第六話「断決する者たち」②
その頃ジックは、自身が作り出した火柱を挟んで、怯えるイネッサと対峙していた。
彼女が戦い慣れしていないのは一合目でわかった。切り結んだだけで腰を抜かすようでは、武器を取ること自体が不相応だ。
しかし無視できないのは、奇怪なあの水のせいである。どこからともなく噴き出すそれがジックの行く手を阻むのだ。おかげでジックは氷壁を溶解させてなお、アルマを捕らえるイヴァンへ近づくことができずにいた。
(こいつがアービターだと?)
ジックは赤いテンガロンハットの下で目つきを険しくした。
イネッサが持つ三叉の槍からは、自分が持つ剣と同じものを感じる。なにかとても大きな、安らかで、温かな感覚だ。そして、ある日突然壊れてしまいそうでもある。
ジックは知っている。アルマと過ごした日々こそが、それにもっとも近いものであると。だからこそ、目の前の親子には疑問を覚えてならない。
なぜこんな奴らが、と。
イネッサのうしろでは、彼女の父イヴァンが異教徒の根絶を喚き立てている。彼は次第に錯乱の度合いを高め、ついには不甲斐ない娘を難じるようになった。それが彼女にどう聞こえたかまではわからないが、炎に照らされるイネッサの顔には、明らかな内省の色が窺えた。
親という存在に疎いジックですら、この親子の形は歪に見える。それが信仰による歪みなのか、それとも彼女たちにとってはそれが最適なものなのか。
いずれにせよ、ジックがアービターという力に感じる慈しみとはかけ離れていた。
「なにをしている! 立て、イネッサ! 立ってその男を滅せよ! しからばグラディア様が、アリサにお赦しを授けてくださる!」
父の言葉にイネッサは目を見開くと、密やかに唱えた。
「――リキッド・エア」
アルマまでの間合いを目測していたジックは、周囲に異変を察してすぐさま跳び、溺れた。
ジックは混乱した。息ができない。確かに地上にいたはずなのに、一瞬にして水のなかにいる。このままでは無様に陸で溺死する。
だが、片手で顔面を拭ったり、手をばたつかせたりしても、その水から逃れられない。水面を目指そうといくら腕をかいても、水の感触を得ることはない。そもそも水を感じられるのは首から上だけである。足は確かに地についているのだ。
(息が……!)
ジックの視界には揺れる水面が見えている。目と鼻の先だ。そのなかで、マトリョーシカのような影がゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい……」
つぶやいて、イネッサはもがき苦しむジックから目を逸らした。
ジックは激しく頭を振る。けれども無意味なことである。ジックを死へと引きずり込む水は、彼の頭をすっぽり覆って立方体を形成し、どれだけ暴れようともその動きに追従し続ける。窒息するのは時間の問題であった。
イヴァン神父は無惨に這いずるアルマの傍らで、
「神罰だ!」
と凄まじい剣幕で叫んだ。
「ジック!」
悲痛に歪むアルマの声が暗い街に響く。
ジックは酸素を求めて半狂乱になりながら、妻のその叫びを、水中でくぐもるただの音として聞いた。
(アルマ……)
肺に溜めた酸素が絞り尽き、ジックは妻を思った。
彼らには誓いがあった。ともに生きると決めた時から、ともに死のうと心を結んだ。その約束も、これでは果たせなくなる。
――このまま終わるなんてできない!
神楽夜の言葉が脳裏によみがえった。
(そうだ、まだ)
歯を食いしばった男は、大地を踏みしめた。
この珍妙な技から逃れるには、あの女をどうにかするほかない。おぼろげにわかるイネッサの影に狙いを定めた男は、起死回生の策に打って出る。
「嘘」
イネッサは逸らしていた視線を戻すなり、体をびくつかせた。頭部を水に覆われた男が、こちらめがけ攻め入ってきている。
(これで!)
ジックは手にした長剣を横に薙ごうと振りかぶった。
あと一歩。さすれば剣の切っ先が届く。
だがしかし。
(く、そ)
届かなかった。
足元から噴き出た水柱がジックの体を大きく跳ね除けた。
もはやなす術がない。突き上げられた体は大きく弧を描いて吹き飛び、家屋の屋根より高く上がって、全身で空と向き合った。
感覚すべてが遅延して感じられるのは、死の淵にあるからか。
ジックは水面越しの夜空を見る。広がるは、誓いを交わした時と同じ夜空だ。ともにいられることの喜びに眼を濡らし、にじませたあの夜空が、もう遠い。
(……アルマ)
せめて。逝くならせめて、彼女のそばにいたかった。
その願いを聞き届けるかのように、いま、一筋の流星が夜に走った。
地面へ落ちるだけだったはずのその身が、大地弾ける地響きとともに固いなにかに掬われる。
ジックは肺に飛び込んできた酸素に驚き、咳き込みながら荒々しくむさぼった。そして横たわったまま天を仰ぎ、そのさきにある鎧武者の顔を見て、愁眉を開いた。
(ゼルク!)
応じたように、<アームド・ゼルク>は両目にあたるカメラ・アイを赤く輝かせる。
突如として目の前に滑り込んで来た鉄の巨体、しかも寸でのところで停止したそれに、ゼルクの存在を知らぬイネッサやイヴァン神父は、仰天のあまり尻をついた。目を見開き、手足は震え、ややもすれば失禁しかねないところまで上り詰めた状態で、あんぐりと口を開けている。
その場にいる誰もが驚きの目をゼルクに向けたが、ただひとり、彼らとは異なる心持ちでそれを見つめる者がいた。
「姉、ちゃん……?」
朔夜の視線のさき、左手にジックを乗せて片膝をつくその機体は、紛れもなく養父の忘れ形見だ。
(どう、して)
自分の介在がなければあれは動かせないはず。だのに動いている。
朔夜は、なにかが胸のあたりからすっぽりと抜け落ちるような、そんな錯覚を覚えた。
一見して違いがあるとすれば、装甲の合間から発せられる黄金の輝きだけである。少年は漏れ出るその光を忌々しく睨みつけた。
するとそこへ、
「サク、アルマを!」
と姉の声が響き渡る。指示に気を取り直した朔夜は、伏して動かぬアルマのもとへ駆け寄り、肩を貸した。
その時だった。
「見つけたぞ、サムライ!」
聞き覚えのある男の声がこだました途端、強烈な光が朔夜たちを照らした。




