第五話「痛み」②
すっかり傾いた陽光がゆらゆら波打つ湖面に煌めいて、一日も幕引きであると告げている。水面には、倒壊しかけた建物が飛び石のように頭を突き出して、ここが人の住まう場所であったことをかろうじて示していた。
(これが、繭の痕……)
名もなき湖のほとりに立ち、神楽夜はささやくような風に身をゆだねながら、胸の内にそう感想を漏らした。
風景が語る哀愁は、神楽夜に自身の空疎さを思い出させた。在りし日の姿を求めようにも、眼前の景色には滅んだ事実しか残っていない。それは、過去を持たず、成長した肉体だけを抱える自分に近く思えた。
かつて芸術の街と謳われたプラハの地は、いまや巨大なクレーターと化している。直径二十キロにおよぶそれは、のちに<プラハの悲劇>と呼ばれる、二十年前に現れた黄金の繭による被害の傷跡だ。神楽夜たちが臨む湖は、そこにブルタバ川の流水が至り、溜まったものであった。
(日本もこうなるのか)
綺麗な円を描く湖の周辺には、夕日に焼かれる瓦礫の山が文明の残り香を漂わせる。終末的な風景に違いないが、しかし神楽夜は内心、もっと悲惨なことになるとばかり思っていた。
日本海に沈む青い繭がどのようなものかは知らないが、被害がこの程度であれば、せいぜい日本海に面したどこかの県が抉られるくらいで済むだろう。麟寺や鍾馗はなにに焦燥していたのか。
奇しくも神楽夜の疑問を汲み取ったように、彼女の背後でシーカーが口を開いた。
「これで済んだんだから、儲けもんだよなあ」
同時にオイルライターの蓋が小気味よく開閉する音が聞こえ、神楽夜は彼を向いた。
たゆたう紫煙の下、折り重なる瓦礫に腰掛けて、シーカーはどこか不敵な笑みを浮かべながら彼方へ視線をやる。
「五十年くらい前の南アメリカの時なんか、大陸の南半分がなくなったんだぜ」
「南、半分……」
神楽夜の切り返しは鈍かった。解せない顔つきは、被害の大きさが想像できなかったこともあるが、
(ああ。こいつ、地理に疎かったんだったな)
とシーカーはその理由をすぐに察し、
「ロンドンはもうわかるだろ? そっから海を越えて、南西にある大陸の話さ」
と指に挟んだ煙草をひらひらさせながらつけ加えた。
シーカーの小馬鹿にした態度が鼻につき、神楽夜はむっと顔をしかめる。その横で、
「日本なんかひとたまりもないよ」
と朔夜が無感動に言うものだから、姉は心配げな目を向けざるを得ない。
朔夜は姉の右側で、自身の右腕を抱き寄せるようにして立っている。その姿勢で、
「二十倍、いや、それ以上の範囲がなくなるんだ」
と続けた。
「二十倍……」
それでも神楽夜にはやはり想像がつかない話だ。けれど、自身の見積もりが甘いことだけは確かである。
(そんなの、なんで連合は放置してるんだ)
神楽夜は厳めしく沈黙した。
日本の国土面積を正確に知るわけではないが、その二十倍と言われれば、途方さだけで驚くには充分である。
だがこの時ばかりはそれよりも、
「サク。やっぱり寝てたほうがいいんじゃないの?」
気がかりなのは弟の様子だ。隣で湖に向けられたままのその表情は、ただの時差ぼけとは思えないほど暗い。一行はなるべく現地の時間に合わせて行動しているが、ここへの移動中に仮眠したのがまずかったか。
思い詰めたような横顔は、いつか見た養父の顔を思い出させる。だからこそ神楽夜は、よくないことが起きるのではないかと余計な胸騒ぎを禁じ得ない。
「なんかあった?」
心配げに訊いた。
「大丈夫だよ、姉ちゃん。それより教会探そう」
言った朔夜は体勢を変えないまま、さらりと踵を返した。
神楽夜が気になっていたのは、その淡白さである。なにか悪いことでもしたかと勘繰るくらい、態度に妙な距離感を覚えた。
否や、いま少年に目を向けるのは姉ばかりではない。昏睡から目覚めてからというもの、
「プラハの教会にアービターがいる」
としきりに口にし、この地へ立ち寄ることを切望した彼の言動に、一行の誰もが注目していた。
とりわけシーカーはめざとい。彼は立ち去ろうとする朔夜に、不安げな視線を送る神楽夜と対照的な卑しい目を向けた。
「アービター、ねぇ。さてこの辺にあるかね、教会なんて」
気だるそうに言う彼に、
「ゼルクはこのあたりを示してました。どこか人が集まる場所ってないですか?」
朔夜はそう堂々と応じる。その背中は姉から見れば、随分と大人びたものだ。しかしいまはそこに、さらに冷徹な意志も神楽夜には感じられた。
それは一緒に湖面を眺めるブレイズ夫妻も同じであった。神楽夜の傍らに立つ夫妻、特にジックは、朔夜の変わりように訝しげな顔つきを向けた。
シーカーは短くなった煙草を捨て、それを踏みつけて消し、
「このあたりに人は住んでいないって話だ。オニキス以上の磁気嵐なもんでな」
と、すぐ二本目に火をつけた。そして、
「おかげでアルカン領にありながら、連合の奴らでさえ近寄らない」
身を隠すには持ってこいってわけだ、と煙を吐きながら続けた。
(だからすんなり来たのか)
神楽夜は数時間前に「プラハに潜伏する」という予定変更を聞かされて、あれほど速さにこだわっていた彼らしくないと思っていたのだが、いま合点がいった。
確かに、目的地であるロンドンまで大手を振って行ける状況ではなくなっている。砂漠を横断する不審艦の報せはついに連合の耳に入ったらしく、カスピ海に差し掛かった時点で、軍の警戒が厳しくなりつつあるとの話がシーカーの口から出ていた。
しかしそこは裏社会の運び屋、腕の見せどころというやつである。
カスピ海沿岸の街に一時停泊し、航路の調整を済ませたシーカーは、軍需企業が持つ非合法な交易路をたどり、旧スロバキアを経由して旧チェコ・ブルノ地区へ潜伏できるよう計画を立て直した――はずなのだが。
さきほど触れた朔夜の強い希望を受け、一行はこのような寂れた土地へ足を延ばす運びとなった。
「ジックさんはなにか感じませんか?」
朔夜は身を捻ってジックに問うた。
ジックは思い出すような素振りを見せながら、
「そう言われてもな……。アービターってのはこの印が出た時に聞いただけで、それ以外は」
と、最後は妻のアルマと確認し合うように視線を結んだ。
「だいたい、近くにいればわかるものなのか?」
今度はジックが問いを返した。
しかし、朔夜はその答えを持ち合わせてはいない。ゼルクがアービターを探知できる話はここにいる者にはしているが、それまでだ。
答えあぐね、悩ましげに視線を落とす朔夜に代わり、
「聞いた話だが、アービターは互いに引き合うらしい」
とシーカーが話を引き継いだ。それは日本を発つ際、鍾馗も言っていたことである。
シーカーは一身に浴びせられるみなの視線を涼しげに受け流し、
「毎度、繭が現れるたびにどこからか集まるんだ。そして繭を倒す。命と引き換えにな」
と鼻で笑って続ける。それに対し朔夜が、
「でも、父さんは生きてます」
と応じた時である。
「そう、トウヤ・イヴを除いてな」
湖の方角からした電子的な男の声に、一同の視線は急速に吸い寄せられた。そしてその誰もが、そこにいた人物の状態に我が目を疑った。
風が止み、落日に染まる凪いだ湖面に、日本刀を納める白塗りの鞘が起立している。声を発した人物は、あろうことかその柄の上に足をそろえ、腕を組んで立っていた。
陣羽織にも見える黒い外套に身を包み、鋭利さが際立つ造りの黒いフルフェイス・ヘルメットで頭を覆ったその人物は、背にもう一本、刀を収めた黒い鞘を袈裟に携えている。
男女の別はわからないが、声色からここは男としようか。黒ずくめの男が立つそこは、紛れもなく水面のはずだ。どうやって立っているのか。水面に波紋すら広がらないそのさまに、神楽夜は狐につままれた気持ちで凝視した。
すると、
「クラドノへ行け、カグヤ・イヴ」
黒ずくめはそう言う。
(クラドノ?)
不意に名を呼ばれた神楽夜が眉をひそめれば、
「そこに教会がある」
と男は続けた。
「……どうして、私を」
それだけではない。なぜ教会を探していることまで知っているのか。
しかしそれを問う間もなく、
「急げ。時間がないぞ」
と男がそう告げた瞬間、止んでいたはずの風が突如として逆巻き、神楽夜たちに襲い掛かった。一同は荒れ狂う突風に驚くまま、風に抗って立ち尽くすしかない。
やがて風が穏やかさを取り戻し、神楽夜が湖へ目を戻せば、そこにいたはずの男の姿はうたかたのごとく消えている。
「なん、だったんだ……」
まぼろしだったのか。神楽夜がぐるりとあたりを見まわすと、呆然と湖を見つめる一同のなかでシーカーだけが、瓦礫から腰を上げたままの体勢で、男がいた場所を鬼のような形相で睨みつけていた。




