第四話「熱砂の邂逅」⑦
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カスピ海北部沿岸の街は、難民らが集う場所のなかでは栄えている部類になる。型落ちの軍用車両を改造した露天商が雑多に立ち並ぶそのさまは、街というには少々お粗末な集落であるが、人通りも多く活気がある。
それは、アルカン領との境目が間近にあるためだ。そこから流れて来る品々を取り引きする、いわば闇市によってこの地は賑わっているのである。
よって外様の存在が珍しくない。神楽夜たち一行が足を止めるにはあつらえ向きな場所だった。
(結局、西に戻ってくる羽目になったか……)
赤いカウボーイ姿の長髪男、ジック・ブレイズは、ひとり街のなかを行きながら心中にそう嘆息した。
目的はただひとつ。咳に苦しむ妻・アルマのため、睡眠薬を手に入れることである。
しかし、ここは正規の流通経路から外れた闇市だ。取引には連合内共通の通貨<リル>で支払うか、難民らのしきたりどおり物々交換で行うほかない。
男は、これまで盗んできたなけなしの銭を握り締め、街を彷徨った。
その頃、神楽夜は湯を張った洗面器を持って、赤き艦<ヴェントゥス>内の通路を歩いていた。向かうさきはアルマがいる一室である。
部屋に入れば、正面のベッドには息絶え絶えの彼女が横たわっている。今朝目覚めてからずっと激しい咳が続く彼女は、まともに呼吸することさえ苦痛なようであった。
その肌にはじっとりと汗がにじんでいる。
心配げに眉をひそめる神楽夜は、向かって右側にある備えつけのテーブルに洗面器を置くと、浸してあったタオルを絞った。そして、昨晩のジックがそうしたようにアルマの額や首筋の汗を拭う。
アルマは浅く呼吸をしながら、薄目を開けて神楽夜の姿を認めた。
「ジック、は」
問いかけに神楽夜は手を止め、
「いま、薬がないか探してるよ」
と消沈した様子で答える。ジックが艦を出て、かれこれ二時間になろうとしていた。
一行がここまで足止めを食らったのは、昨晩叫んだ末に意識を失ったきりの朔夜や、アルマの不調も理由にあるのだが、なにより連合の動きが活発になったことが大きかった。
「どうやら連合が警戒をはじめたらしい。こりゃ、すんなりロンドンってわけには行かなそうだ」
シーカーは街の近傍へと艦を停泊させるなり、そうため息を漏らした。神楽夜がマシュー・ゲッツェン駆るグスタフを撃破したための影響であることは、推し量るまでもない。
それだけでも充分に面目次第もないところだが、さらに、
「航路の調整をする。それまでは下手に動くな。勝手に遠くに行くのもナシだ」
と呆れたふうに釘を刺されては、前科がある神楽夜としては従うほかない。
そこでジックが、時間の許す限り街で薬を探そうとするのは是非もないことであった。
ゆえに神楽夜はこうして居残り、昏睡する弟と病に伏すアルマを交互に介抱しているのである。
汗を拭き終わり、神楽夜は弟の部屋へ移ろうとした。その時ふと、寝苦しそうにするアルマが、これまでずっと髪を結ったままであることが気になった。
「アルマ、髪、苦しくない?」
呼ばれたアルマは弱々しい笑みを浮かべ、少しだけ頷いて見せた。それを見るなり、神楽夜は自分の部屋から櫛を持ってきて、上体を起こしたアルマのうしろに腰かけた。
背中のなかほどまで伸びた赤毛が一本の三つ編みになっている。絡まないよう少しずつ解くうち、神楽夜はあることに気づいた。
(あれ、白髪)
髪色に濃淡があるものとはじめは思ったが、よく目を凝らせば色が抜けていた。それも数本ではない。尋常ではない量である。
神楽夜が手の動きを鈍くしたことでアルマは察した。
「染め、てるの……」
乱れた呼吸でつらそうに言う彼女に、
「無理にしゃべらなくていいよ」
と神楽夜は、肩を上下させるその背中を優しく撫でる。けれどアルマは、
「ジックと、同じに、したくて」
赤にしたのだと続けた。
それは、彼女なりの証であった。
「私、うまく、生まれて、これな、くて。髪が、ね、白かったの」
夫婦を名乗りながらも、彼女とジックとの間にはそれを証明するものがない。取り交わす指輪はおろか、婚姻を届け出る紙さえも。形あるものはなにも、彼女ら夫婦の間にはないのである。
その果てにたどり着いたのが、この赤い髪だった。
「私は、もとの髪が、好きじゃ、なかった。だから、染めたの。ジックと、同じ色に……。ずっと一緒に、生きたいって」
アルマは服の胸元をぎゅっと握り締め、浅い呼吸を続ける。そしてかすかに震える声で、まるで伏して許しを乞うように、続けた。
「でもなにも、残して、あげられなかった。私のせいで、ジックは……独りに、なる」
子も生せなかった。人間の形をした違うものである彼女には、その機能が与えられていなかった。
神楽夜に背を向けたまま、アルマはただ「ごめん、ごめん」とすすり泣く。
彼女の小さい背中に、神楽夜はかけられる言葉を探した。その背にかかる赤毛は白髪が混じって、どこか甘い色合いになっている。
「綺麗な色……」
神楽夜は思ったままを口にした。
嗚咽に沈むアルマは背を震わせる。ありがとう、と繰り返しつぶやきながら。
神楽夜は心の内で「大丈夫」とひたすら唱え、その背を撫で続けた。
だが、無情にもその時は訪れる。
「アルマ!」
彼女は激しく咳き込んだ挙句、ついに喀血した。
なにがアルマ・ブレイズを蝕んでいるのか。当惑し、なすすべなくベッドから腰を上げた神楽夜の前で、アルマはたちまち仰向けになると己の胸元を掻きむしるように苦しんだ。
咳をするたびに体を跳ねさせ、喘鳴がし、彼女の口元に朱が飛び散る。
(まずい……!)
手に負えぬと判断した神楽夜は、シーカーを呼びに行こうと踵を返した。
その矢先、アルマは途端に静かになった。
「……アルマ?」
振り向けば、力の限り閉じられていた眼は見張り、口は陸に上がった魚のようにぱくぱくと、声にならぬ声を上げている。
それがゆっくりと――止まった。
「嘘」
神楽夜は思わずあとずさった。それを感知し、背にした部屋の扉が横へと滑り開く。
と、彼女は背後にひとけを感じ、はたと振り返った。
「サク……?」
昏睡していたはずの弟は、微動だにしない真顔をたたえ、そこにいた。
弟はその顔のまま「プラハ」とひと言口にする。
「なに……?」
神楽夜とすれば怪訝にならざるを得ない。しかし、そんな姉などまるで見えていないかのように、
「プラハの教会に、アービターがいる」
と、弟は淡々と続けた。
「そ、そんなことよりアルマが!」
神楽夜は取り乱して声を荒げるが、弟はそれすらも意に介さない。
遊んでいる時間はない。神楽夜は立ち尽くす弟の脇をすり抜けて通路へ飛び出し、左手にある階段を目指して駆けた。
そこへ、ちょうど下層からジックが姿を見せる。
「ジック!」
神楽夜の切迫した様子に、ジックは瞬時に状況を察した。薬が得られず消沈していた顔を焦りに歪ませると、猛然と階段を駆け上がる。
神楽夜はそれを待って部屋へ身を翻した。
だが、その足は突として止まる。
「ア、ルマ……」
そう驚きの声を漏らしたのは神楽夜だ。
扉が開いたままの部屋の前には、こちらに体を向けて立つ朔夜がいる。
そしてその前を横切って、アルマ・ブレイズは部屋から確かな足取りでふたりの前に現れた。
解かれた腰のあたりまである赤毛が揺れる。
「おかえり、ジック」
彼女は口元に自身の血痕を残したまま、はっきりとした声量でそう笑った。




