どうか、僕の手を。
「あなた、私と手を組まない?」
綺麗な唇を、綺麗に歪めてアイリスはそう言った。
アイリスという女は、自分のほしいものを手に入れるためなら手段は選ばないという。
裏でなにをしているのか、様々な噂は聞くがそのどれも聞いているこっちが耳を塞ぎたくなるほど、酷いもので。
そんな、なるべく関わり合いになりたくないと思ってた相手が突然、手を組もうと言ってきたら、警戒するのも当然だろう。
「手を組む?」
「あなた、あの子がほしいのでしょう?」
あの子と言われて、すぐに思い浮かんだのはエリーゼの顔だった。
今まで出逢ったことのないような、どこまでも素直な少女。
まっすぐにこちらの目を見て、思ったことを思ったように言う、清廉できっと誰にも汚されない少女。
「あなたはエリーゼを手に入れて、私はテオ様を手に入れる。最高のシナリオでしょう?」
アイリスの美しい笑みが微かに歪む。
アイリスが僕の幼なじみであるテオに執着しているという噂は何度も耳にしている。
テオの家柄は、アイリスが求めるレベルそのものなのだろう。
「あいにくだけど、僕はテオのことも大切に思っていてね。あの二人が幸せになるなら、それに越したことはないと思っているよ。テオにご執心のきみには悪いけどね」
僕は、自分がテオに敵うと思ったことはない。
彼は、完璧だ。
なんでもできて、誠実で、視野も広い。
エリーゼにテオはぴったりで、テオにもエリーゼがぴったりで。
僕はあの二人の幸せをそばで見ていられればいい。
それで満足だ。
そう思っていた、のに。
「あなたがエリーゼから手を引いたと知ったとき、傷付くのはテオ様じゃないかしら。自分のために、親友が自分の気持ちを押し殺した、なんて。テオ様が知れば、どうなるかしらね?」
アイリスの言葉に一気に冷や水を浴びせられた気になった。
「脅し?」
脅されたことが恐ろしかったわけではない。
自分の中に脅されることを喜んでいる自分を微かに、しかし確かに見つけてしまったからだ。
アイリスの手を拒まずに済む口実ができたと、一瞬でも考えた自分自身が、僕はひどく恐ろしかった。
「私は事実を述べているだけよ。テオ様のためだなんてフリをしてあなた、本当は怖じ気づいているだけでしょう?あなたが逃げるための口実にテオ様の名前を出さないで。不愉快よ」
追い討ちをかけるように、言われた言葉が僕の心を突き刺した。
本当は、僕よりもこの女のほうがよっぽどテオのことを想っているのかもしれない。
目の前に佇むアイリスの瞳はどこまでも澄んで美しくて。
それが、なんだかひどく惨めで。
「まるで、テオのことを本当に愛しているかのような言い方をするんだね。自分以外の人間を道具としてしか見ていないくせに」
我ながら、ひどい言い方をしたと思う。
でも、なんだか無性に誰かを傷付けてしまいたい気分だった。
自分がひどく惨めで、ちっぽけな存在に思えて、目の前のこの女の顔が歪めば少しでも自分のちっぽけさがやわらぐような気がして。
けれどそんなことを考える自分すら浅ましくて、辟易する。
アイリスは、僕の声を聞いてゆったりと微笑んだ。
自信に満ちた強い目を細めて、さもおかしそうに。
「エリーゼがテオ様を愛することはないわ」
アイリスの言葉は、どうしてこうも僕の心を揺さぶるのだろう。
アイリスは、テオと同じだ。
"生" そのものが存在感を持って、そこに佇んでいるような。
「なにそれ。またお得意の裏工作でもしたの?エリーゼに脅しでもかけたのかな?」
僕の口は、はくはくと下らない言葉を吐いたけれど、アイリスはきっとそんなことしないのだろう。
アイリスがそんなことをしなくても、アイリスの言う通りになるのだと僕の本能が囁いていた。
「そんなことどうでもいいわ。あなたに選択肢なんてない。わかるでしょう?」
アイリスは隙のない美しさで微笑む。
彼女の手を取れば、自分が今まで守ってきたものが暴かれてしまうような。
そんな予感が、した。
「まずあなた、エリーゼの前で遊び人ぶるのをやめなさい」
どんな女の子にも声をかけてどんな女の子とも一夜を共にする遊び人。それが僕の噂だ。
もちろんそれは根も葉もない噂だけれど、信じている人は多い。
僕が噂とは正反対の性質を持っていると知っているのはテオぐらいじゃないだろうか。
エリーゼだって、噂を信じている。
「嘘なんでしょう?噂。それなのに、エリーゼの前でむやみやたらと女性に声をかけたりして、見ていて痛々しいわ」
噂を嘘だと断言されたのは初めてだった。
思わずひゅっと息を飲むとまっすぐな瞳が僕を見ていた。
「な、んで……」
火のないところに煙はたたぬと、いろんな人から何度も言われた。
不誠実な態度をとるべきではないとエリーゼに叱られたのは、まだ噂のように振る舞う前の話だ。
エリーゼの前であえてそう振る舞いはじめたのは、もしかしたら当てつけのような気持ちもあったのかもしれない。
「あなたのことは社交パーティーで見かけることがあるけれど、パーティーの外で女性といるところを見たことがないもの。むしろあまり女性を好きではなさそうだわ、あなた」
アイリスの瞳が僕をうつす。
瞳にうつった僕はなんだか泣きそうな顔をしていた。
「まいった……大した観察眼だね」
エリーゼだって、僕を信じてはくれなかった。
子どもみたいだという自覚はある。
でも、僕は、それでも、僕は。
ただ、信じてほしかった。
「エリーゼは誠実な人が好きだからね。テオはぴったりなんだ。今更僕がアピールしたところで勝ち目なんかないんだよ」
言葉にしてみたら、その事実はひどく僕を傷付けた。
むなしくて、悔しくて、情けなくて。
こんな僕が、僕は嫌いで。
「僕が手を引くまでもない。きみはエリーゼがテオを選ぶことはないと言ったけど、エリーゼは権力や脅しやお金には屈しない。選ばれないのは僕のほうだ」
言葉が止まらなかった。
でも、本当はこんなこと言いたくなかった。
誰でもいいから止めてほしかった。
「あなたは誠実だと、私は思うわ」
息を、飲む。
光、みたいだと思った。
アイリスの言葉が、瞳が、僕を突き刺す。
真っ暗な闇の中に、彼女の声が降り注ぐように落ちてくる。
お世辞や慰めなんかじゃない、柔らかくどこか懐かしいような、どこまでもあたたかい声。
どうして。
「きみのことが、わからないな」
わからない。
知らない。
僕は知らない。
こんな、いっそ痛いほどに僕を照らす光を。
僕は、今まで知らなかった。
今まで一切交流がなかったアイリスとの不思議な日々は突然始まった。
どちらからともなく呼び出して、お茶を飲みながら近況報告をしたりして。なんだか友達みたいだ、なんて笑い合う。
アイリスは意外と抜けているところもあって、噂に聞くような極悪非道な振る舞いは欠片も見られなかった。
初めて声をかけられた時はあんなに悪どく見えた笑みも、今ではただただ美しい微笑みだ。
「単純だな、僕も」
呟くと、アイリスはきょとんとした顔でこちらを見た。
その姿が、もはや小動物にも見えてしまうあたり、人間の印象というものは重要な役割を担っている。
「なんでもないよ」
思わず笑うと、アイリスの眉がククッと寄った。
あ、これ、本当に怒ってる。
「話聞いてた?エリーゼの様子はどうなの?って聞いているのだけれど」
エリーゼの、様子。
アイリスの言っていた通りに、エリーゼの前で女の子に声をかけるのをやめた。
けれどまあ、だからといって、なにが変わったわけでもない。
テオとエリーゼと僕で、今まで通り過ごしてるだけだ。
「相変わらずテオと仲良くやってるよ」
あの二人、さっさとくっついてしまえばいいのに、なんてぼんやりと考える。
そしたら、アイリスは泣くだろうか。
泣いちゃったら、どうしよう。
慰めて、それから、それから。
でもアイリスは、きっと、多分、僕の前では泣かない。
「エリーゼとテオ様とあなたと私の4人でお出かけしましょう」
ある日のアイリスは突然そんなことを言った。
「どうして?」
眉間にシワが寄ったのが自分でもわかる。
でも、アイリスの眉間にもシワが寄ってお揃いだな、なんてちょっとだけ嬉しくなった。
「そろそろ本格的に動かないと……」
そうだよね。
早くしないと。
早くしないと、テオをエリーゼに取られちゃうもんね。
「テオとエリーゼには僕が声をかけておくよ」
きっと、アイリスとテオはすぐに意気投合するだろう。
テオはきっとアイリスの噂なんて信じていない。
彼は、いつだって正しい選択をする。
僕と、違って。
僕の誘いにテオは腑に落ちないような顔をしていたけれど、エリーゼが二つ返事で頷いて、4人で庭園に出かけることになった。
アイリスはスマートな動作でテオの隣に並び立ち、ゆったりと花を見ている。
それを後ろから眺めながら、絵になるな、なんてぼんやり考えた。
必然的に僕の隣に並んだエリーゼは、興味深そうにアイリスを眺めていた。
「アイリスさんって、テオのことが好きなのかな」
エリーゼはアイリスの噂を聞いたことがないのだろう。
小さな声で楽しそうに声をかけてくる。
「……どうだろうね」
自分の口から思った以上に低い声が出て、驚いた。
僕がなにかを言う前にエリーゼがテオを呼ぶ。
テオの隣で振り向いたアイリスの目が、僕をうつす。
「私たち、いったん戻ってちょっと休憩するよ」
エリーゼはそう言って笑いながらヒラヒラと手を振った。
「ちょっと歩き疲れちゃった。アイリスさんとテオは先に行ってて。あとでまた落ち合おう」
「それなら4人で戻ろう。アイリスも疲れただろう」
テオの言葉にアイリスが頷こうとするのを遮ってエリーゼが少し大きな声を出す。
「いいのいいの!アイリスさんとテオは、もうちょっと見て回っててよ!こっちのことは全然気にしないで!」
アイリスはなにかを考えるようにしばし瞬きをして、そしてゆったりと笑った。
「テオ様、もしよろしければもう少しまわりませんか?」
「ね!アイリスさんもこう言ってることだし!またあとでね!テオ!」
エリーゼに腕を引かれて歩き出す。
なんだかひどく帰りたいような気になって、静かに息を吐いた。
それからどうにもアイリスたちが気になって後ろを振り返り、後悔した。
テオが優しく微笑んで、アイリスの頭を撫でる。
テオのあんな表情は見たことがなかった。
あんなアイリスの表情だって、見たことがなかった。
アイリスの本当の気持ちを、初めて垣間見たような気さえした。
「……アイリスさんが気になる?」
エリーゼの怖いぐらい静かな声が耳に響く。
なにも言葉にはならなくて、ゆっくりと首を振った。
「最近、女の子に声かけるのやめたよね。……アイリスさんがいるから?」
「違う」
アイリスは、テオが好きで。
僕は……ただの協力者だ。
「好き」
エリーゼが、まっすぐにこっちを見て呟くように僕にそう告げた。
言葉を理解するまでに時間がかかって、無意識にくっと喉が鳴る。
「僕……」
僕も、と言おうとして失敗した。
「僕……僕、は……」
僕は。
「今、誰の顔が思い浮かんだ?」
エリーゼが笑う。
「簡単な、ことだったね」
ぽろり、とエリーゼの目から涙が落ちた。
ハラハラと落ちる涙を拭うこともしないまま、エリーゼはカラカラと笑う。
「ムカつく。私のほうが先に出逢ったのに。私のほうが……」
なんでよ、とエリーゼの唇が動く。
「エリーゼ……」
「アイリスさんはテオが好きなんでしょ」
胸の奥がシクシクと音を立てて、歯を食い縛る。
「……うん」
アイリスとテオが並ぶ姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「……私、もう2番目でもいいよ」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、エリーゼは、らしくないことを言った。
「ごめん、エリーゼ」
僕が首を振ると、エリーゼの顔が歪む。
唇を噛んで、眉根を寄せて。
「アイリスさんとテオの邪魔、するの?」
僕はもう一度、静かに首を振った。
まったく考えなかったと言えば嘘になる。
アイリスに気持ちを告げて、テオと引き離して。
出来るかはわからないけれど、もがいてみる価値はあるんじゃないか、とか。
でも、でもさ。
僕には、そんなことできやしない。
「アイリスさんが幸せならそれでいいって?」
エリーゼの言葉に、何度も、何度も、首を振った。
僕はそんなに綺麗な人間じゃない。
「こわいんだ。信じていたのに、と言われることが」
怖い。
アイリスに失望されることが。
アイリスに軽蔑されることが。
勝手に心変わりして、勝手にアイリスの幸せを奪おうとするなんて、そんな自分をアイリスに知られたくない。
知られては、いけない。
僕の気持ちを、知られてはいけない。
鼻の奥が熱を持って、喉がぶるぶると震えた。
ゆったりと目の縁に溜まった大きな水滴が、ついにぼたりと地面に落ちる。
「僕は、っ」
醜い自分の心に、無理矢理に蓋をする。
いつか、アイリスの幸せを願えるようになりたい。
アイリスが幸せならそれでいいって、胸を張れるような。
アイリスの幸せを、笑って祝えるような。
いつか、いつか。
そんな日が、来ればいい。