第七話「この幕間よ、永遠に」②
赤き艦<ヴェントゥス>がロンドンに入ったのは、日付が変わる少し前である。
が、神楽夜たち姉弟とブレイズ夫妻が目を覚ましたのはそれから約八時間後、現地時間で午前七時をまわった朝だった。カスピ海からプラハまでの道中で仮眠をとってはいたが、実に二十四時間近く活動し続けた体はやはり疲労困憊だったのだ。四人が泥のように眠りに落ちたのは当然といえるだろう。
ちなみにシーカーはどうしていたかといえば、教会からヴェントゥスへ戻った神楽夜たちをなに食わぬ顔で出迎えた。不審な黒い集団の襲撃を受けた際は、船内に身を潜めていたらしい。
ただ、その額には大きな切り傷が目立った。それを見た神楽夜が開口一番、
「どうしたの、それ」
と訊けば、
「アンタらが近くでドンパチやるから……」
と、シーカーは戦闘の衝撃で転倒しぶつけたと明かした。
それ以外にも、目がチカチカと見えづらいというのだから、長時間にわたる航行の疲れが出ているのは明白だ。
だが、これ以上クラドノに留まることはできない。幸運なことに、シーカーいわく「航路は確保できた」という。
ならば行くしかあるまいと、ロンドンまでは約二時間の旅路となるところを、シーカーは神楽夜たちの心配もよそに、その身に鞭打って操縦桿を握り続けた。いまヴェントゥスが目的地であるロンドンの朝日を浴び、赤い船体を輝かせていられるのは、その甲斐あってのことなのだ。
だのに、
(やっと着いた……)
神楽夜は時差ぼけのあまり半分白目を剥いた、いまにも吐きそうな面でロンドンの大地を踏みしめた。
そこはヴォルファング社が所有する郊外の船着き場である。五万平米ある敷地内には、輸送用と思しき巨大な飛行艇のほか、カーゴフローターやコンテナの類も整然と置かれている。
その並びから外れたなにもない場所に、ひと際異彩を放つ黒いスポーツカーが一台いた。
神楽夜たちの姿を認めたからか、その車の扉が開く。
と、
「老師!?」
神楽夜は異国の風を愉しむ間もなく、思いもよらない再会に目を丸くした。降車してきたのは、日本で別れたきりとなっていた翳祇鍾馗、その人であった。
黒いスーツに身を包んだ鍾馗は神楽夜の声を受け、
「無事でなによりだ」
と、いつもの厳めしい顔つきで迎えたが、すぐに視線を姉弟の背後にやった。それに気づいた神楽夜は、
「あの、このひとたちは」
と、続いてタラップを降りてきたブレイズ夫妻を紹介しようとする。
しかし、鍾馗に機先を制された。
「知っておる。サラマンデル・エクエス。火のアービターであろう」
「サラ、え?」
知らぬ単語が並べられ、神楽夜は困惑に眉をひそめる。それをよそに鍾馗は夫妻に歩み寄り、握手を求めた。
「ショウキ・カゲルギだ。まずは同道に謝辞を述べたい。ジック・ブレイズ、アルマ・ブレイズ」
けれど、応じる夫妻の表情は硬い。感謝の意を示されても、ふたりの場合はなり行き任せでついてきただけだ。素直に応じるわけにもいかない。それに、鍾馗から感じられる隙のなさが夫妻を委縮させていた。
とりわけ、アルマが鍾馗に向ける目は普段と異なり、端的にいって敵視と表現できるほど鋭い冷たさがあった。ここまでの道中、恨み言のひとつも言わなかった彼女らしからぬ眼差しに、神楽夜は疑問を覚えた。
そも、神楽夜は夫妻のこと、特にジックをアービターだと紹介する気はなかった。
青い繭という脅威に対し養父以外のアービターがいることは、日本にとって大きい意味を持つに違いない。だがそれは、ふたりの幸せを打ち砕きかねないことだ。
――人には心がある。お前も苦しんだと言うならば、もっと他人を考えられるはずだ。
そうアレスの言葉が心に去来するからこそ、神楽夜はその選択を取ったのである。
けれども、鍾馗はすでに知っていた。
(もしかして、連絡してたのって)
ヴェントゥスにはUCSが備えられている。シーカーがそれで外部と連絡を取っていたのは周知の事実だが、まさかその相手が鍾馗だったのか。
神楽夜が疑念の目を向ける一方、鍾馗はジックたち夫妻になにやら話をしている。
すると、
「俺たちが日本に?」
と、ジックは怪訝そうに眉をひそめた。
「厚遇を約束する。そのための用意が我々にはある。ぜひ、詳しい話をさせてもらいたい」
言うや鍾馗は胸の内ポケットから黒地に金の装飾が施されたカードを取り出し、夫妻に差し出した。
「いらぬ世話かもしれないが、我々が戻るまでの滞在先を用意した。ヴォルファング社ゆかりのホテルだが、セキュリティーは保証する。連合の目を気にすることはない」
神楽夜からすれば信用に足る言葉であるが、いまさっき会ったばかりの夫妻には難しい判断だ。ジックは表情を変えずに、差し出されたカードと鍾馗の顔とを交互に見た。
ジックには察しがついている。これは自分を監視し留めておくための措置であると。
この男の言う厚遇とやらに関心がないわけではない。条件次第ではあるが、日本に招いてくれるならば、連合の目も届きにくいだろう。そのまま住み着いてしまうのも手だ。
伸るか反るか。ジックが答えを言うが早いか、
「お気遣いありがとうございます」
とアルマは笑顔で言うと、
「でも私たち、これから街に行ってバイクの部品を探さないと」
柔らかに辞退の意向を示した。
鍾馗は「残念だ」とそれ以上求めることはしない。随分あっさりとした引き際は、どこへ行こうとも監視していることを暗に意味するようで、不吉だ。
されど、アルマはそれも承知のうえであるかのように、
「だから、修理が終わるまではこの辺りにいます」
と平然とした様子で続けた。その口ぶりはまるで「逃げないから構ってくれるな」という含みすら感じさせる。
よもや妻の口からそのように強い返答が出ようとは。ジックは静かに驚いた。
思えば、艦を降りようと提案した時もそうだった。ちょうどカスピ海沿岸の街を出てプラハへ向かうことが決まった頃である。
アルマの体調が一転して安定したのを受け、ジックは彼女に、
「ここで降りよう。これ以上、西に戻るわけにはいかない」
そう告げたのだ。しかし、対する彼女は頑として首を縦には振らなかった。
それどころか、
「私……ここに残る」
と固い決意をにじませる始末である。
なぜ、という疑問も当然あったが、ふたりでさまざまな景色を見ようと約束したジックに、それを拒むなどできるはずもない。艦という移動手段があるのも都合がいいといえば都合がいい。だから彼はこうして、神楽夜たちと旅路をともにすることを選んだ。
それが功を奏したのか、以来、アルマの体調は崩れる兆しを見せていない。むしろ好調だ。夫としては喜ぶべきである。
が、それでもジックの表情が晴れないのは、心の内に沸いたきり捨てられないある疑念を、折に触れて思い出すからだ。
そんな彼の様子に、面する鍾馗はいち早く気づいた。だが、夫妻と会ったばかりのこの男に、それ以上詮索する余地はない。
「敷地のなかは好きに使ってもらって構わないが、艦は施錠していくぞ?」
そう言いながら振り返り、
「水先案内人はあやつなのでな」
と、すでに黒塗りの車を夢中で観察するシーカーを目で示した。どうやらロンドン市街の案内は彼が務めるらしい。それでヴェントゥスに鍵をかけるというわけだ。
シーカーが嬉々とした目で舐めまわすように見つめるかの車は、艶めくアストンマーティン・ヴァンキッシュだ。その最新型が誇るなめらかな曲線は、見る角度によって漆黒の奥に秘める深緑へと表情を変える。職人が手間暇惜しまず作り上げた芸術ともいえる車体美は、シーカーを虜にするに充分だ。無論、スポーツカーであるから速度も申し分ない。
ところが、さして車に興味がない神楽夜からすれば、
(高そうな車)
で済んでしまうのだから、なんとも詮ない話である。こんな高級車ではなくもっと広い空間を持つ大衆車のほうがよかった、とまで考えるその娘の横で、
「大丈夫です」
と、アルマは鍾馗の背中に答えた。
それに鍾馗は首を戻す。
「日が暮れる前までには戻るようにする。では行くぞ、カグヤ、サクヤ」
目で促された神楽夜は、車へと歩き出した鍾馗のうしろに続いた。
しかし、もしやと思い振り向けば、やはり弟がついてきていない。
「サク?」
立ち尽くす朔夜はなにやら神妙な面持ちである。
「どうしたの?」
と重ねて問えば、少年は、
「僕、アルマたちと行くよ」
なんとそう言うではないか。
「なんで……」
神楽夜は戸惑いの表情を浮かべた。すると弟は、
「バイク直すほうが役に立てるでしょ? そっちに行っても、いざって時に足手まといになっちゃうよ」
と、どこか困ったように続ける。
「でも――」
神楽夜はなおも引き留めようと口を開いたが、やにわに横をすり抜けた鍾馗に気を取られた。
鍾馗は少し自信なげな顔でいる朔夜の前に立つなり、上着のポケットから四角い腕時計をひとつ取り出し、差し出す。しわの多いその手に握られていたのは、連合領内で普及している通信端末である。
「持ってゆけ」
「これって」
手渡されたそれから、朔夜は小さな驚きを伴って鍾馗へ視線を移した。日本に流通していないはずのその端末をなぜ持っているのかという疑問もあるが、てっきり説得されるとばかり思っていたからだ。
「なにかあったら連絡をよこせ。それで支払いもできるが、無駄遣いはせんようにな」
そう続ける鍾馗のさまは、まるで孫に小遣いをやる祖父のようである。最後の口振りなどは特にそうだ。普段から厳格な態度ばかり見ている神楽夜は、だからこそ老師の意図するところがわかりかね、眉をひそめた。




