第七話「この幕間よ、永遠に」①
靴音を殺し、イネッサの居室に侵入した何者かは、彼女が眠るベッドの脇に立つと長大な右腕を静かに持ち上げた。
次いで、静寂に包まれる深夜の教会に木材の炸裂音が響き渡る。
だが、真ん中から破砕されたベッドには弾けたはずの肉片も、飛散した血潮もない。変化があるとすれば、ベッドも壁も大量の水を滴らせていることだ。
侵入者は右腕を振り下ろした体勢のまま、赤い眼光だけをぎろりと右へ滑り向けた。
その視線のさきには、石造りの床にびしょ濡れになりながらへたり込むイネッサがいる。間一髪、水柱でその身をベッドの外へ押し出したのだ。
現実のものとなった危機に、イネッサは恐怖のあまり唇をわなわなと震わせるばかりで、すっかり腰を抜かした。これは夢ではない。もはや立つこともままならない。
(グラ、ディア……)
彼女が怯えた目を向けるさきで、グラディアは崩壊したベッドからゆっくりと右腕を引き抜いた。その肘からさきが、窓から差し込む月光に鈍い輝きを反射する。
「ぁ――」
イネッサは息を呑んだ。
それは腕というよりも長大な刃、牛刀のごとき刃であった。
獲物を射抜く獰猛な目を動かさぬまま、処刑人はゆらりとイネッサに向き直る。
狼狽したイネッサに「逃げねば」という思考はすでになく、硬直して、次に振るわれるであろう二の太刀を待つのみである。
すると、彼女の目の前でグラディアは、左腕の肘からさきまでも刃へ変形させた。その際、腕は、まるで水あめを練るような調子で衣服もろともぐにゃりと形を変え、引き伸ばされるようにして刃となった。
一歩、神父の靴音が部屋に響く。
この呼吸が最期となるか。イネッサは胸の高鳴りを覚え、全身を駆け巡る血という血がたぎるのを感じた。そして、脳裏をよぎる走馬灯に母の笑顔を垣間見た瞬間、彼女は間欠泉のごとき流水によって部屋の外へと転がり出た。
同時に、室内で凄まじい爆裂音が轟く。グラディアが刃と化したその両腕で、彼女がいた場所を抉り取ったのだ。
廊下で這いつくばるイネッサは焦燥に駆られた顔を振り向ける。
初撃を躱したのと同様、発生させた鉄砲水で体を弾き出したはいいが、両足は生まれたての小鹿のごとく震えていうことを聞かない。
(逃げ、なきゃ)
白煙が立ち込める闇のなかで、ひと際濃い異形の人影が、緩慢な動きで上体を戻す。
彼に釘づけになったイネッサは無我夢中で念じた。
(立て……立って、立って、立って立って立って!)
人影が一歩こちらに踏み出すのを合図に、
「いやッ!」
と叫びをあげ、彼女は三度己を打ち出した。
木製の床に肩や膝を打ちつけながら転がる。それでも弾みを活かしてよたよたと走り出した。そうなる頃には生き死になどとうに忘れ、彼女はただがむしゃらに逃げるだけの生き物になり下がった。
それでも構わなかった。否、そんなことはどうでもよかった。一刻も早くここから、奴から逃げなければ。さもなければ――。
と、もうすぐ廊下の角だ。外へ出るにはあの角を左に折れ、さらに廊下を数十メートル直進しなければならない。そうすれば談話室の前を通って、教会の裏手に出られる。
闇と窓から差し込む月光が織り成す回廊をひた走る。そんな彼女に窓を突き破るという選択肢も、助けを呼ぶという考えも浮かびようがない。しかし異常は確実に屋内にいる人間に届いたようで、駆け抜けたうしろで扉が開き、
「なんの騒ぎだ」
と憔悴した父イヴァンが顔を覗かせた。
イネッサは父の声に駆けながら首だけを振り向け、尻目に彼を見る。
と、あの怪物はすでに父親の前にいた。
「ああ、グラディア……様?」
事態を飲み込めない彼は、その言葉を最期に上顎から頭を斬り飛ばされ、あえなく絶命した。
「お父さんッ!?」
支える筋を失い、下顎をだらんと首に垂れた父だったモノは、斬られた勢いにゆらゆらと体を揺らし、やがて血飛沫をまき散らしながら倒れ伏した。
惨状を目にしたイネッサは上階へ続く階段の前を過ぎたところで立ち止まり、恐れと怒りと悲しみがない交ぜになった顔で踵を返す。
すぐうしろには外へと通ずる扉がある。もしくは、右手の扉を開ければ礼拝堂へ続く回廊へ出られる。だが、外へ出たところで助かる見込みはない。
両腕を刃と変えた異形の存在は、暗黒のなかでその赤い眼光を輝かせる。蠢くそのさまは、まさしく悪魔と表現していいだろう。
イネッサは、頭が小刻みに震えるのを抑えられなくなった。手も足もがたがたと震えだし、あとずさる。
「い、や」
父の死体をまたぎ、異形が近づく。
恐怖で瞬きすら忘れた彼女は、グラディアが暗闇から暴風のごとく駆け寄るのを見て、絶叫をあげた。
束の間、横から吹いた突風にイネッサは体を持って行かれた。床に倒れ込んだ彼女が恐る恐る瞼を開ければ、そこには、グラディアの双剣を一対のトンファーで受け止める、東洋風の身なりをした男の背中があった。
「あ……あ……」
なにが起きたのかわからず言葉にならない声を発するイネッサを、
「こっちだ!」
と階段を駆け下りて来たマシューは強引に引っ張り上げ、剛三郎とともに礼拝堂へ通じる回廊へと走った。
その去り際、
「クガイ、無茶はするな!」
マシューは九垓の背中に言い放つ。それを受け、
「へ……こいつぁ、とんでもねぇ化けモンだな」
と不敵に笑う九垓を前に、
「一夜に三体もとは、僥倖だ」
グラディアは力任せに両腕を打ち払って仕切り直した。
神父は続けて凄む。
「あわよくば生け捕りとも思ったが、いいだろう。貴様から処分してくれる。風のアービター!」
一方、中庭の回廊を駆けていたマシューたちは、背後からした爆音に足を止め、一斉に首をねじ向けた。
そして一様に瞠目する。
「壁が……!」
そう驚きの声を漏らしたマシューが見つめるさきでは、いましがた走り出た修道院の壁が、ものの見事に突き破られていた。
すっかり呑まれた三人が立ち尽くしていると、月光降り注ぐ荒れた庭園にひとつの人影が躍り出た。九垓だ。それに続き、異形の神父は立ち込める砂塵を斬り裂いて迫ると、彼と斬り結んだ。
「な、なんだ……あいつは」
マシューは神父の両腕を見て愕然とした。さきほどはイネッサを救出することでいっぱいで、そこまで気が回らなかったのだ。
草花を散らす嵐のごとく、九垓と神父は庭園のなかで干戈を交える。
九垓が繰り出す技の鋭さはいわずもがな、対する神父の身のこなしもまた常軌を逸したものだ。もはや目で追うことすら難しいというのに、マシューは超常現象を目の当たりにした気分でその場から動けなくなった。
「あんちゃん!」
呼びかけに我に返って振り向けば、剛三郎はすでに礼拝堂の扉を開けている。
「さきに行ってエンジンをかけろ!」
マシューの指示に剛三郎は首肯するや、礼拝堂のなかへ姿を消した。カーゴフローターは教会の門の脇に横づけしてある。
「イネッサ!」
マシューは血の気が引いた顔ですくみ上がる彼女の腕を掴み、剛三郎のあとを追って礼拝堂へ駆け込んだ。
並んだ長椅子を煩わしげに躱す間も、壁一枚を挟んだ中庭からは凄絶なる剣戟の音が響いてくる。
マシューはイネッサの手を引きながら、おぞましい神父の姿を回想した。
(人間……)
とは思えぬ姿であった。
人体改造の類が、誠に業腹ながら連合内でも試みられていることは、マシューも知っている。しかしその性質上、そういった研究機関について公にされることはまずない。存在を知る頃にはすでに閉鎖されたあと、というのが通例だ。マシューが知り得るなかで最近だと、ブレイズ研究所がそうである。
結果的にどのような成果物を世に送り出したかは知る由もないが、ああなってまで求めるものとはいったいなんなのか、マシューには見当がつかない。というより、考えたくもない。
そうしてふたりがやっとの思いで外に出ると、ちょうど剛三郎の背中が門の陰へと消えるところであった。
いち早くカーゴフローターへたどり着いた剛三郎は、車両側面の出入口の前に立つと、その脇の壁に埋め込まれた電卓のような操作盤へ手を伸ばした。そこにマシューから教えてもらった解錠コードを入力する。
すると、操作盤のボタンすべてが解錠を示す青色に点灯し、扉が横へ滑りだした。剛三郎は開ききるのを待たずにその身を捻じ込む。
以降の手順は九垓から教わってある。アニキ曰く、連合で扱っている輸送機の類は操縦系統が近しく、エンジンの始動手順が似ているという。汎用性や操作性を追求した結果だ。
ゆくゆくは操縦まで完璧にこなしたい剛三郎少年であるが、いまは「指示をきちんとこなし、やれることを増やせ」というアニキの教えに従うのみ。
その指南どおり、少年は見事任務を果たした。マシューとイネッサがカーゴフローターにたどり着いた頃には、エンジンは雷鳴さながらの音を立てて回転している。
「早くなかに」
マシューはイネッサの背を押し込んで乗せ、自らは、
「でかしたぞ、ゴウザブロウ!」
と少年を褒め称えながら操縦席に移動し、出入口が門の前に来るよう車体を前進させた。
(まだか、クガイ!)
私兵の身を案じて教会のほうを見やった、その時である。
教会に向かって右側に伸びる修道院の壁が、砲弾でも直撃したかのような音を立てて爆裂した。
レンガやら木片やらが宵闇に舞う。その粉塵からぬっと顔を出すのはあの神父だ。
(まさか……)
やられたか、とマシューが表情を曇らせた矢先、
「行かせるかよ!」
と神父の背後から九垓が跳びかかった。
不意打ちに思われたが神父はすぐさま応じて見せ、振り向きざまに右腕の刃を振るう。
しかし、刃は空を斬った。
わずかに驚きの表情を浮かべるグラディアの頭上から、
「幽天幻雷脚ッ!」
九垓は咆哮をあげながら踵を振り下ろした。
神楽夜にも披露した技である。彼女に防がれるまで何人も対応できなかったこの奇襲を、彼は攻めの起点とするほどに要の一撃としている。だからというのも妙であるが、神楽夜が防いだ時の衝撃は屈辱的ではなく、むしろ、ようやく出会えたという高揚感に類するものであった。
だが、今回は違う。
「ちっ」
防ぐわけでも躱すわけでもなく、グラディアはただその刃を振るわんとする。相性が悪かった。このまま蹴り下ろせば足が斬り裂かれる。
九垓は陽動が効かぬとわかるや、攻め手を変えた。
振り下ろす踵の勢いに任せ空中で体の上下を逆さにし、雷を両腕のトンファーに移し替え、叩きつける。そして宙に浮いたまま数合斬り結び、ついに弾かれた九垓は穴の開いた修道院を背に着地した。
その状況、いまだ退路は断たれたままだ。目の前の神父を何事もなく素通りとはいかないだろう。
(どうする)
と、そこへ、
「私の父は! 光のゲッツェンだああ!」
雄叫びとともに、神父の背後からマシューがなにかを放り投げた。闇に舞うそれを視認した九垓は、
「瞬靴ッ!」
とただちに叫ぶや上体を前傾させ、両脚に風をまとわせる。
なにかの策か。いまにも駆け出さんとするその姿勢に、グラディアは狙いを看破すべく肩越しに背後を見やり、途端、
「ぬ」
視界の一切を強烈な閃光に奪われた。九垓が持ってきたバックパックにあった閃光弾だ。
闇を切り裂くその輝きを合図に、九垓は一陣の風となる。狙い澄ました虎のごとく、電光石火の走りでもって神父の横を駆け抜ける。
目では捉えられない。だのにこの神父は、風の感触だけで的確に九垓の首を狙った。それもすれ違うわずかの間、雷光のごとく疾駆する九垓に、である。
が、この青年とて幼少から戦場を生き延びてきた身。そこで培った勘が働いた。寸でのところで九垓は、まさかの一閃をトンファーでやり過ごした。
いまこの一瞬に関しては、神を信じぬ九垓でさえ天に感謝した。ここで死ねば、<サムライ>との再会は叶わない。利がなければ動かないのが李九垓という男であるが、あれとの再戦は買ってでも望むところなのだ。もし再び見えることがあるならば、それはすこぶる心が躍るに違いない。そう確信があるゆえに。
斬首を免れた九垓は勢いを緩めず、閃光弾を投げてがら空きになったマシューの腹へ肩から突っ込んだ。
「ぐふっ!?」
マシューは交通事故とも形容し得る衝撃に悶絶の声をあげたが、構う暇はない。九垓はそのままマシューを担ぎ上げ、車両に滑り込むなり、
「掴まれ!」
と叫んで乱雑にも雇い主を席に放り出すと、カーゴフローターの推進器を全開にした。
遠のいていく轟音を追ってグラディアは静かに教会の門をくぐった。ノイズ交じりの視線を向ければ、すでに車両の尾灯は小さくなっている。
「人間風情が」
吐き捨てたグラディアは両腕を人間らしい形へ戻すと、実に不愉快そうな顔を夜天の月に向けた。
「で、これからどうするよ、兄貴?」
操縦桿を握る九垓は依然厳しい顔つきのまま、左手の助手席に座すマシューを横目に見た。
どうするもなにも、発信機の反応が生きている以上、あの赤い艦を追いかけることに変わりはない。九垓が訊いたのはそこではなく、うしろに座す修道女の扱いについてだ。
問われたマシューは顎をさすって思案する素振りを見せながら、斜めうしろの席に座る修道女を盗み見た。
発進してしばらくは窓にへばりつき、教会のほうを見ていたイネッサであったが、いまは沈みきった顔でうつむいている。
(連れていくしかあるまい……)
マシューは嘆息交じりにそう決めるや、
「連中は――カグヤ・イヴは、どこにいくとか言っていませんでしたか?」
と訊いた。
イネッサは呆然自失とした瞳に光を戻し、
「……確か、ロンドンに行くって」
と少しだけ顔をあげて答えたが、その機微は被ったフードが邪魔でマシューには読み取れない。
「ロンドン……」
マシューは言いながら、サムライ一味の狙いを推し量った。
こうもひたむきに西を目指すということは、それなりの理由があるはずである。それがロンドン。これがパリというならアルカン領の中心であるがゆえ、いろいろと想像ができるところだが、
(ロンドンか)
あの霧の町に目ぼしいものなどあるだろうか。
強いていえば、世界的軍需企業<シスル・エンタープライズ>の本社があるくらいである。
(シスル、か……)
そう渋い顔で黙り込むマシューにしびれを切らした九垓は、
「追うか、兄貴?」
と急かすように言った。それに対し間を置いたマシューは、
「いや、パリだ」
と決意を秘めた眼差しを返す。
ここはすでにアルカン領。となれば、敵は網にかかったも同然である。
あの<カウボーイ>も一緒で、かつ、それもアービターであると知れた以上、現状の戦力で追うのは無謀極まりないことだ。誰かにさきを越されるという心配も、当分はないと見ていいだろう。アービターに挑もうなどという命知らずはそうそういまい。
ならば、体勢を立て直すためにも、マシューは会わねばならないと考えた。
この地を預かり、そして地球の指導者であるあの老人、ケイン・アルカンに。
第七話「この幕間よ、永遠に」




