第五話「痛み」④
高さ二メートルのアーチ窓が壁に並び、そこから差し込む夜天光が、食堂の状況をぼんやりと浮かび上がらせる。
かつては大勢の修道士が食卓を囲んだのだろう。使い古された木製の長テーブルと椅子たちは、いまや壁際に追いやられて山を作り、蜘蛛の巣を張る絶好の場所と化している。
それらに囲まれた部屋の中央、たったひとつ置かれた木製の長テーブルの上では、三つのランタンが細々と灯り、末端に座した神楽夜の浮かない顔を照らし出していた。
その神楽夜の前に、白いスープの入った丸皿が置かれる。
「じゃがいものスープです」
給仕するイネッサが料理に説明を添えた。
食卓に並ぶのはこのスープに、ちぎられたパンがひとつきりと、なんとも侘しい夕食である。
だが黙して周囲に目を配れば、斜め向かいに座るアルマは、この暗がりでもわかるくらいに爛々とした目をスープに注いでいる。よほど珍しいのだろう。
咳が落ち着いたのは喜ぶべきだが、いささか羽目を外しすぎにも思える。神楽夜は向かいに座すジック・ブレイズに「なぜ放っているのか」と怪訝な目をやった。
そのジックはといえば、赤いテンガロンハットをテーブルに置き、自身の右側に意識を向けている。それもそうだろう。上座にあたるそちらに座るのは、あのグラディアという神父だ。
イネッサの父イヴァンが、客人である神楽夜たちに上座を譲ったからこのような席順となったわけだが、あまり居心地のいいものではない。
しかし、「食料がない」という理由で立ち入らせてもらった以上、断るわけにもいくまい。かといって積極的に話をするかといえばそうでもなく、広い食堂には、給仕をするイネッサの物音だけが響いた。
考えてもみれば、イネッサら親子からすればグラディアも客人のはずである。だのにこの静寂はグラディアに気を遣ってのことなのか、それともこれが彼らの作法なのか。もてなすべきであろうイヴァンですら黙したままでいるのはどうなのか。
――最後の晩餐は賑やかなほうがよいだろう。
思い出されたグラディアの言葉に神楽夜は、
(どこがさ)
と心中に悪態をついた。
配膳を終えたイネッサが長テーブルの末席に腰を下ろす。神楽夜がそれを盗み見れば、顔つきは実に沈み切ったものだ。
さきほどのイネッサはいったいなにを訴えたかったのか。そう疑問を膨らませていると、視界の端に捉えていた彼女の父イヴァンが、静かに眼前で両手を握った。
食物を前に祈りを捧げるそのさまは、神楽夜に養父のある言葉を思い出させる。
――この世は輪っかなんだ。
いつだったか、灯弥が稽古の合間に語ったことだ。それが、彼の扱う<鳳鱗拳>の極意なのだという。
すべてのものは廻る。いま口に入れるスープも、パンも、自分の血肉となっていく。あらゆる価値、命は廻るのだ。そして、新たな価値を生み出していく。
その考えはこの娘の頭でも理解できる。しかし、己の成り立ちを見失ったままの自分がなにかをなしたところで、果たしてそこに価値はあるのだろうか。
嘘がないと、言い切れるのだろうか。
(芯がない……ね)
記憶の片隅に追いやっていたその言葉が脳裏をよぎり、神楽夜は渋面でうつむく。
すると、
「あの……子供たちは?」
アルマがその場に問いを放った。せっかくみなで食事を囲むのだ。子供らがいないのはおかしい。
それにイネッサの父は祈る手を下ろし、
「今日の分はもう済ませてしまっているんです。最近はパンを手に入れるのもやっとなもので……」
と眉をハの字に寄せ、手元にあるひと切れのパンへ視線を落とす。
そんなさまを見せられては、虚言を吐いてご相伴にあずかる身としては心が痛い。
「だったら、これを――」
アルマが自分の分を示してそう言うのは目に見えた話だ。
それを見越したイヴァン神父は被せるようにして、
「いえいえ、いいのです。娘の旅立ちをこれほど大勢の方と祝えるだけで、ありがたいことですから」
と偽りのない穏やかな笑みを浮かべた。
「旅立ち?」
ジックが訊いた。
「ええ。実は明日、イネッサがヴァチカンへ行くもので。それで」
そう言う彼は少し誇らしげである。
というのも、ヴァチカンには彼らの属する教派の総本山があるのだ。今宵の晩餐は、そこへ招かれる栄に浴して、その旅立ちを祝おうという父なりの計らいであった。
しかしイネッサの顔は浮かないままである。
(どっちが主役なんだか)
神楽夜は密かに肩をすくめた。自分の出立を祝う席だというのに給仕のすべてを任されたとあれば、随分ぞんざいな扱いだというほかない。
「よかったんですか? 水を差すようなことをして」
アルマは遠慮がちに訊いた。
「構いませんとも。もともとこの子はあまりしゃべらないのです。母親を亡くしてからは特に」
イヴァンの言った「母親」という単語に、イネッサの肩がかすかに上下した。
そこで、あの神父が重々しく口を開く。
「もう十年以上になるな」
グラディアは葡萄酒の入ったグラスをまわしながら、
「母親に似てきた。そう思わんかね、イヴァン?」
と彼の娘を一瞥する。それに父親は「ええ、髪の色などはそのままです」と迎合する態度を示した。
さらにグラディアは、
「よもや、こうしてまた来ることになろうとはな。これもお導きであろう」
と続けるが、それにも、
「おっしゃるとおりでございます」
などと応じる始末だ。
(なんなの、こいつ)
神楽夜は苛立ちをいよいよ顔に出しかけた。このイヴァンという男は、グラディアに媚びへつらってばかりで、向かいに座る娘の顔ひとつ見やしない。
いい加減、このような茶番につき合っている暇はない。アービターはこの近くにいる。自分らはその手がかりを求めてやってきたはずである。
(てか、ホントにここにいんの?)
ジックのように青白く燃える紋様があるかどうか。それを確かめなければならないわけだが、これではどうすることもできない。
(もしかして、子供ンなかか?)
神楽夜は食堂の出入口の位置を目だけで確認した。適当な理由をつけてあの孤児たちと接触しようという腹である。
そう、この時、神楽夜は実のところ不安に駆り立てられていた。
(養父さんだけじゃ)
繭を抑えきれないのではないか、という不安である。
大陸の半分がなくなったという事実、そして思い出される、
――日本なんかひとたまりもないよ。
という朔夜の冷淡な横顔が、娘の心を急き立てるのだ。
もし帰る国がなくなれば、自分は拠って立つ唯一の場所を失うことになる。それは過去を探すこの娘にとって、またもはじまりを奪われるに等しい。せっかく踏み出したこの一歩さえ、無意味なものとなってしまう。
ゆえにいまは、ひとりでも多くアービターを集めたかった。
(ちゃっちゃと食べて行くか)
そう決め、神楽夜が卓上のスプーンに手を伸ばそうとした、その時である。
「なんだ!?」
イヴァン神父は遠くで聞こえた爆発音に狼狽した声をあげた。
建物全体が少し揺れ、どこかでさらさらと砂埃の落ちる音がする。振動はまだ続いた。
「爆発か? 空が……」
窓に近寄ったイヴァン神父は、南東の空が明滅するのを見た。同じく席を立って外を見たジックは、
「ヴェントゥスだ」
と険しい顔で神楽夜に振り返った。
一同が教会の門まで出てみれば、確かにヴェントゥスが泊まっている方角の空が明るい。腹のなかを震わせる衝撃とともに炸裂音が響き、夜空が一瞬だけ橙色に光った。
「連合か?」
ジックの言葉に、神楽夜は眉間にしわを寄せた。
すると、空に向かって強く輝く一筋の光が伸びた。帯のようなそれは閃光弾などの類とは違う。光は、神楽夜たちの位置からだと雲を突き抜けるように見えた。
何者かは知らないが、ヴェントゥスはすでに見つかっている。
「ひとまず隠れよう」
ジックの提案は思いがけないものであった。
「見殺しにしろって言うの?」
神楽夜は食ってかかる。
「あいつならうまく逃げる」
「でも!」
「いまからじゃ遅い。助けるにしても」
ヴェントゥスはすでに包囲されているに違いない。爆発の規模からしてグスタフや戦車がいることだろう。そこに生身で飛び込むのは自滅行為だ。
けれども神楽夜は承服しかねた。
――場所を変えれば、見え方も自ずと変わる。
その言葉を送った黒騎士の姿が神楽夜の脳裏をよぎる。
(まだ、なにも――見えてない)
そう、まだなにも自分は得られていない。ただひとつ、守りたい場所がわかったこと以外は、なにも。だからこそ、こんなところで終わるわけにはいなかない。
「――ゼルクがある」
意図せず口を衝いて出た言葉を追いかけるように、神楽夜は熱い視線を朔夜に送った。
その様子に眉をひそめたのはジックだ。
「今度は目覚めないかもしれないぞ」
厳しい口振りでそう言うのは、身内に先立たれるかもしれない怖さを知るがゆえの、彼なりの気遣いのつもりだった。
しかし、この娘の意思は固いらしい。弟の朔夜は姉のその性分を理解しているが、ジックからすればいまの彼女は、まるで戦いそのものに飢えているかのように映った。
(あの時の)
と、ジックは神楽夜とはじめて対峙した時のことを思い出す。暗闇を背にした獰猛に輝く赤い瞳。口端を吊り上げたその顔を、ジックは忘れもしない。
あれは勝算を見出したがゆえと思っていたが、実はとんだ勘違いであったかもしれない。神楽夜は意識的か無意識的か知れないが、戦いを求めている節がある。それがひとりでならばまだいいが、ゼルクを使うということは、弟の朔夜を巻き込むことになる。振り回される朔夜の心情はいかばかりのものか。
そう考えて朔夜を見れば、案の定、姉から向けられた圧のある視線に、心なしか萎縮した様子で答えあぐねていた。
対する神楽夜は、てっきり賛同してくれるものと思っていただけに困惑の色を隠せない。
「……なら、私だけでも」
と言って駆け出そうとする。その矢先、彼女の腕をジックが掴んだ。
「お前ひとりでどうする!」
神楽夜はそれを振りほどいて、
「このまま終わるなんてできない! 私は……」
そう言い淀んだ。
結論からいってしまえば、ジックの推察は当たっている。
自分の名前なのに、自分のものではない。自分の体なのに、自分のものではない。
どれだけ心の赴くままに生きようとしても、そこには自分をなす「根源」がない。
しかしそれがないのに、自分はこうではないという違和感ばかりが先立つ。自分の口から出る言葉、聞こえる音、肌で感じる季節さえも、本来の自分は違うと、ないはずの過去が言ってくる。
心と体がちぐはぐで、まわりのすべてが嘘だった。そしてその嘘を嘘と証明するすべもない。
なにも。虚空のようになにも。彼女にはいま得る痛み以外なにひとつ、確からしい「自分」という実感が湧かなかった。
だから。
戦いのなかに命の瑞々しさを見出して、なにが悪いのか。
もはや目を逸らすことも、遠ざけることも必要ない。己のうちに巣くうは戦いを求める悪鬼羅刹だ。
だが、たとえそうであっても、
「――もう、戻りたくない」
神楽夜は腹の底から絞り出すように嘆いた。
深い苦悶に顔を歪める姉を、朔夜ははじめて見た。
そこへ、鉄の棒で地面を小突くような金属音が響く。いまの神楽夜には神判の時を告げる音に聞こえた。
華奢な体のどこにそんな力があるのか。音のした教会のほうを見やると、身の丈以上のトライデント(三叉の槍)を携え、シスター・イネッサがそこにいた。
トライデントはまだ青白い炎をまとっている。矛先から尾を引くそれは、イネッサの背中から流れていた。
「なんの真似だ」
ジックは声色を低くして訊いた。
「申し訳ないが、お引き取りいただきたい」
その声とともにイネッサの背後からぬっと姿を見せたのは、彼女の父イヴァンであった。手には錫杖のような得物が握られている。
「ここは罪人だって受け入れるんだろ?」
ジックは嫌味たらしく言った。
「ええ、神はお赦しになります。人はね。ですが、あなた方は災いのようだ。それ、その子供――」
とイヴァンは朔夜を指差すなり、
「天蓋より降り来るは、流転せしむる星の理。与えたもうた罰を赦し、祝祭とともに開闢をなす。ここに楽園はなり、されど逆徒、巨神まといて破却せん」
と呪文めいた言葉を並べた。徐々に狂気を孕みだしたイヴァンの顔は、これまでとは別人のようにおぞましい影を宿している。
「巨神となるのでしょう、忌々しい! グラディア様のおっしゃるとおりだ!」
そう続けるイヴァンに、神楽夜たちは意味がわからず怪訝な面持ちで固まった。
けれどもイネッサは、その脇で機械のように冷たい目をしたままだ。父の言動など意に介す素振りもない。神楽夜の目には、そちらのほうが歪に映った。
それより疑問であるのは、朔夜の体質をイヴァンが知っていたことである。
(いや、あの男か)
神楽夜は眉を一層厳しく寄せた。グラディアが朔夜を見た時の驚きに満ちた顔は、それを知るがゆえであったのか。
しかし、あの一瞬で見抜けるだろうか。そう思案する一方で、イヴァンの無軌道ぶりは加速するばかりだ。
「洗礼だ!」
目を剥いて迫る彼に、
「これだから宗教ってのは」
と吐き捨てるジックであったが、その物言いが神父の逆鱗に触れた。
「イネッサァァ!」
父の叫びに呼応して、イネッサはなにかを唱えはじめる。
(来る――!)
危険を察知した神楽夜とジックは、それぞれ朔夜とアルマを連れて跳び退こうとした。
だが、
「アルマ!」
間に合わなかった。突如、間欠泉のごとく噴き出した水柱が夫妻の間にせり立ち、アルマだけが孤立した。
「どんな手品だ!」
ジックは鋭い水柱を見上げて忌々しく言い放つ。
地面に穴は開いていない。水はなにもないところから立ち上がっている。それが勢いを落とし、徐々に背が低くなるにつれ、陰にいるイネッサの姿が見えてきた。
すると、
「てめぇ! アルマを離せ!」
とジックは感情を爆発させた。
力なくへたり込んだアルマの首元に、イヴァン神父が持つ錫杖のさきが向けられている。
ジックの怒りとは対照的に、イネッサは能面のような表情のまま、手にした槍の切っ先をジックに向けた。対するジックは左足の紋様から青白い炎とともに剣を抜く。それを見て、ようやくイネッサの表情が動いた。
(私と、同じ!?)
間合いは、腕を伸ばす分ジックのほうがまだ広い。槍をへその下で構えるイネッサは得物の長さを活かせず、眼前に向けられたジックの剣先に狼狽えて半歩退いた。
幾度目かの爆音が遠巻きに響く。アルマがその音に顔を上げると、続いて首元の錫杖がそれを追い、顎下に宛がわれた。
アルマは苦々しく視線を下ろす。そしてその目をジックの背後で様子を窺う姉弟へ移し、
「行って、カグヤちゃん!」
と、こともあろうにそう叫んだ。
当然、鉄槌は下される。アルマが叫ぶや錫杖が彼女の顎先を叩き上げ、さらに、細身の背中を殴打した。
「アルマッ!」
苦悶の表情で背を仰け反らせ、地面に突っ伏す妻を目にし、ジックはイヴァンを八つ裂きにせんと跳びかかる。
しかし一瞬とはいえ、イネッサから目を離すべきではなかった。
「ジック!」
神楽夜は驚愕した様子で叫んだ。
「くっ……」
対峙するイネッサの脇をすり抜けようとしたジックは、右の脇腹を抱えながらよろよろと数歩あとずさり、
「氷、か」
と歯噛みした。
ジックの目の前の空間にはバスケットボール大の氷の球体が浮かび、そこから四方八方に氷柱が飛び出している。炸裂するように広がったそれは、鋭利な先端でもって彼の衣服ごとその皮膚を斬り裂いていた。
氷柱は水に還りながら弾け、地面を濡らす。その飛沫を顔に浴び、伏していたアルマは薄っすらと目を開けた。
「く……」
背中を横一文字に焼くような痛みは、ありありと生を実感させる。この身が命ある存在であることを確かに噛みしめた彼女は、這いつくばったままぎろりと視線を持ち上げた。
そのさきには、こちらを狼狽した様子で見つめる神楽夜たち姉弟がいる。それを見た彼女の脳裏に、嬉々とした少女の声がよみがえった。
――見よ。これなら混ざっても問題あるまい。
地に着くほど長い黒髪を揺らし、身にまとった純白のドレスの裾を広げて見せる赤目の娘は、実に楽しげにそう言った。
その回顧を噛み締めるように、いま、赤毛の女はきつく瞳を閉じ、拳を握る。
(もう――)
「もう、あなたの人生を生きていいの!」
伏した彼女は突として顔を振り上げると、決死の形相で声を張り上げた。
「黙れ、匹婦が!」
イヴァンの錫杖が風を切ってアルマの背を打ちのめす。激痛に体が跳ねる。
それでも。
「その心はあなただけのもの! いま、あなたはどうしたいの!」
アルマは叫ぶことをやめない。
(どう、したい)
なぜそんなことを言い出したのか。神楽夜は心のうちを見透かされた気がして、怪訝に眉根を寄せる。
が、逡巡する間に、アルマの姿は反り立つ氷壁によって遮られた。
氷壁の前に立つイネッサの顔は苦虫を噛み潰したようだ。その顔つきは、日本を発つことに迷っていた頃の自分を思い出させた。
――問い続けろ。
神楽夜の脳裏に、またあの黒騎士の声がする。
「行くならさっさと行け!」
イネッサと向き合うジックは背中越しにそう吐き捨てる。
神楽夜は朔夜へ素早く視線を移した。
「姉ちゃん……」
弟の意思は変わらない。そして、神楽夜の意思も変わらない。ならば。
「――すぐに戻る」
神楽夜は忸怩たる思いで夜の街へ駆けだした。
常人ならざる速度で街道を疾駆し、壁を蹴り上がり、屋根を伝う。
ヴェントゥスが停泊するショッピングモール跡まで一キロ程度あるが、神楽夜の足では一分とかからない。彼女の全力疾走は人体の限界を超えてあまりある。弾丸のごとき勢いで、瞬く間に爆炎の上がる戦地へ到達した。




