第一話「黄金の騎士と黄昏の少女」⑤
暗闇のなかに聞き覚えのある少年の声がこだまする。
「――ちゃ――ね、ちゃ――姉ちゃん!」
神楽夜はその声に意識をつかみ上げられ、水の底から這い上がるように上体を跳ね起こした。
慌ただしくあたりを見渡すが、黄金の騎士の姿はない。むしろ、あれだけあったはずの瓦礫すら欠片もなく、代わりに土がむき出しとなっている。それだけであれば実に殺風景だったろうが、いま彼女の視界に満ちるのは、地から天へと昇りゆく金の粒子だ。
「こ、こは……」
意識を落とす前とはまるで違う光景に、思わず声を漏らせば、
「東京だよ」
と、彼女の意識のうちに弟の声が返った。
「東京? だって、こんな」
神楽夜は解せぬ事態に眉根を寄せた。さきほどまでの荒廃しきった東京はどこへいったのか。
しかし、混濁する記憶をたどって思い出されるのは、黄金の騎士に掌底を食らったところまでである。
「サク、私……」
自身の機体を見下ろせば、胴の鎧は腹のあたりが焦げ、ところどころ装甲が吹き飛んでいる。黒い骨格がむき出しになった、見るに堪えないありさまだ。
(よく生きてたな……)
下手を打てば、肉体を収めるコクピットを焼かれていた可能性がある。想像するだけで怖気が走る話だ。機体の頑丈さに感謝するほかない。
(あいつは)
見えぬ敵の姿を探し、神楽夜は鉛をつけたように重い体を起こそうとした。
その時、背後から陽光とは違う強い光が差し込んだ。
妙に感じた彼女は、尻をついたまま上体をねじって、恐る恐るそちらを見やる。と同時に、燦爛とするかの物体が目に留まり、息を呑んだ。
「――繭!」
その距離、わずか五百メートル。花開いた黄金の繭は己が覚醒を祝うかのように、祝福に満ちた光を放つ。
視線を釘づけにされた神楽夜は座したままあとずさった。だが、すぐにはっと目を見開き、身を硬くする。
間違いない。
いま首を戻せば、やつがいる。
脳裏を雷のごとく掠めたその予感に、神楽夜は肩越しに見やった顔をゆっくりと正面へ戻した。
そして絶句する。
(逃げ、なきゃ)
果たしてそこには、見下ろすように浮遊するあの騎士がいた。
騎士が高度を下げるにつれ、呼吸はどんどんと荒いものになる。神楽夜はすでに抜けた腰を引きずるようにして、みじめにも横へ這って逃げた。
しかし。
(嘘――)
這い進んださきには、土を踏みしめる黄金の騎士の足があった。先刻まで空にいたはずの敵に、もう退路を断たれた。
(なんで)
神楽夜は吃驚とともに敵を睨み上げた。
騎士が右腕を持ち上げる。こちらに向かって突き出されるその手から、次の瞬間には熱線が放たれて――。
「受け身取ってッ!」
烈火のごとき朔夜の叫びに視界が暗転したと思った矢先、神楽夜は暗黒のコクピット内で体の前面を強打した。神楽夜が弟を介してゼルクを操作する間、その身は重力を制御されたコクピット内で宙に浮いた格好となる。それが解かれたためだ。
床に叩きつけられた衝撃に短い悲鳴をあげたのも束の間、神楽夜は洗濯機に入れられたかのような凄まじい遠心力に襲われた。
さらにすぐ、叩きつけられた面とは真逆の方向に慣性力を受け、丸みのあるコクピットの壁面に全身を押しつける羽目になる。もはや、天と地がどちらかもわからない。
けれども、彼女は懸命に順応を試みた。
(サクがやってんの!?)
左右へ大きく揺さぶるようなこの動きは、紛れもなく機体が回避運動をしている証だ。朔夜が己の意識だけで動かしているに違いない。だが、このままではミンチになる。
それ以前に弟は、武術の心得はおろか、運動そのものが得意ではないのだ。彼女はたまらず叫んだ。
「つないで!」
「でも!」
「いいから早くッ!」
もはや逃げるという発想はない。
渋る弟を押し切ると、黒一色だったコクピットの壁面に、無数の青白い光の線が、まるであみだくじをたどるように流れ落ちた。
次いで神楽夜の体が宙に浮きはじめる。そして、その視界が再びゼルクのものに切り替わると、土しかない周囲の景色は凄まじい速度で後方へと流れた。機体は全身の推進器を総動員して、地面すれすれを滑るように逃げていたのである。
神楽夜はすかさず背後を肩越しに見やった。すると直後、<アームド・ゼルク>が率いる土煙を引き裂いて、黄金の騎士が手の届く距離まで迫り来た。
「ええい!」
忌々しげに吐き捨てた神楽夜は、不意に機体を反転させて着地するや、かかる慣性に逆らって、騎士めがけ右の肘打ちを繰り出した。
諸手を伸ばしてつかみかかろうとしていた敵は、その腹にまんまと潜り込まれ一撃を食らう――はずが、ゼルクの右肘に突き出る剣のような装甲は、騎士の手前でなにかに阻まれた。
見えない壁にめり込みはするものの、剣先はいま一歩届かない。
「なら!」
神楽夜は即座に右肘を引き戻し、左足を軸に右半身をうしろへ下げ、間髪入れず重心移動を伴う両の掌底を打ち出した。その瞬間、機体によって増幅された気の発露ともいうべき衝撃波が、周囲の地面を爆裂させた。
矢継ぎ早な二の打ちはさすがに堪えかねたか、黄金の騎士は後方へと大きく離される。
「これは通るはずだッ!」
叫びながら、神楽夜は仁王立ちに体勢を変え、顔の前でバツ字を描くように両腕を交差させた。
その腕の合間から、鎧武者のごとき<アームド・ゼルク>の双眸が輝く。
「打ち貫くは、我が拳!」
養父から譲り受けた口上を叫び上げた途端、右の籠手は閃光を放ちはじめた。それは、繭が放った金色のさざ波を打ち破った時と同じ現象である。
その光が強まるにつれ、籠手は構成する白い装甲を展開し、形を変えだした。
剣を挟むようにして左右に割れていた部位は、その先端を機械的な駆動音とともに前へせり出し、手の甲を蹄のごとく覆う。
その装甲と溝を挟んでうしろに続いていた部位は、溝側を基点に四十五度ほど跳ね上がる。それに伴って装甲の下から、左右三基ずつ、階段状に連なった平べったい推進器が露出し、いまかいまかと蒸気を噴き出す。
最後に籠手の中央、切っ先を肘側に向けて収められた剣状の部位は、肘のほうへ勢いよく滑り出した。
そうして露わになるひとつの結晶体。
籠手のなかで燦爛と輝くその六面体は、内部を液体で満たされているかのように、全体的に黒や黄、深い緑や小豆の色がなめらかにグラデーションする。
籠手が放つ光の出どころは、この宝玉であった。青く輝くそのさまは、まさに超常の至宝といえよう。
白かった籠手が、赤光を放ちはじめる。流麗だったそれは、いまや逆立つ鱗のようで猛々(たけだけ)しい。
神楽夜は、眼前で両腕を交差した状態から左腕を引き抜き、同時に、残った右腕を、拳が左耳に寄るように動かした。
その右腕を、
「焔覇爆装!!」
との激烈なる叫びとともに振り下ろす。手の甲でへその下を払うようなその動きに、弧を描いて火炎が尾を引いた。彼女の闘気が、赤々とした灼熱の炎と化したのである。
へその下を通った拳はそのまま振り上げられる。すると今度は、機体の全身をたちどころに炎が覆った。
一方、弾き飛ばされた黄金の騎士は体勢を整え、再度接近を試みようとしている。
神楽夜はそのさまを、静かに開けた眼で見た。
見つめるはただ一点のみ。一撃で屠らねばあとはない。まだ死ねぬというその意思が、迫る敵の隙を捉えた。
(いま!)
振り上げていた右腕をすかさずあばらに寄せる。そして大地を蹴り跳べば、間もなく籠手の推進器が猛火を吹いた。
大地のわずか上を音速で突貫する<アームド・ゼルク>は、そのうしろに空間の歪みを引き連れる。籠手が発する超重力の力場によって、光さえも呑み込んでいるのだ。
色合いが、朝焼けを思わせる焔のごとき渦を引き、翔ける鎧武者の様相は、勇ましき龍のようである。
瞬きひとつのうちに間合いは詰まる。腹に狙いは定めている。神楽夜は、生死の分け目に立つ者だけが上げる、全身全霊の雄叫びとともに、入魂の拳を捻り出す。
永遠にも思えるその一瞬、彼女には、対する騎士の動きが遅々として見えた。
だからこそ、神楽夜は目を丸くする。
(な――)
まるで抱き留めるようなその素振りがなにを意味するのか、理解はできない。それ以前に、打ち出した拳は止めようがない。
神楽夜は、両腕を広げはじめた騎士の腹を射抜き、その脇を滑り抜けた。
全身にまとっていた炎があとを追ってくる。
ゼルクは立ち尽くす敵を背に、顔の前で腕を交差させ、空手よろしく十字を切る。たちまち爆散する騎士の逆光を浴び、機体の両目が赤く輝いた。
その時、
「え」
神楽夜は爆発に紛れて声がしたように思え、はたと振り返った。
だがそこにあるものは、仰向けに倒れ、こちらに顔を向ける騎士の残骸のみである。
それと視線がかち合った気がし、彼女はぎょっとして息を呑んだ。
すると背後から、
「カグヤ、無事か!」
と麟寺の大声が轟き、彼女はわらにもすがるような面持ちで首を戻した。
視界には、駆け寄って来る見慣れない黒いグスタフと、その手に乗って叫ぶ大男の姿がある。それを認めたが最後、彼女のなかで張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「たすか――」
そう言いかけて、神楽夜は魂を抜かれたかのように、意識を闇の底へと落とした。同時に、機体の主導権が朔夜に戻る。となると当然、コクピット内で宙に浮く神楽夜の身は、再び床へと叩きつけられることになる。
「姉ちゃん!」
機体は朔夜の意識で立ち続けるものの、神楽夜はその腹のなかで伏したままだ。弟は返らぬ答えに焦燥した様子で片膝をつき、機体の腹を見下ろして、なかにいる姉を呼び続けた。
その傍らにようやく、黒い忍び装束のようなグスタフがたどり着く。機体の手から<アームド・ゼルク>の左肩へ跳び移った御剣麟寺は、
「もうすぐ救援が来る。お前はなんともないか?」
と眉をハの字に寄せ、鎧武者の外装に視線を走らせる。
幸いにして、認められる大きな損傷は腹部だけだ。コクピットは無事である。その事実が麟寺の顔つきを幾分緩めた。
が、彼らの様子を黒い機体の目で見つめる翳祇鍾馗は、
(トウヤでも敵わなかったものを、こうも易々とは……)
と、心中でなかば訝しんだ。
偶然か、あるいは、たとえ血のつながりはなくとも獅子の子は獅子、ということか。
そう思いながら、鍾馗が彼方へ視線を投げれば、開花した繭は全体から金の粒子を放出し、青い空に溶けはじめている。
光輝なるその情景は、まるで、この地が浄化されているかのようだった。