第六話「断決する者たち」⑤
「そうか。アルカンが承諾したか」
応接の間にて円卓を囲み、オルテンシアからヴェントゥスの航路安泰を知らされた麟寺は、頷きながらそう言った。
しかしオルテンシアはそれにすぐさま、
「ロンドンまで、ですが」
とつけ加える。その語調には口惜しさがにじむが、そこは麟寺とて同じ思い。みなまで言うなと、黙して目の前の紅茶をすすった。
紅茶は美しい琥珀色をして、アールグレイを基本に、柚子の明るい香りが広がる。茶葉はレジデンスの老舗ワトホート社のものだ。
ひとくち飲めば、たちまち心華やぐ時間になる――はずが、みながみな、しかつめらしい顔で口にするものだから、淹れた本人は、
(ぬ。湯の加減を間違えたか)
と、たまらず自分の分に口をつけた。
(なんじゃ、上出来ではないか)
紫蘭は何事もなかったようにカップを戻し、背筋を正す。
茶葉はオルテンシアから送られたものである。みすみす台無しにするはずがない。嬉しさのあまり、茶葉の入ったアルミ製の瀟洒な缶箱をわざわざ卓上に置いて見せびらかすほどなのだ。
異国の街並みが描かれたその缶箱は、紫蘭にとって唯一無二の宝ものである。彼女は缶箱の意匠を目で愉しんだのち、渋い顔で沈黙するお三方を睨み見た。その目には「うまいとかなんとか言ったらどうじゃ」と静かな圧が込められている。
そこに気づくあたりが好青年といわれる所以であろう。
「すごくおいしいです。お湯の熱さもちょうどいい。以前より上達されましたね、シラン様」
オルテンシアはにっこりと紫蘭の心を射抜いた。
「そう、じゃろ」
満足げに目を逸らし、その頬に恥じらいの色さえ浮かばせる乙女の横で、
「それでオルテンシア。カグヤたちはいまどのあたりだ」
と、麟寺は改まった様子で尋ねた。
「ドイツを西に抜けている頃です。もうロンドンかもしれません」
「ほぼ予定どおりか。間に合ってなによりだが、ツケが怖いな」
麟寺がそう言って渋面を作る理由をオルテンシアは訊くまでもないのだが、
「ヴォルファング社の、ですか?」
と、あえて訊いた。それもまた青年なりの心配りである。
「ああ。連中も骨が折れただろう」
麟寺は渋い笑いを含んだ口元へ再びティーカップを運んだ。それを見ながらオルテンシアは、
「急でしたから。それでも、この数日でロンドンまでの安全を確約させたのは、さすがだと思います。私たちだけでは、そもそも手が出せませんでした」
と手元の紅茶へ視線を下げた。
ケイン・アルカンを会食の席に招いたとまでは聞き及んでいるが、そこでどんな駆け引きが繰り広げられたかは、オルテンシアの立場で知ることは叶わない。
第一、
「天下の白銀機関も、こればかりはどうもならんか」
麟寺がそう言うように、<グリマルディ条約>のもと不可侵を約束し合う月と地球連合では、今回のような場合、他者を頼らざるを得なくなる。
「ええ……。お力になれず、申し訳ありません」
オルテンシアは麟寺の目を真っ直ぐ見つめるや、テーブルに額がつくすれすれまで頭を下げた。
日本に縁もゆかりもないこの青年がここまでするのは、職務への責任感からではない。彼は白銀機関からの使者というだけであるし、そもそも白銀機関は月の統治者であって、当然ながら日本の内政については不干渉である。
日本と月は大戦をともに戦い、勝利した過去を共有する同盟関係にはあるものの、それもすでに形骸化しつつある。
その現状を知る麟寺は、だからこそオルテンシアという男を気に入っていた。
(これでカグヤとひとつ違いとはな)
はじめはその出自から茶屋のぼんぼんなどと侮っていたが、なかなかどうして至誠な若者。おてんば娘に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと心底思う日が何度あったことか。
ただ、これまで直接オルテンシアの心根を質したことはなかった。よい機会だと考えた麟寺は、
「そんなに頭を下げんでもよい」
と、怒髪天とも形容し得る金剛力士のごとき顔に温和な笑顔を作った。そして、困り顔ではにかむオルテンシアに、
「まったく、カグヤにも見習わせたいものだ」
と切り出した。
「カグヤ・イヴ、ですか」
「この前、庭で会ったであろう? 黒髪に赤目の。これがとんだじゃじゃ馬でな。自分のことしか見えておらん」
麟寺が眉間を押さえて嘆息する横で、
「あやつは迷子じゃからの」
と紫蘭はさらりと紅茶を含んだ。
「迷子?」
意図するところが見えないオルテンシアは首をかしげた。
それ以上語ろうとしない紫蘭から麟寺が引き継いで、
「人間、誰しも迷う時は来る。だからオルテンシアよ。今度カグヤに会うことがあれば、お主の気構えを少しでいい、説いてやってくれ」
と続けた。
いくらなんでも買い被り過ぎであろうと青年は思ったが、褒められて悪い気はしない。だが、やはり彼は正直な男で、
「私には……そんな。迷ってばかりです」
と再び視線を下げたが、それが麟寺の目には謙遜に映った。
「そうか? 俺にはそうは見えんがなあ」
「……機関にいるのは、縁故ですし。将来、父の仕事を継ぐかどうかも、よく、わかりません」
オルテンシアは気まずくなったのか、冷めはじめた紅茶に口をつけた。
「だが、機関に入ると決めたのであろう?」
麟寺の言に、青年はわずかにはっとした。
「……はい。外の世界を見たほうがいいと思ったんです。家業を継いでも継がなくても、一度違う景色を見るのは、きっと自分のためになると、思いました」
言って、オルテンシアは胸がすく思いであった。思えば、青年は誰かに己の考えを述べたことなどなかった。父母は優しく温厚で、話しづらいわけではなかったが、彼はその思慮深さゆえに、余計なことを言うのを避けて来た節があった。
「それよ。それをあの馬鹿娘に聞かせてやれ」
ガハハハハ、と豪放にも笑い飛ばす麟寺に、オルテンシアの顔もほころぶ。
(父さんや母さんも、これくらい遠慮がなければな)
オルテンシアは思う。ほとほと自分はまわりの人に恵まれたな、と。
上官であるグラッグス・ヴァルド、それによく似て豪快な性格の御剣麟寺。新たな父とも呼べるふたりに加え、自分に近い性分であろう白神。そして少々おてんばで、けれども歳相応に繊細な紫蘭。
オルテンシア・ワトホートが最大限の誠意を尽くすのは、この場所が、彼にとって第二の故郷とも呼べるほど大きな存在になったからである。
(ここを戦場にはさせない)
不穏な動きは、白銀機関に属する彼の耳にはすでに入っている。今回この地を訪れたのはケイン・アルカンとの交渉結果を伝えに来ただけではない。
「リンジ様、少々お耳に入れたいことがございます」
改まって話すオルテンシアに、麟寺だけでなく白神や紫蘭までもが緩んだ表情を引き締めた。特に白神に至っては静かに茶を愉しんでいた時とは様子が変わり、まるで眈々(たんたん)とする狼のごとく目が据わっている。
その変わりようにもっとも驚いたのは実妹たる紫蘭であった。口元でティーカップを止めて、兄の心境の変化を探ろうと観察したが、
「これを」
とオルテンシアが卓上になにやら差し出すのを見て、視線をそちらに移した。
白いテーブルクロスの上には、黒く平べったい棒状の機器が置かれている。
「投影機か」
そう言った紫蘭にオルテンシアは「はい」と首肯すると、側面にある小さいスイッチを押した。
長さが人差し指程度のそれから上方に向かって放射状に光が伸びる。と思えば、光は弱まっていき、空中に映像が再生されはじめた。映像はどの角度から見ても同じように映り、麟寺らは各々の視線の高さでそれを見た。
映っていたのはひとりの男である。青空の下でシルクハットを被り、モーニングコートを着たその男は、連合のシンボルたる地球の印が刻まれた演台の前に立ち、なにかを語りかけているようである。
次第に、その男の声が聞こえだした。
「――常に変化し続けることが、この荒波立つ時代を生きるすべであると、私は知っている。それは、あなたも知っていることだ。そう、誰もが知らねばならない。……世の指導者の多くは無能である。私たちよりも広い世界を知っているにもかかわらず無能である。彼らは知り過ぎたがゆえに、己の矮小さに委縮しているのだ。動かず、ただ下を向き、時が過ぎるのを待つばかりで、いったいなにが変えられる。幸福になれる?」
そこで男は必死に訴えかけるような調子から一拍置いた。そして静かに、ふつふつと燃えはじめる炎のごとく、ゆっくりと続きを口にした。
「それが不満だからこそ、私は壊す。しかし私は愚民である。力なき愚民である。ゆえに手の届くところからしか壊せない。だが私は無責任な男ではない。壊したからこそ創るのだ。一歩ずつ、新たな世界を創るのだ。一歩ずつ、新たな文化を創るのだ」
男は語気に熱を込めた。
「戦後百年。我々は創ってきた。そこに生きる者すべての力を結束し、創ってきた。時に愚かかもしれない我々は、それでも創ってきたではないか。しかし世界はいまだひとつにあらず。この地上さえ、かの国を除いて分かれたままだ。――空を見よ!」
男は天を指差した。
「我らの頭上には、いつ降りかかるやもしれぬ脅威がある。備えねばならない。いずれ来たる混迷に立ち向かうためにも。我々はひとつにならねばならない。それこそが、我々人類が連合を組織したはじまりであり、統一こそが、新たな時代を切り拓く一歩であると、信じて疑う余地はない!」
紫蘭がもはや聞くに堪えんと顔をしかめた矢先、オルテンシアの繊細な指先が投影機の電源を落とした。
深く息を吐き、力を抜いた紫蘭は、
「何者じゃ、こやつ」
と静かになった投影機を顎で差した。
「ミルコゥ・コルネリース・ハウトマン。連合軍中将にして、アジア一帯を治めるハウトマン領の領主です」
オルテンシアは懐疑的な表情でいる一同を見回しながら答えた。
「いつものことだ」
麟寺はその名に覚えがあった。ティーカップに残った紅茶を飲み干すと、
「日本を嫌う者は一定数いる。こいつの場合、アジア圏で我が国だけが支配下にないのが気に食わんのだろう。ああいう挑発も、これがはじめてではない」
嘆息混じりに言った。
麟寺の言うように、ハウトマンの挑発的言動はしばしばあった。特に昨今の動きは目に見えて活発で、日本海にミサイルを撃ち込むことからはじまり、海上での軍事演習などは茶飯事になりつつあった。日本で使える数少ない電波を乗っ取って喧伝していた頃が、まだ可愛いいくらいに思える。
しかし、いくら庭で騒がれるようなことが続いても、世界から目の仇にされている日本には手の出しようがない。もし反撃しようものなら、秘密裏に続く白銀機関からの庇護を失うは自明なのだ。そうなれば、あとの末路はいうまでもない。
日本はただ己が領土を専守するのみ。いくらハウトマンが圧を強めようとも、それ以上事態が展開しないとわかれば、慣れるのは時間の問題である。麟寺も含め、国家としての関心が既存の青い繭の脅威へと戻るのに、そう時間はいらなかった。
これがハウトマンの機嫌を損ねた。
黄金の繭によって東京が壊滅した時、日本がもっとも恐れたのはハウトマン率いる連合軍の侵攻である。事実、黄金の繭出現の直近まで、その用意を進めているとの報せが白銀機関からもたらされていた。
結局有事は避けられたが、それは、繭という世界的脅威が、ふたつとも日本に現れたという未曽有の事態に対し、ハウトマンが様子見を選んだだけのことである。
緊張が緩んだわけではない。
というのに、
「それが、ここのところ密かに軍を東側に集めているようなんです」
とオルテンシアが真摯に突きつけるまで、麟寺は己の怠慢を自覚できずにいた。
どこかに油断があるのは、やはり、月がこちら側にいるという甘えから来るのであろう。
――我らも立たねばならんのだ。
麟寺の胸に、鍾馗の言葉が思い出された。そう言い残して盟友は、神楽夜たちを追うようにして日本を発った。
(早まらねばよいが)
翳祇鍾馗。その男を古くから知るゆえに、麟寺の心は穏やかでいられない。
日本で誰よりも機関と深い関係にありながら、誰よりもその関係に否を唱える男。その男が発した言葉の意味は、自国の未来を憂いてのものだ。
(まったく、どいつもこいつも)
麟寺が内心呆れるのは、鍾馗についてだけではない。神楽夜と朔夜の養父、灯弥についてもだ。どちらもひとりで考え、ひとりで事に挑むきらいがある。
昔からぶつかることの多かったふたりであるが、仲裁役をしてきた麟寺には、今回ばかりはふたりが、同じ目的に動いている気がしてならなかった。
「天意でしょう」
白神はだしぬけに言うなり席を立ち、決意を込めて麟寺を見据えた。
それを受けて麟寺も立ち上がり、ただひと言「御意」と応じる。水魚のごとき主従であるからこそのやり取りは、不穏な空気を感じこそすれ、オルテンシアでは理解が及ばない。
そのとおり、わかるはずなどなかった。組織から託された情報が新たな騒乱の呼び水になろうなど、いまの彼には知る由もなかったのである。




