4話:橋本駅か相模原駅に電車が来るかも?
それを見て、平然と恵さんが、子供が出来たのだから、しっかり稼いでよと、全く現実的なことを言うのを聞いて女性は現実的で強い動物なんだと再確認した。この放送を聞いた後、息子の5月人形を相模原に買いに出かけて小さめの5月人形を買いアパートの今に飾った。それを珍しそうに寛一が眺めてる姿を写真に撮った。1982年6月20日、長男・寛一の初めての誕生日を相模原の恵さんの実家で盛大に開き、大きなケーキと鳥の丸焼きを買って行った。
恵さんの御両親と兄夫婦、甘太の姉、先輩でお世話になってる茂田先輩の6人でケーキを分けて、鶏肉を分け合って祝杯をあげた。そして、あろう事は、この1週間後に、再び、恵さんの2度目の妊娠が判明し、思わず、お母さんが、甘太さんて、忙しそうなのに以外と元気なのねと言い、大笑いしたそうだ。出産予定日は1982年12月24日、もしかしたらキリストと同じ誕生日と言うと恵さんが、そうなると私がマリア様と言って屈託なく笑った。
その後も甘太は、姉の旅館の買い出しに行ったり津久井湖のボート管理やボートの修理を忙しくこなしていた。秋になると、集金や釣りの指導、船頭さんとして,釣り船を操って、釣り場まで釣り客を連れて行く仕事と釣りの入漁料の集金をしていた。また10月下旬以降になると、津久井や相模湖周辺のの山に入り、天然きのこを探しに来る旅人を案内する仕事をしていた。都会から来るお客さんは、足腰が弱くて15分もすると一休みして時間がかかった。
そのため、天然きのこ狩りの予定時間が時間が大幅に超過した。麓におりると暗くなり始め、橋本、相模湖、高尾駅に着く頃には、真っ暗になる日も、しばしばあった。そうして、夏が過ぎ、秋が過ぎ、12月を迎え、12月22日、奥さんの恵さんが産気づき近くの産婦人科に入院した。
1982年12月24日の朝、元気な女の子を出産。出産は、特に問題なく、初産の時に比べ、比較的楽だったようだ。名前を故郷を忘れないで欲しいと青山里子と名付けた。目がくりっとした美人さんに生まれた。泣き声が甲高く、その泣き声を聞いた。恵さんのおかあさんが、きっと里子は世界的なソプラノ歌手になるかもよと言った。もし、そうなったら、恵、一生に歌を聴きに行こうねと、真面目な顔で言った。その声に驚いて里子が甲高い大声で泣いて大変だった。そして甘太は、恵さんに大目玉を食った。
それを見ていた寛一が手をたたいたので、大笑いとなった。やがて寒さが和らぎ、3月を迎えると梅がほころんで、やがて花を咲かせ暖かい季節の到来を予感察させ、4月になり桜が咲き始めると本格的な春となった。その話を奥さんの恵さんに伝えると、新しい冷蔵、洗濯機、テレビ、ストーブ、その他の買いかリコールが巻き起こり、姉の小型トラックを借りて買って自宅に運んだ。