葉季と戒という男
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未明。
「葉季、来てくれてありがとう。申し訳ない」
「よいよい! さぁ、早く出発しよう」
まだ辺りは暗い。我々が普段いるのは国の中心部である中央だが、外れに行けば行くほど、村や町は痩せ細っていく。
政で如何に変えていけるかと思っても、現地を見て現地の悪さを知らない限り意味がない。
何れ長となるのであれば、それぞれの村や町を知らねばならない。守るべき対象として。側近が居ようと居まいと、国の中である限り自分が守る側にいて、足を運ばねばならぬのだと、そう自分に言い聞かせてきた。
ただ、本当はわかっている。これらの政を理由に、側近を定める事から逃げていることも。だからこそ高能は怒っていたのだということも。
「……お主は、昔から真面目であったからの。皆まで聞かずとも、わかっておるよ。高能とてわかっておろう。あやつはそういうやつだ」
葉季は後ろを歩く私の考えていることがわかっているのか否か、いつもと同じように柔らかい口調で話しかけてくる。
私は静かに頷き、前に視線を向ける。彼がこちらを向かないまま、歩き続けてくれることが有り難かった。
しばらく歩き続け、空も白んできた頃、おもむろに葉季が口を開いた。
「お主は、側近を置きたくないのか?」
核心に近い言葉をかけられて、思わず息が出来なくなるような感覚に陥った。喉の奥で息が詰まって声も何も出てこない。気が付かないうちに、歩みも止まっていた。
「まあ、わしから見えるに、側近を置きたくないというよりも、大切な存在をつくりたくないように見えての。少し心配しておる。またいつ敵に相見えるかわからぬ故……」
どんな顔をしていいのかわからない。いや、今どんな顔になっているかわからない。先を歩く葉季が振り返り、少し目を見開く。思わず顔を伏せると、足音でこちらに向かってきているのがわかった。
やがて視界に映る彼のつま先。
「……すまぬ、踏み込みすぎたな。先日の伯父上のことがあって、まだわしの気も立っているのかもしれぬ」
目の前で立ち止まり、温かい手が頬を拭う。いつの間にか私の頬は濡れていたらしい。
「……あ」
「わしは昔から、お主の涙にめっぽう弱いようだ」
「いや、これは」
何か言わないと。
中々言葉が見つからず何も言えない。そうしている間にも頬に置かれた彼の手を濡らし続けた。
静かに頬を撫で、降りていく温度が少しだけ胸を締め付けた。
「……そうだ、少し休憩するか。疲れたであろう。もうしばらく移動せねばなるまいし、少し休むとしよう。そこに掛けておれ、少し辺りを見てくる。戒、朱己の傍を離れるなよ」
御意。と言って無言で佇むこの男は、呂戒と言って、葉季の今の側近だ。葉季は婚約者だった側近が敵との戦闘によって亡くなったあと、半年ほど喪に服しその後すぐに側近を置いた。
この側近は、口数こそ多くはないが、物事を一線引いたところから冷静に見ることに長けていて、戦法を使って遊ぶ将棋のようなものが得意らしく、葉季とは気が合うようだ。
葉季は一体、どうやって彼を見つけたのだろう。
彼を横目で見ていると、不意に目が合った。
「……私の顔に、何か着いておりますか?」
しまった、見すぎた。
咄嗟に目を逸らす。
「不躾に、すまない。……葉季とは、どこで知り合ったのか聞いても?」
少しの沈黙の後、顔色を変えずに男は話始めてくれた。
「……葉季様は、私が東の果ての村で、村長に将棋で勝ってしまった故に怒りを買い、危うく処刑されそうになっていたところを助けて頂いたのです」
なんだそれは、と口から出そうになったのを、手で口を塞いで止めた。そんなことをする村長がいるのかとは驚きだ。公私混同し過ぎだ。
男はふ、と少し笑い続けた。
「そんなことで、と思われたことでしょう。実際、そうなのです。呆れる話で、今までにも似たような理由で村長の気分を害し処刑された者は少なくありません」
口から出なかっただけで顔に出てしまっていた、と少し反省しながら話に耳を傾ける。
「私の父も村長に処刑されました。ずっと、村の住人たちからは罪人の子といじめられていましたから、父のことを恨んでもいました。しかし、母が亡くなる寸前に教えてくれたのです。村長の気分を害したからだと」
表情こそそのままだが、座っている私の目線の先にある彼の手は力が籠もっていた。
「そして、それが真実かどうか確かめるべく、私は村長に将棋を指して頂いたのです。そして結果はその通りだった。家族も失い、この命さえも惜しくはない、真実がわかって良かったと思い甘んじて処刑を受けようと思っていた矢先、葉季様が現れたのです」
なんて都合のいい、最初からわかっていたかのような。いや、あり得る。葉季とはそう言う男だ。
「「公私混同している村長よ、わしは中央に住む五家の一人、二条葉季。お主の悪事を、そのまま長に伝えてもよいが、どうであろう、その男をわしによこしてはくれぬか。さすれば今までの悪事は報告せん。しかし、今後同じような悪事を働く場合には……即刻報告の後処分を申し伝える故、覚悟しておけ」と」
なるほど。だから父様にも私にも報告がなかったのか。十二祭冠には多少処罰の権限を委譲しており、それぞれの裁量の中で任せている部分があるが、こういう使い方をしているのかと妙に納得した。
そして男は少し遠くを見ながら言った。
「おかげであの村では、村長の公私混同政治は無くなりましたし、私は葉季様にお仕えし、日々充実した生活を送れておりますので、ご安心ください。……少々、喋りすぎたかもしれません」
男の目線の先には、少し遠くの木にもたれかかって、こちらを見ている彼の主の姿があった。
「戒! 全く、その話は、しばし朱己には隠しておくと言ったであろう!」
腕を組みながら悪態をつく主の姿を見て、彼は少し笑いながら謝っていた。
「朱己様には、お話して問題ないと判断しましたので……お話しようかと思いまして」
葉季は少しムスッとしていたが、しばらくしてため息をつき頭をかきはじめる。
「壮透殿には言うつもりはなかったが、朱己にはいずれ言うつもりだった故、良しとしよう。今回だけだぞ」
「ありがとうございます」
「私が聞いたのだから、戒は悪くない。葉季、聞いてしまってすまない」
戒は静かに首を振り、僅かに微笑んだ。葉季もまた笑いながら手を振った。
「朱己、気にするな、わしは怒っておらんし、戒は、わしが本当に言わんでほしいことを言うような愚かな男ではないよ」
葉季が自分より拳三つ分ほど縦に大きい体の男を見上げながら笑う。戒もまた静かに頷く姿を見て、この二人の信頼関係を垣間見た気がした。
「……朱己、差し出がましいかもしれんが、信頼のおける側近が必要だと、わしは思っておる。心身ともにな」
少し真面目な顔をした彼の顔が、微かに照らされていく。先程よりも空は明るくなり、日の出を知らせた。
「……そうね」
見つけないと、そう続けようとした私の言葉を葉季は遮った。
「無理にそう思え、と言っておるのではないから、急く必要はない。ただ、自分の心身にゆとりが無ければ、見えないこともある。見落とすこともある。それが時には、命取りになることもある」
「ええ」
葉季は私の頭に手を置くと、軽く髪を撫でた。まるで慈しむように。
見上げると、彼の後ろから朝日が昇る。照らされた千草色の髪は、僅かに揺れた。
「直ぐにとは言わぬから、自分の心身を、整理してみてもいいのではないか。……すまぬ、さっきはそう言いたかったのだが、切り出し方が悪かった」
「わかってる」
「できることなら、わしが常にそばにいて守ってやれたらいいのだが」
申し訳なさそうな顔をする彼を見て、首を振る。
「ありがとう、葉季。そして戒も、ありがとう」
進まねばならぬのは自分自身。
覚悟を決めなければ。
「そろそろ行きましょう。南の村は、東より荒れているし、辿り着くまでもう少し時間がかかるわ」
そう言って立ち上がり、二人とともに歩き出す。
南の村まで、もう少し。