3話:甘太の結婚
1976年12月に580円で、トヨタ株が15%分割して13800株と株数が増えいたが、それを全部売り税金22万円で残金が750万円となり普通預金から50万円送金し残金を800万円にした。1978年2月に伊藤忠商事を165円で45000株買い、残金が57万円となった。1979年1月に480円で売り、税金57万円となり残金が2046万円となった。
1979年2月にNEC2300円で8000株を1840万円で買い残金が194万円となった。1979年4月、木下恵さんに甘太が金はできたと言いプロポーズした。すぐその足で八王子の結婚式場に行き1980年6月20日11時からと決めてきて恵さんが父の隆三さんに知らせた。急いで結婚式の招待状を近くに住む親戚に出し甘太は、友人も含めて10人に招待状を送り、総勢50人の結婚式となった。
6月20日は梅雨であいにくの天気にもかかわらず、来ていただき7人で、文金高島田「ぶんきんたかしまだ」の恵さんを見て、きれいとと言い、女性達が次々に一緒に記念写真を撮った。甘太は紋付き袴で純和風の結婚式をした。その後、12時から披露宴が始まり挨拶と歌などが披露され滞りなく、結婚式は午後1時半に終了した。
その後、橋本駅前に2DKの月2万円のアパートに住み始めた。実家まで徒歩10分で奥さんの木下恵が実家の呉服屋を手伝った。7月3日に木下洋品店のある橋本と甘太が手伝ってるいる姉の旅館のある津久井の中間地点の城山に3DKのマンションをを月6万円の家賃で借りて住むようになり、恵さんの家財道具を甘太がトラックを借りて新居に運び込んだ。
そして毎朝、恵さんと橋本の実家・木下呉服店に送り夜6時に迎えに行く様になった。普段、甘太は姉の旅館に待機していて仕事が入ると旅館の小型トラックで買い物に行ったり、お客さんを釣り場に送迎したり、釣りに付き合ったりして用事がない時は旅館にいるようにしていた。結婚して半年がたった12月19日に恵さんの妊娠がわかったと甘太に連絡が入り、旅館に事情を伝え木下呉服店に行くと、恵さんの御両親がおめでとうと言ってくれた。
予定日は1982年6月20日だそうよと、恵さんのお母さんが教えてくれた。やがて1981年が終わり1982年を迎えた。この頃、神奈川県でも特に寒い相模原北部の津久井では路面凍結や雪が降ると坂道で車が立ち往生する事がしばしばあり北国と同じようにスパイクタイヤが流行して甘太の車、旅館の小型トラックにも装着するようになった。冬はアパート室内でも寒いので石油ストーブを3つ買って厳寒期には、弱火でつけて寝る日もあるほどだった。
寒い冬を考えて1月から恵さんを実家で預かってもらう様にお願いした。恵さんのお母さんも、その方が良いと言ってくれた。やがて3月になり、徐々に暖かくなり4月になると恵さんのお腹が目立ってきて動くのが辛いようだった。そして6月18日に産気づいて近くの産婦人科病院に入院し1982年6月20日の朝、男の子を出産し、その後、甘太の長男で寛一と名付けた。
寛一が生まれると仕事が暇な時は、甘太は、奥さんの実家の木下呉服店に行き、寛一の寝顔をうれしそうに眺め、姉の旅館から連絡が入ると車で出かけた。恵さんは、居心地が良いので、そのまま実家にいて秋、冬となり寒さが厳しくなってきたので、この年も実家で年を越し1982年を迎えた。甘太が新年の挨拶に木下呉服店を訪ね近くの神社に奥さんと寛一を連れて初詣でをして家内安全、家族の健康、商売繁盛を祈願して来た。
その後、1982年5月から城山のアパートに恵さんと寛一が帰ってきた。そして、朝、朝食後、アパートを3人で出て、橋本の木下呉服店に通う日々が始まった。この頃、時代は好景気だと感じ、茂田先輩に相談すると同感だと言ってくれた。そして株投資に積極的に出るべきだと考えた。