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第十八話「零れゆく命」⑭

 地響きを伴う爆音が遠のき、夜が静けさを取り戻した頃。

「ぅ……」

 イネッサは、またも冷たい瓦礫の上で意識を取り戻した。

 手探りでその身を支えて上体を起こすが、それだけで全身は燃えるような鈍痛に苛まれる。だが、光を失った彼女には状況を知るすべがない。怪我の具合も、自分がどこにいるのかも、わからない。

 ただ、この痛みは生きている証だ。感覚だけではあるが、腕も足もついている。あの高さから落ちてよく助かったものだ。そう僥倖を噛み締めていると、

「ん……?」

 すぐそばで動物のものらしき息遣いを感じ、彼女は怪訝に眉をひそめた。

 気配をたどり手を伸ばせば、清らかな水の流れが指に触れる。それで彼女ははたと気づき、

「お前……」

 と、穏やかに呼びかけた。

 彼女を包むようにとぐろを巻いた水龍は、己が主の無事を見届けると緩やかに頭を垂れ、ただの水へと還っていく。

 その優しさに、

「ありがとう」

 と言葉を手向けると、彼女は見えぬ星空へ顔を持ち上げた。

 失ったものは多かったが、これでようやく、前へ進める。

 嘘のように静やかな夜風を吸い込むたび、そんな万感の思いが溢れ出そうになるが、いまはまだやり残していることがある。待たせている九垓を迎えに行かねばならない。

 果たして、失った視力を魔術で補えるかは疑問だが、試す価値はある。

 イネッサはいま一度深く呼吸をすると、痛む体に顔をしかめつつ立ち上がり、その手に三叉の槍を顕現させた。

 と、その直後。

 絞り出すような短い呻きとともに、血飛沫が夜天に舞った。

 次いで、三叉の槍が地面を転がる金属音がする。

 当然ながら彼女には、自分の身に起きたことがまったくわからなかった。わかるのは、無数の固い異物に下から体を貫かれ、足がつけられないという事実だけである。

 はじめこそ感じた衝撃や、咄嗟に身を離したくなるほどの「冷たい」という錯覚は、いまや烈々たる激痛に変わっている。

「な、ガッ……んで……」

 彼女は吐き出す血潮に溺れながら、やっとのことで疑問を口にした。

 修道女を針のむしろのごとく貫く水銀色の(とげ)は、地面に落ちたあの異形の破片から伸びている。それらが一斉に抜かれ、イネッサの体はまるで人形のように転がった。

 しかし、まだ息がある。

 水銀色の金属片たちはたちまち液状化すると、横たわる彼女のそばで寄り集まり、上へと伸び上がった。

「切り札というのは取っておくものだ――。イネッサ……イヴァーノヴナ・イリューシナ」

 そうおどろおどろしく現れたグラディアは、もはやヒトの形を満足に取ることも叶わない様子で、水銀色の全身から無数の触手を伸ばしだす。

 その先端が鋭利な刃となってイネッサへ向けられた時――。

 異形の横から何者かの影が疾風のごとく跳び込んだ。

「んぬぐぅッ!?」

 間髪入れず加わった衝撃に、グラディアは出来損ないの顔を横へねじ向ける。

 と――。

「ハ……。そりゃ、こっちの台詞だ」

 三叉の槍を左手に、重心のすべてをかけて体当たりする恰好で、李九垓は嘆息を交えて不敵に笑った。

「――マージナルがァアアッ!!」

 異形は烈火のごとく怒号を張り上げたが最後、槍から広がった青白い炎に全身を焼かれ、灰塵に帰した。

 九垓は槍を捨て置き、横たわるイネッサへ歩み寄る。そしてそばに腰を下ろし、

「おい……!」

 と片腕でその身を抱き起せば、彼女は焦点の合わない目を空に向けたまま、真っ赤に染まった口元に薄っすらと笑みを浮かべた。

「ク……ガ、イ」

「しゃべんな、もう。――お前は、よくやった」

 この男にしては珍しく素直な称賛に、イネッサも悪い気はしない。

 そう、よくやった。駆け抜けたのだ。ここに行き着く運命だったのだとしても、自分は自らの意思で立ち、進み、生き抜いた。

 それだけで――。

(……ああ、でも)

 まだ生きて、いたかった。

 父母と歩いた巡礼の道。母が出奔した悲しみの日。父と過ごした孤独な毎日。

(どれも、私にとっての……忘れ得ぬ日々)

 ――あのなあ。そんな顔でいられたらカビ生えちまうって。

 不意に聞こえた男の声にはたと我に返ったイネッサは、戸惑いの色を浮かべながら周囲を見回した。

 するとそこは、いまや懐かしくもあるヴェントゥスのブリッジである。

「どうして……」

 右隣りには剛三郎が座り、その前にある操縦席にはマシューが座し、ふたりともこちらに柔らかな笑みを向けている。

 左へ首をねじ向ければ、足を組んだレジーナが退屈そうに外を眺め、そこからうしろへ視線を流せば、ブレイズ夫妻と神楽夜たち姉弟がいる。

「みんな……」

 イネッサは困惑に眉根を寄せた。

 彼らと寝食をともにしたことも、夜食の鍋を焦がしたことも、もう過ぎ去ったことである。これは夢だ。幻でしかない。

 けれど。

 ずっとここにいられたなら。そう彼女は願うあまり、哀しげに渋面を伏せた。

 と、その横を誰かが通り過ぎる。刹那、イネッサははっとしてその者を呼び止めた。

「クガイさん!」

 呼ばれた男は出入口へ向かう足をぴたりと止め、

「――あ?」

 と、いつものぶっきらぼうさで顔をわずかに横へ向ける。

 その背中に、

「私――」

 と言ったきり、イネッサは口をつぐんだ。

 なにを伝えるべきなのか。言いたいことはたくさんあったはずである。だのに、この期に及んで言葉に詰まるとは。

 そんな彼女の心を見透かしたように、

「ほんと、いけ好かねえヤツだったよ、お前」

 九垓は背を向けたままそう言った。

 その言にイネッサはかすかに顔をむっとさせると、

「……私もです。本当に」

 淡泊にもそう返した。

 それが面白かったのか、九垓は鼻で笑う。そして、

「――じゃあな」

 気の利いた言葉ひとつなく、ブリッジをあとにしようとする。

 言わなければいけないことがある。だがもはや、それは叶うことはない。

 だから――。

「ありがとう」

 イネッサは逡巡した挙句に、そのひと言を送った。

 それが意外だったわけではない。むしろこの女ならそう言うだろうと思っていた。けれど九垓は小さく息を呑み、

「ハ――そりゃ、こっちの台詞だ」

 光に消えてゆくその最期まで、彼女に振り返ることはなかった。

 視界を覆いだす温かな光に、懐かしきヴェントゥスのひと幕は消え、ひとりになる。

 そこでようやく彼女は、

「私は――」

 と微笑みながら、涙をこぼした。


 九垓は静かになったイネッサを抱きしめると、祈るように頭を垂れ、込み上げるものを噛み殺した。

 その脳裏をよぎるのは、父の遺骸に祈りを捧げていた彼女の背中である。

 自分にできることは、これくらいしかない。

 きっと、彼女もそうだったのだろう。

「ったく……」

 九垓はイネッサの顔を眺めて微笑み、その身を横たえると、虚ろに開かれた瞳を閉じてやり、自分も同じく地べたに寝そべった。

 もう間もなく、彼女がかけた魔術も解ける。生命力(いのち)を分け与える癒しの(わざ)も、こう傷が深くては、結果を先延ばしにするだけに過ぎないらしい。

 しかし、そのおかげで一矢報いることができた。この女がそこまで織り込んだうえで決戦に臨んだのかは知れないが、もしそうだとしたら、実に用意周到な策である。

 男はそんなことを考えながら、仰向けでいるイネッサの横顔を、満ち足りた顔で見つめた。

「来世なんざ、信じちゃいないが……」

 そう力なくつぶやくうちにも、男の右肩からはどくどくと血潮が滝を作りはじめる。

 それでも男は彼女の亡骸に寄り添ったまま、

「幸せに、なれよ……イネッサ」

 と、もう覚めることはない深い眠りへと落ちていった。

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