名前が分からないんです。
次々と新しい情報をねじ込まれ、感情が追いつかず、椅子の上で呆けたまま固まっていると
「オイ。………オイ大丈夫か?ってお前さん顔色がわりぃな!?どうかしたのか?」
1つ隣に座っていた男が、心配そうにぼくの顔を覗き込みながら話しかけて来た。咄嗟にぼくは
「…大丈夫…です。」
と答えた。
「そんな顔で言われてもなぁ。そうだ。これ(水)飲むか。って……そんなに警戒するなよ。開けてねぇから。」
男に言われるがまま水を飲んだ。乾いた体に染み渡る。そういえばここに来てからずっと飲まず食わずだったな。そう思いながら一気に飲み干した。
「おー。いい飲みっぷりだな。もしかして喉乾いてたのか。」
「すみません……一口のつもりが殆ど飲んでしまいました。」
「別に構わねぇよ。水の1本や2本くらい。それよりさっき、すげぇ顔してたけどどうした?体調でも悪いのか?」
「あ、いえ体調じゃ無いんですけど……」
このあとなんと言えば良いのか分からず、口籠っていると教室の前のスピーカーから放送が入り、残っている者は早く退室してください。と声が聞こえた。周りを見渡すと既に残っているのはぼく達2人だけだった。他の皆はとっくにいないらしい。
「とりあえず出るか。な?追い出されちまう。」
ぼくは頷いて教室を出た。男は前から廻って行くつもりであったようで、さっさと出ていったぼくに驚きながら問いかけてきた。
「あ?紙出して行かねぇの?」
「……ハイ。」
「希望の部が決められなかったのか?」
「……」
「名前だけでも書いて出しときゃいい。」
「そう……ですね。そうします。」
無論、新入社員でも何でもないのだが、彼の言う通り紙に名前を書こうとした。しかし、ここで明らかな異常に気付いた。
「………!」
「あん?どうした。」
「な、名前が……!名前がっ!」
そう。名前。自分の名前が思い出せないのだ。いや、もっと正確には自分に関する記憶が無い。
何故?自分の家族や友達は思い出せる。住んでいた街の事も。だが、自分の名前や年齢といったパーソナルな情報が思い出せない。ぼくは一体どうしたんだ。
「とりあえず落ち着け。そこ座れ?な?」
彼は突然豹変したぼくに驚いた素振りもみせず、冷静であった。
そして隣に座りよしよしと肩をさすってくれた。しばらくの沈黙が2人を包んだ。だんだんとぼくの昂ぶった感情も落ち着いてきた。
「落ち着いたか?そうか。そんで?名前がどうした?」
「………………名前が分からないんです。」
ぼくは絞り出す様に言った。本当は言いたく無かった。声に出してしまったら確定事項になってしまうような気がして。そして、彼に呆れられ、見放される事を恐れていた。普通に考えて、初対面の相手が急に自分の名前が思い出せないなどと宣っていたら意味が分からないし、ぼくなら少し怖い。俯いたまま彼の言葉を待っていた。しかし、次に出てきたのは意外な提案だった。
「とりあえずここだとアレだし。俺んち来るか。」
「えっ。」
驚いて顔をあげると彼は身じろぎもせず、真っ直ぐぼくを見つめていた。
鋭く優しい目だった。
「なんだよ。そんなに男の部屋は嫌だってか?」
「いや、そういうことじゃ無いですけど……」
「じゃ。決まりだな。」
廊下を抜け、最初にぼくが入ってきた入口から出てきた。長時間中に居たが相変わらず外は明るいままだ。
「この辺にはさっきの死後総合事務の建物とオレらが住んでる寮くらいしかねーのよ。街の方行けばもっと栄えてるんだけどな。」
「街?街があるんですか?」
ぼくの目には街があるようには見えない。ただ、ぼんやりと彼の姿を追った。彼はふと、ぼくを見て思い出した様に
「俺は森って言うんだ。よろしくな。」
「あっ。はい。よろしくお願いします……」
このタイミングでの自己紹介に少し戸惑った。いると森さんはそういえば挨拶してねぇなと思ってよと言って豪快に笑っていた。ぼくもその清々しい笑いに釣られて微笑んだ。
書き溜めていた分です。
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