出る。そうして露わになったのは、ぼろぼろになったレモン色のリネンシャツに、肌に細かい傷が増えたシーカーであった。
鍾馗がルーベンやレジーナとの面会に臨む間、シーカーはマンションより少し離れた屋外駐車場で待機させられていた。車を見れば、神楽夜が単に「高そう」とだけ評した車体はへこみや傷が目立ち、流麗さはもはや見る影もない有様である。
そんなおんぼろ車でよく逃げ延びたものだ。そう神楽夜が心底感心する横で、
「カグヤ、端末をよこせ」
と、首をねじ向けた鍾馗が手を差し出した。
言われるまま左の手首から端末を外し、手渡す。
鍾馗はそれをスーツの懐にしまいながら、
「ここからは別行動だ。カグヤ、お前はこの者らとロンドンを出ろ」
そう告げた。
「老師はどうするの?」
「ワシは行くところができた。お前は引き続きトウヤを探せ。やつのことだ、アービターを連れていれば、向こうから勝手に現れるやもしれん」
それだけを言い残して鍾馗は早々に立ち去ろうとしたが、なにかを思い出した様子で立ち止まった。
そして背中で言う。
「やつに会ったら言っておけ。スミレが泣いているぞ、とな」
「スミレ……? あ!」
神楽夜がその意味を尋ねる隙もなく、鍾馗は瞬く間に闇へと消えた。
スミレ。鍾馗の口ぶりからするに、それは人の名か。あるいは、なにかの揶揄か。
神楽夜に思い出せることは、日本を発つ前日、麟寺に連れられて京都白城の奥へ足を踏み入れた時に見た、あのすみれの花だけである。
「それで、俺らはこれからどこに向かえばいいんだい?」
シーカーが、鍾馗の消えたさきを見つめる神楽夜の背に訊いた。神楽夜は振り返りながら困り顔で嘆息し、レジーナを見る。
「養父さんはなにか言ってなかった?」
いまとなってはレジーナだけが頼みの綱だ。問われた彼女は記憶をたどるふうに視線を右へ流す。
そこから幾何かの間が開いた。その間すらシーカーには耐えがたかったらしく、
「わかったわかった。とりあえずここを離れる。どこに行くかは海の上ででも考えればいい。どうだ?」
と神楽夜に承諾を迫った。
確かに時間はなさそうだ。神楽夜は首肯すると、レジーナとともに廃車寸前に見える件の高級車に乗り込み、シーカーの荒々しい運転でヴェントゥスの停留所へ舞い戻った。
着いて早々、車を乱雑に停めたシーカーは愛しの赤い艦へと駆けて行く。その尋常ではない焦りように、
「ちょ、シーカー、車は!」
神楽夜は慌てて呼び止めるが、
「いいんだ! あとはヴォルファング社が勝手にやる!」
シーカーは振り向くことなく行ってしまう。
その背中から、
「なんだって……」
と艦に目を移せば、艦の出入口に向かう階段状のタラップは地面に降りている。すでに誰かがいる証だ。
(それでか)
ここを出る前、シーカーは確かに施錠した。だのに開いているものだから、彼は焦ったのだ。
シーカーはタラップを駆け上がり、施錠されていない自動扉を抜けると、艦橋までの折り返し階段を一息にのぼりきった。
それに遅れて、神楽夜はヴェントゥスへ乗り込む。そのうしろに続いたレジーナは、タラップの最後の一段で歩みを止め、遠巻きに聞こえる故郷の喧騒に耳を澄ました。
レジーナ・シスルは今日で死んだ。瓦礫のなかからその死体が出ることはない。父も、そして最上階にいたであろう母も、今日死んだのだ。
冷淡な顔つきでいる彼女の頬を濡らすものはない。いまもし流す涙があるとすれば、それは歓喜の涙だ。親の呪縛から逃れた者が流す、喜びの涙。ここからさきは正真正銘、自分だけの人生だ。
(名前……)
ふと、彼女はそう思った。
いまここにいる自分にふさわしい名前。新しい人生の手始めに、まずはそれから考えるのも悪くない。
故郷の景色から顔を戻した彼女は、一切の躊躇いも見せず、船内にその一歩を踏み出した。
それを待って通路に立ち尽くしていた神楽夜は、不意に、
「カグヤちゃん!」
と背後から声をかけられ、振り返った。アルマであった。顔には随分と焦りが浮かんでいる。
「あ、サク見なかった?」
「それが、サクヤくんが倒れて」
その言に一瞬、血の気が引いた。
(まさか、また)
神楽夜はすぐに階段を駆け上がり、「サク!」と叫びながら自室に飛び込む。
すると、
「……姉ちゃん」
力ない返事だが意識はあった。ベッドに横になった朔夜にはジックがつき添ってくれていたようだ。ジックは床にあぐらをかいたまま深刻な面持ちで顔を上げ、
「おとといと同じだ」
と神楽夜に言った。
ヨリーンアム渓谷でマシュー駆るグスタフを撃破したあと、朔夜は喉がちぎれんばかりの絶叫をあげて気を失った。今回もその時と同じように倒れたのだとジックは続けた。
「なんで……」
解せないのは神楽夜だけではない。当の朔夜ですら、どうしてそうなるのか説明ができないでいる。それでも朔夜は心配をかけまいと「大丈夫だよ」と気丈に振る舞い、痛々しい笑顔を作って見せた。
「あの、そちらの方は」
アルマが部屋の戸口を差して訊いたのを受け、神楽夜は首を振り向けて、
「ああ。レジ――」
と説明をしようとしたが、
「名前はまだない。好きに呼んでくれていい」
レジーナ――もとい、名無しの女はそう先んじた。これに神楽夜は呆気にとられ、二の句を継げなくなった。
「えっと、レジ、さん?」
とぼけたふうに見えるが、アルマは至って真面目だ。慌てて神楽夜が、
「いや! レジーナだよ。レジーナ・シスル」
と訂正しなければ、そのまま飲み込んでしまうところである。
しかし、それがまずかった。
「シスル?」
ジックは疑念に眉根を寄せた。流浪の民である彼でさえ覚えがあるほど、<シスル・エンタープライズ>の社名は広く知れ渡っているのだ。その名を聞けば、当然、関わりがあるのかという疑念も沸くことであろう。
正直なところ、こうなるのが面倒だから名乗りたくなかったわけで、レジーナは頭痛を堪えるようなしかめっ面で軽く首を振り、
「どこに行っても……」
と、ため息をこぼした。
なんとも嫌味のある態度にジックは睨みを深くする。というのも、ジックはこういうすかした輩が嫌いだ。
「サービスにご不満で?」
そう喧嘩腰で言う夫をアルマはすぐにたしなめた。
されど、対するレジーナに気にした様子はなく、
「そう呼んでもいいが、そいつは今日死んだやつの名前だ。サービスしたけりゃ、勝手にすればいい」
と冷たくあしらうだけである。
張り詰めた空気に神楽夜とアルマは「どうしたものか」と顔を見合わせる。そこへ、
「出してよけりゃ、ブリッジに来てもらえませんかねえ」
シーカーの催促が艦内放送で響き渡った。その声に朔夜はのそのそと身を起こしはじめるものだから、見かねた姉は止めに入った。
「寝てなって」
「大丈夫。上、行こう」
明らかに具合が悪そうな顔でよろよろと戸口に向かう朔夜は、とても大丈夫には思えない。神楽夜は弟の右側に寄り添って肩を貸した。
「姉ちゃん……?」
不思議そうに見つめてくる弟に、姉は神妙な面持ちを向けることなく口を開く。
「サク。ごめん、この間の……あんただけでいいって言った、あれ」
とうとつと紡がれる姉の言葉に、朔夜は黙って耳を傾けた。
「自分のことばっかで、ずっと肩代わりしてもらってたって、気づかなくて……」
言葉に詰まった神楽夜の右手が、担いだ朔夜の右腕を握った。そこは、ヨリーンアム渓谷でマシューの一撃を受けた場所だ。
ゼルクと神楽夜の仲介をする朔夜は、損傷による痛みが姉に伝わらないようせき止めていた。それを、姉にひた隠しにしたまま。
その想いを、朔夜はようやく口にする。
「肩代わりなんかじゃ、ないよ」
静かに話しはじめた弟に、神楽夜はわずかに顔を向けた。
「僕は、姉ちゃんに生きて帰ってきてほしかった。父さんみたいにどっか行ってほしくなかった。あの繭と戦った時だってさ、死ぬかもしれないのは姉ちゃんのほうなのに、僕は遠くで寝てるだけなんだもん。だから、少しでも集中できるように、いらないものは全部止めたんだ。僕は、姉ちゃんみたいに、戦えないから……」
よほど、弟のほうがよほど、自分にできることをわきまえていた。
(それなのに、私は)
不甲斐ない自分をいくら責めても、はじまらない。いますべきはそんなことではない。
弟は続ける。
「でも、いいかなって。僕は、僕にしかできないことがあるから。それがわかったから、いいかなって、思うようになったんだ。……姉ちゃんも、そうだよね?」
そう。いまさら確かめるまでもない。神楽夜は力強く頷いて見せた。
「あそこは、私たちの国だから」
その目に宿るいつもの姉らしい自信に、顔を向かい合わせた朔夜は安堵して笑顔になる。それを見て神楽夜は、
「だから、これからは私が背負う」
凛とした顔つきで言い放った。
しかし、決意に溢れる口ぶりでも、姉のその顔にはわずかばかりの恐れがにじむ。それはそうだ。できればあのような重苦、二度と味わいたくはない。
だが、誰かにその苦しみを押しつけるくらいなら。
そう思うのは弟も同じである。
「でも」
と口を開いた朔夜は「一緒に背負う」と言いたかったが、姉の目を見てそれを引っ込めた。
姉は、こうと決めたら譲らない。それはもう、嫌というほどわかっている。
そうわかるくらいに、自分たちは一緒にいる。
「行こう、サク」
「――うん」
その言葉を交わして並んで出ていく姉弟を、出入口の脇に立つレジーナは腕を組み、どこか不満げに横目で見送った。




