彼の部屋で
しばらく歩くと立派なアパート風の小綺麗な建物が見えてきた。思わず
「他にも人がいるんですね。」
と呟いた。
森さんが建物の扉を開けるとカウンターに若い女性が座っていた。ぼくたちが入ってきた途端に
「お!おけぇり。おめさま随分と長ぇこど外さいだなぁ。皆とっくにけぇってるで?」
彼女は東北訛りのある強い口調でぱしぱしと机を叩きながら言った。どうやら帰りが遅い事を心配していたらしく、頬を膨らませてぷりぷり怒っていた。
「すまん。こいつの面倒見てたもんでな。」
森さんがニヤニヤしながらぼくの事を指差した。
「うん?知らねぇ顔だなぁ。何処のお人だ?」
「ま、色々訳ありでよ。あんまり聞かねぇでやってくれ。困ってたからとりあえず連れてきた。」
「はぁ。そりゃまた……難儀だべなぁ。あたしは夢って言うんす。ここのこんしぇるじゅだべさ。何か困ったことさあったらあたしに喋ってくれな。あ、蜜柑食べるか?お菓子とかもあるけよ。持っていったんせ。ホレホレ。」
と、蜜柑やお煎餅などをカウンターの下から取り出し、沢山持たせてくれた。ぼくは申し訳無いからと断ろうとしたが、夢さんは持っていけと譲らない。森さんも笑いながら言う。
「貰っとけ貰っとけ。そのうち何にもくれなくなっから。」
とうとう2人に押し切られる形で受け取った。
エレベーターで3階まで上がり、部屋に着いた。
一歩入ると中は生活感に溢れた普通の部屋だった。
「散らかってるけどよ。適当な所に座っとけよ。茶でも持ってくるから。」
「ありがとうございます。失礼します。」
彼が台所でお湯を沸かしている音を聞きながら、何となく部屋を見廻した。目の前のローテーブルにはティッシュやリモコンがあり、その下に転がるカップ麺。TV台の上には細々とした小物が乱雑に置かれ、床には漫画雑誌が無造作に積まれている。壁にはバッグと上着が掛かっていた。ごくありふれた男の一人暮らしといった部屋にぼくはとても心地が良かった。
「……何だ?変な顔して……」
森さんがお茶を手に怪訝な顔をしてやってきた。どうやら全て顔に出ていたらしい。慌てて
「何でも無いです。」
と、彼が持ってきた淹れたての緑茶をすすった。ふぅん。と彼も座った。そして軽く咳払いをし、切り出した。
「で?自分の名前が分かんねぇって?どういう事だ?」
「……名前とか自分に関わる情報が頭から抜け落ちたようで、全く思い出せないんです。」
「ふーん?記憶がない……か。ん?じゃあ、なんで説明会に居たんだ?」
「それは……。気づいたらこの世界に居て……どうしていいかわかんなくて……それでたまたま目に入ったあの建物に入ったら、新入社員と間違えられて成り行きであそこに居ました。」
「そうか。そもそもこの場所にいたこと自体、お前さんにとって不測の事態だったのか。大変だったな。」
初めてぼくの不安と苦労を他人に話せた、そして理解してくれた事に胸がいっぱいになった。暗闇に出口を見つけたような気がして安堵し、それから聞きたかったことを聞いた。
「ここはどのような場所なんですか?」
森さんは少し言いにくそうに
「生きても死んでもねぇ奴が行き着く場所だよ。」
「と、いうと……?」
「まぁ、ピンと来ねぇよな。うーん。何て言ったらいいかなぁ。」
腕を組みながら考える森さんに恐る恐る聞いた。
「……もしかして森さんもそうなんですか?」
「ん?おうよ。俺は2月に交通事故でな。信号無視で突っ込んできた車に撥ねられてな。真っ二つだよ。体はズタズタで血とかがその辺に飛び散ってた。そんなんで生きてる訳なんか無いんだけどな。俺は死んでねぇって強く思い込み過ぎたみてぇで。地縛霊みたくなっちまって、ずっと撥ねられた交差点に突っ立って人の行き交うのを見てた。そしたらある日突然、俺に話しかけてくるスーツの変な奴が来てスカウトされたっちゅー訳さ。」
森さんは自分で言ったスカウトという文言に大笑いしながら話した。ぼくは反応に困りつつ話を進めた。
「ここにいる方はそういう方多いんですか。」
「みてぇだな。大半が元地縛霊だ。詳しい基準なんかは知らねぇが、残り寿命とかで決まるらしい。人によって変わるんだが、1回の人生で決められた寿命があってよ。んで、それを全うする前に死んだ奴はここでしばらく働いてから次いくって。子供とかはここをすっ飛ばして次々いくみてぇだ。」
「詳しいんですね。」
「いやぁ。わけわかんねーことすんのはごめんだからよ。スーツの奴に色々聞いたんだ。
あ、そいつは地縛霊じゃねぇってさ。ベテランとかは結構そういう奴多いらしいぜ。もしかしてお前さんもそうなんじゃないか?」
確かに死んだという心当たりがない。いや。記憶は無いのだがそんな気がする。自縛霊ではない。ではぼくは何故ここにいるのだろう。
「にしても地縛霊でも何でも記憶はあるはずなんだがなぁ。」
しばらく2人とも無言でローテーブルの一点を見つめていた。
ふと森さんが思い立った様に言った。
「そういえばなんか手掛かりになるよーなもんとか持ってないか?携帯とか手帳とか。」
そうか。スマホがあった。はっとしてポケットから取り出す。
だが、写真や自分のSNSなどには旅行写真が多く、あまり有益な情報はなかった。うーんと唸っていると彼は感心した様に言った。
「お前さん旅好きなんだなぁ。まさかこんなとこまで観光しに来るとは思わなかったか。」
「そうですね。」
「……すまん。まぁなんだ、とりあえず今日は遅いし泊まっていけ。行くアテもないだろ?」
「色々とすみません。助かります。」
「いいってことよ。後で夢にも話通しておくわ。それより飯にしようぜ。」
「ありがとうございます。何か手伝います。」
「いや。座っとけ。お前さん今日1日で疲れたろ。休んどけ。それに手伝ってもらうほど大したもんはねぇんだ。」
森さんは立ち上がりながらそう言うと台所へ向かった。目まぐるしく過ぎてしまったので意識していなかったが、言われてみれば今日は貰った水しか口にしていない。そう思うと途端にお腹が減ってきた。10分程で彼がチャーハンを2つ持ってきた。
「俺の特製チャーハンだぜ。」
「わぁ!美味しそうですね。いただきます。」
ぼくがタマゴたっぷりで懐かしい味のチャーハンを黙々と食べていると森さんは
「そういえばお前さんの呼び名でも決めておくか。」
「あ……是非!」
もしかしたら犬や猫は名前をつけて貰ったらこんな気分になっているのかも知れない。それくらいこの提案は嬉しかった。人間には必ず名前がある。それはその人だけを呼び表す言葉だ。そして名前を呼ぶ事はコミュニケーションの一環である。ぼくは今日1日、代名詞で呼ばれていたため、会う人会う人になんとなく壁を感じて勝手に疎外感を覚えていた。それが不安や孤独感に繋がっていたのかもしれないと何処か他人事のようにぼんやりと考えながら彼を見つめた。少し考えた後
「つばさ!つばさとかどうだ?」
と笑顔で言った。
「つばさ……!」
「あ、嫌か?」
「いえ!とても良いと思います。嬉しいです!」
ぼくが素敵な名前を貰ったと喜んでいると彼は少し照れつつ手を差し伸べた。
「じゃあ。つばさ。改めてよろしくな。」