第六話「断決する者たち」④
六月も半ばを過ぎてなお梅雨の雲叢何処やら、風は早くも夏を運んだ。神楽夜が発って二日が過ぎた日本は、五月晴れというには早い快晴にあった。
昼寝にあつらえ向きな乾風は、三方の引き戸を開け放った稽古場へと流れ込む。されどそこに大の字になる者はおらず、むしろ風音ひとつさえ疎まれる沈黙が支配していた。
場を制するは、腰に帯刀し、膝を正して座すひとりの少女。日本の指導者たる神皇泉白神が実妹、紫蘭である。藤色の道着に濃紺の袴を身に着け、明鏡止水の境地で瞑目するその姿勢は、今年で十二を数える少女とは思えぬ落ち着きぶりであった。
それは、兄ともども暗殺の危機を幾度か乗り越えたから身についたようなものであるが、彼女の場合は、近くに楽天的な愚兄がいたことが特に大きかった。こうして時間さえあれば鍛錬に勤しむのも、同じ轍は踏むまいとする強固な意思から来るものである。
緩やかに流れていた風が止み、稽古場を清澄な空気が包みだす。そして次に来る風が、肩口で切りそろえた紫蘭の黒髪を乱した時、彼女は澄んだ眼をかっと見開き、床板をどんと踏みつけて片足を立てた。
打ち払われた右腕のさきには、刀身二尺二寸(約六十六センチ)の居合刀が静かに伸びている。抜刀の所作が見えぬどころか音さえも聞こえぬ早業に、戸の陰から盗み見ていた兄は感嘆の息の漏らしどころを見失い、ただ立ち尽くした。
紫蘭が手にする居合刀の重量はおよそ一キロある。稽古用とはいえ、それを、細身といわれる自分よりも細い妹が容易く振るって見せるのだから、兄としてはかける言葉が浮かばない
なにせ、白神はその半分の重さで音を上げたのだ。
(恐るべし)
そっと身を引っ込めた白神は妹の前途を憂いだ。あれほどの兵であれば、安穏とした生活は望めまい。いずれは縁談も持ち上がろうが、はてさて貰い手がいるかどうか。
などと考えていると、
「兄上」
氷海の底のように冷たい呼び声が響き、白神は戸に預けた背中をびくりと引き伸ばした。
すでにこちらの存在は見透かされている。さて、どう返したものか。
瞬時に思考を走らせはじめると、白神の目の前で、庭に咲く青い紫陽花が一本、茎を首元からすっぱり斬られてぽとりと落ちた。
「ひっ」
恐る恐る戸口から顔を覗かせれば、そこには立腹した妹の姿が――と思いきや、嘘のごとく誰の姿も見当たらない。
「あれ?」
不審に思った白神は全身を晒し、戸口を跨いだ。
すると、
「未熟じゃの」
頭上から紫蘭のせせら笑う声が聞こえ、白神は顔を青くして首を振り上げた。
紫蘭は刀を収めた鞘を手に、天井と小壁が作る角にまるで蜘蛛のごとくへばりついていた。
誰も信用していないような、ややもすれば厭世的とも取れるきつい目つきの紫蘭であるが、獲物を前にしたこの時ばかりは、見合った者を竦ませる力強さが宿る。
その目に射られた白神は、まさに蛇に睨まれた蛙である。あとは紫陽花のように散るのみか。兄は覚悟を決め、ごくりと生唾を飲み込んだ。
風抜ける稽古場からどたどたと激しい足音が聞こえた麟寺は、
(またか)
とげんなりした顔で、
「これこれ、稽古の時間はまださきでございますぞ」
その巨躯を戸口から覗かせた。
案の定、なかには対峙する兄妹の姿がある。鞘に収まった刀を背に隠すように持ち、稽古場の真ん中で間合いを取る白神と、そこから少し離れた別の戸口近くで膝をつき、徒手空拳で険しい顔を兄に向ける紫蘭である。
兄がちょっかいをかけ、妹がそれに仕返すのがこの兄妹のお決まりであるがゆえ、
「若君」
と麟寺は諫める調子で主君を見た。
それに白神は観念したように眉を寄せると、
「ごめんよ、シラン」
と苦笑気味に妹へ刀を返した。
だが受け取る紫蘭の顔は訝しげである。まるで手品を暴こうとするように、手にした鞘の感触やなかに収められた刀の重みをしげしげと確かめる。
そして頭上から襲い掛かったあの一瞬を思い出し、なおさら納得いかない様子で片眉を吊り上げた。
あの瞬間、完全ではないとはいえ、不意打ちは成立したはずであった。紫蘭が解せないのは、上から突き刺そうと手にした鞘が、自身の着地と同時に兄の手に渡っていたことである。
彼女に鞘を奪われた感覚はなかった。躱すだろうと踏んでの一撃ではあったが、それなりに力も込めていた。
紫蘭は手に握った鞘と麟寺の諫言を受ける白神とを交互に見つめた。
刀を取り戻そうと追い回した時も妙であった。兄のいたずらっぽい笑顔に手が届くどころか、間合いが一向に変わらなかったのである。とりわけ、俊敏さは兄以上と鍾馗のお墨つきを得ているだけに、紫蘭はなおさら納得がいかない。
(縮地か?)
縮地とは古武術に見られる走法で、手法には様々な説があるが、ここでは字面のとおり土地そのものを縮め、移動する距離を短くする、というものである。
この技法は神皇泉家を支える御三家(祀木家、御剣家、翳祇家)もそれぞれの家柄を活かす形で習得しており、彼らから日々教えを受ける白神と紫蘭も当然、体得している技である。
しかしさきにも触れたように、手法は様々ある。藍色の袴を召した白神は足捌きが読みづらく、紫蘭は判別に悩んだ。
たとえば、陰陽道に明るい祀木家であれば、地脈を読み、土地神の力を借り受けて行使する技のひとつとして縮地がある。こちらは技の名に違わず土地を縮めるため、その点で「真っ当な」縮地といえるであろう。祀木家が得意とする<祇制連術>の基礎の技術だ。
では翳祇家はどうか。彼らは祀木家とは違い、自分の外から力を持ってくるのではなく、自分の内側、つまり命そのものを極限まで高めることを理念とする。<死逝連術>と呼ぶその技術体系に、やはり基礎の動作として縮地はある。こちらの場合は、重心の移動法をはじめとした体捌きによるもので、純粋な体術といえよう。残る御剣家の縮地もこの方法に近い。
もっぱら翳祇流の技を使う紫蘭は、祀木家の扱う奇妙奇天烈な技があまり好きではない。
もっとも、祀木家の教えは主に兄、白神に向けてのみ施されてきたため、詳細までは知り得ないというのが本当のところだ。だからというわけではないが、こと体術において鈍重な兄に劣るなどとは、さすがに一杯食わされた気がして、余計に紫蘭は腹立たしい。
なるほど、さきほどの「ごめんよ」の枕詞は、「からかって」ではなく「上手で」か。もちろん兄にそんな意図はないわけであるが、紫蘭は持ち前の負けん気から言葉尻をそう捉えた。
(兄上めえ)
紫蘭がぎりぎりと忌々しそうな視線を向けるさきで、白神は麟寺とこちらに背を向けて、なにやら話し込んでいる様子である。
妹から見てひとつ違いの兄は呆れるほど呑気で、どこか飄々としている。大した努力もせず、与えられるまま、望まれる役目をこなせばいいと思っているのだろう。その姿勢が、紫蘭には許しがたい。そこからはなにも生まれないと思うだけにだ。
一方で、感覚だけで物事をやってのける才覚が妬ましくもあった。
神皇泉家は日の目を見ることのない裏の世界にいた旧家であるから、裏の事情にこそ精通していても、国家の指導者たる意志や矜持は持ち合わせていない。
それに白神はまだ十代も前半である。両親を含めた親族の一切を一晩に喪った状況で、それでも涙ひとつなく、さも平然と玉座に腰を落ち着けられるのは、いったいどんな感性がなせる業なのか。紫蘭はついぞ疑問であった。
無論、いまとなってはたったひとりの肉親ゆえに好いてはいる。麟寺らが大事にせよと厳に言うのもわかっている。家族であるから当然である。
だが、だからこそわからない。兄は、神皇泉白神はいま、なにを見据えているのか。
「こちらでしたか」
稽古場のなかに響いた柔らかく誠実な男の声に、紫蘭はどきりとして思案を打ち切った。
「ん? どうやってここまで来た、オルテンシア?」
問いを投げる麟寺に、戸口の陰から姿を見せた金髪碧眼の青年は、
「はい。マツルギ様からこちらへ行くようにと」
と、その中性的な顔に爽やかな笑顔を浮かべた。
「奴め、日に日に幅を利かせよって」
麟寺はさぞ無念そうに嘆息して見せる。
彼らのいる稽古場は、城内でも限られた者しか立ち入ることができない場所にある。ここは国家の中枢だ。そこに許しなき外様が入ってこようものなら、瞬時に首級にされても文句はいえまい。
それに、たとえ許可があったとしても、監視役もつけずひとりのこのこやって来るなど、白銀機関といえど許されることではない。
にもかかわらず麟寺のお目こぼしを得られるのは、ほかならぬこの青年――オルテンシア・ワトホートが、絵に描いたように清廉潔白だからである。
金のくせ毛に雪のごとき白い肌、燕尾服に似た白銀機関固有の白い軍服と、その佇まいだけでも文字どおりだ。
普段は白銀機関を疎ましく思う麟寺であるが、彼とその上官であるグラッグス・ヴァルドだけは人間的に好ましく思っていた。
「場所を移そう。若君もお願い致します」
畏まって具申する麟寺に、白神は涼やかに笑みを向ける。
「堅苦しいですよ、リンジ。私ごときにそこまで丁寧になる必要はありません」
「しかし」
「よいのです。リンジの気持ちは伝わっていますから。その気力、この国のために使ってください」
穏やかに言うなり白神は背後を振り向き、
「シランも行くでしょう?」
と誰もいない戸口へ呼びかけた。
さきほどは兄がやられたが、今度は紫蘭の番である。戸の裏で挙動不審になる自分を落ち着かせるべく、彼女は深く呼吸をした。
と、地面に横たわる青い紫陽花が目に留まった。さきほど剣風で斬り落としたものである。
なかなか姿を見せない紫蘭に白神らは顔を見合わせた。そのうちに戸口のほうを向いていたオルテンシアが、
「シラン様」
と姿を認めれば、彼女は答えぬまま庭へと降りた。
その足で落ちた紫陽花のもとへ向かう。経緯を知る白神は少々ぎょっとしたが、努めて平静を装い、
「それ、どうするの?」
と訊いた。
「ドライフラワーというのをやってみようと思うてな」
紫蘭は手に抱いた花を愛でながら、そう微笑んだ。




