2話
エンキが招かれた家は老人、この集落の長老の家だった。そこの一室を借りて集落に三日滞在している。
歓待は初日からずっと続き、日々下に置かない手厚いもてなしを受けていた。
エンキが朝早くベッドから起きるとすぐに女性が来る。実は長老がエンキの身の回りの世話をするために人をつけていた。夜中もずっとエンキの部屋の前に待機しているのだ。数名で交代しているようだが、まるで貴族のような扱いである。
エンキは女性に向けて挨拶する。
「【おはよう】」
「【おはよう】」
エンキがしゃべったあとにエンキの声に似たティアマトの言葉が、女性がしゃべったあとに女性の声に似たニビルの言語が流れる。
これはエンキが左腕につけたウェアラブルデバイスのおかげだ。
ウェアラブルデバイスは計器を利用したデータの収集や通信、作業艇などの遠隔操作など多方面に利用できるコンピューターのことである。
救助が到着するまでティアマト人との交流は続く。彼らと交流するには現地の言語、ティアマト語を習得しなくてはならない。
そのためエンキは翻訳アプリを開発した。ティアマト語の単語と翻訳をデータベースに登録し、相手の音声を拾って、ニビルの言語やティアマト語に翻訳され、合成音声を発する仕組みだ。
もともとニビルでも複数の言語があるためこの手の翻訳アプリが存在し、それを参考にしたものである。
非常に便利な翻訳アプリだが大きな欠点もある。
当然ながらティアマト語は未知の言語であり、データベースに登録された単語も少ない。そのため現時点で翻訳されるのは単語のみであり、ネイティブ並みの流暢な会話はできなかった。
またデータベースに登録された単語は意訳に近く、意味を間違って単語が登録されれば、当然誤って翻訳されてしまう。
もっともこれらの問題は今後アプリを修正したり、会話の回数を重ね、サンプリングを増やしたりすれば大きく改善できる。
翻訳アプリが完成した後、単語を登録するために集落の人に何度も質問している様は、好奇心旺盛な子供が質問を繰り返しているような状態だった。そのことに質問を繰り返す途中でエンキは気づいて恥ずかしくなったが、背に腹は代えられず、今もなお続けている。
今日もエンキは外を歩いて質問を繰り返していた。
集落の人が通りかかる。仕事に向かう途中だろうか、荷物を抱えている。
(ようやくコミュニケーションもできるようになってきたし、そろそろ何か仕事を手伝おうかな。ニビル人は恩知らずなんて思われたくないし)
エンキは思ったら吉日とばかりに、集落の人に話しかける。
「何をしているんだい? もし仕事なら俺も手伝ってもいいかな?」
集落の人は急に話しかけられて戸惑っている。
(なんか、みんなやたらかしこまるんだよな。もっと気軽に接してくれていいのに)
「【私】、【あなた】、【手伝う】」
エンキは通じそうな単語を選び、誤解されないように荷物を担ぐ仕草をする。すると集落の人とエンキについてきた女性は慌てだした。
「【エンキ】、【やめて】。【私】、【怒られる】」
「えっ、そうなの? 客人を働かせるのはいけないのかな? 【わかった】、【私】、【やめる】」
集落の人にとってエンキを働かせることはいけないことらしい。彼らが青い顔になって止めている様から、エンキはその必死さにひきつつも彼らの意思に従う。
エンキが手伝いの申し出を取り消したことでようやく彼らは安堵したようだ。
(そりゃマナー的にNGなのかもしれないけど、一方的に世話になりっぱなしなのは居心地が悪いんだがなあ)
毎日豪華な食事を賄ってもらっている以上、たった一人とはいえ食い扶持が増える分、相当な負担になるはずだ。自分が何もしないまま過ごすなど釣り合いが取れない。下手をすればごく潰しと切り捨てられないかと心配である。
それに今はまだティアマト語を覚える作業があるが、それが落ち着けば手持無沙汰になってしまう。暇つぶしをしようにも小さな集落であるため娯楽施設も存在せず、テレビやゲームといったものもないので、できることは少ない。
このままじゃだめだ。どうにかして働かなければならない。職を失った社会人のような気分でエンキは考える。
(集落の外に出てみるか?)
集落で働き口がないのなら集落の外へ目を向けてみる。
おそらく人が住んでいる場所はこの集落だけではない。他の集落や町、国家が存在してもおかしくないはずだ。
人が集まれば人手が必要になる。エンキの働く場所も存外簡単に見つかるのではないか。
そう思い、他の集落や町の場所を傍にいる控える女性に尋ねてみた。
「えーと町の単語はわからないから……、【集落】、【外】、【他】、【大きい】、【集落】、【ある】?」
女性は妙におどおどとした面持ちで返答した。
「【ある】。【他】、【集落】、【遠い】。【今日】、【行く】、【ダメ】!」
「ダメ? 他の集落は遠いから時間かかりすぎるから、危ないって言っているのかなあ?」
彼女らにとって遠くだとしても、作業艇があるエンキにとって大した距離にならない。しかしエンキもただの思い付きだったので、彼女に強い口調で否定されるとそれ以上彼女から話を聞くことはできなかった。
家に戻って仕事のことを長老に相談する。しかし夜中まで相談してもなかなか理解してもらえず、いい返事はもらえなかった。
結局その日は諦めて、翌日もう一度長老と相談しようと部屋に戻った。
集落には電気がない。夜になれば月明かりがないと真っ暗だ。
静寂の中、一人きりでベッドに寝転がるとにぎやかな昼間では考えることはなかった、あまり考えたくなかったことが頭に思い浮かぶ。エンキは急にしんみりした気分になった。
事故にあってまだ三日。そのあとティアマト人との遭遇でうやむやにはなっているが、救助が到着するまでの間、ティアマトに滞在しなければならない。
故郷であるニビルにいる家族はどうしているだろう。ティアマトにたどり着くまでもう一年経過している。
もし救助が来なければ、自分は一生ティアマトで暮らさなければならないのか。
望郷の念と孤独を感じ感傷にふけってしまう。
コンコン――。
静寂をノックの音がかき消した。
(こんな夜更けに誰だろう?)
感傷を切り捨て、姿勢を変えてベッドの上に座ると、エンキの視線は扉に向いた。
暗闇の中なので正体を判別するのに時間はかかったが、入ってきたのは見覚えのある身の回りの世話をしていた女性の一人だ。集落の女性の中では特にきれいな印象を受けていた。
えっ、とエンキの思考が止まる。
彼女の服装はいつもと比べて薄着だ。それがティアマトでの一般的な寝間着なのかはわからないが、若い男性の目の前で見せるような姿ではない。
若い女性のなまめかしい肢体が暗闇の中で浮かび上がっているのだ。
「【エンキ】」
「ひゃい」
なんだよ、ひゃいって。エンキはあまりにも初々しい自分の声に思わず心の中でツッコミを入れた。
このようなシチュエーションでエンキに心の余裕がないのは当然の結果だ。エンキは女性経験が皆無である。
だが頭の中で警報が鳴っているエンキを尻目に、事態は大きく進展していく。
女性はゆっくりとエンキに迫ってくる。それはもう、エンキが座っているベッドのすぐそばに。彼女の熱っぽい吐息がエンキの頬をかすめた。
「【お願い】、【一緒】、【寝る】」
「【一緒】、【寝る】!? これってそういう意味だよね!? 翻訳の誤訳じゃないよね!?」
真夜中に男性の部屋に訪れ迫ってくる扇動的な女性。これが何を意味するのかわからないほどエンキは初心ではない。だが彼女が自分のところへ訪れたのか、それが理解できなかった。
(彼女とフラグなんて建てたか? そんな馬鹿な。そりゃ、身近にいた女性ではあるけれども)
記憶を探っても、彼女から惚れられるような要素など皆目見当がつかない。
ティアマトに来訪して三日。たったそれだけの時間で恋愛感情を抱くなど、ひとめぼれされたようなものだ。それほどティアマト人の美醜で見ると自分は彼女にとってとても魅力的に見えるものなのだろうか。
エンキとて男である。きれいな女性に迫られるのは嫌いではない。
(くそう、惜しい。惜しいな。表面上妙齢な女性なのに手が出せないなんて)
しかし魅力的な女性ではあるが、エンキにとって、いやニビル人とティアマト人にとって決定的な問題があった。
それは、ニビル人とティアマト人の寿命の差である。
ティアマト人の寿命は五十年ぐらいである。だがニビル人の寿命は十万年であり文字通り桁が違う。これほど差が出たのはニビル人が延命調整という技術によって大幅に寿命が引き上げられた結果でもある。
寿命にそれだけの差があるのだから、成人年齢にもティアマト人とニビル人で大きな差が生じるのだ。
ティアマト人の成人年齢は十五歳。対するニビル人は百歳。
つまるところティアマト人の成人年齢では、ニビル人だと子ども扱いでしかない。老人にしか見えない長老ですら五十を過ぎた年齢だ。
(そりゃ肉体年齢で考えれば、彼女もニビル人の成人年齢は超えているかもしれないけどさ。実年齢をマスコミが面白おかしく書き立てるだろうな。そうなったら、俺の社会的地位は地の底だよ)
いつの世もマスコミは大衆の好むニュースを求めている。十五歳の少女に成人男性が手を出したなんて格好の的だ。真相は小さく書かれ、重要な部分を伏せた見出しだけが先行して拡散される。そして、幼女愛好者のそしりを受けるのだ。
そんなレッテルを張られてしまってはそれこそニビルに戻ることなんてできない。
それに偶然ではあるが、エンキはニビル人の中で初めてティアマト人と接触した人物である。言い換えればニビル人の代表としてこの地にいるようなものだ。一挙手一投足が注目されてしまう。ニビル人の代表が醜態をさらすなんて真似はできなかった。
「【私】、【あなた】、【一緒】、【寝ない】。【一人】、【寝る】」
エンキは欲望を胸に押し込んで、誘いを断った。
エンキの言葉を理解できたのか、不安そうな表情のまま女性は部屋を出ていく。
一人部屋に残されたエンキは、ぼそっとつぶやいた。
「やっぱ、惜しいことしたかな」
翌日、頭の冷えたエンキは昨晩の件を冷静に考えていた。
なぜ女性が自分に迫ってきたのか。疑問はそれだけではない。それに長老の家は集落の中では大きいが、夜中に騒いだにもかかわらず、家人が誰も反応していない。
エンキに小間使いの女性をつけたのは長老だ。
ひょっとすると昨晩の件も長老が命じたことではないのだろうか。
そう思ったエンキは長老に問いただした。
「【長老】。【昨日】、【夜】、【女】、【来た】。【なぜ】?」
長老はすでに女性から話を聞いていたのか、真っ青になって土下座した。
おや、とエンキは疑問に思う。
長老が行っているのは状況から考えて謝罪の意味での土下座だ。どうやらティアマトでもニビルと同様の意味があるようだ。
では、最初に出会ったときに土下座されたのは謝罪を意味していたのだろうか。それとも別の意味があるのか。
長老はエンキに理由を語りだした。
「【すまない】。【エンキ】、【集落】、【出る】、【聞いた】。【エンキ】、【いない】、【困る】」
「つまり彼女の夜の誘いは俺を引き留めるためだったのか? ……そりゃ一目惚れされるわけないか。だよな。だよね。うん、わかってた。でも、いないと困るって何でだ? 【私】、【いない】、【困る】、【なぜ】?」
「【エンキ】、【頼み】、【ある】」
「俺に頼みたいことがあるのか?」
頼み事があるのならば、エンキとて長老に協力するのはやぶさかではない。
「【宇宙人】、【力】、【欲しい】」
「……宇宙人の力が欲しい? 意味が分からんぞ」
長老は宇宙人に何らかの力があるように思っているようだ。しかし、ニビル人に超能力とか特別な力はない。
「【宇宙人】、【頼む】、【お礼】、【必要】。【女性】、【お礼】」
「俺から力を借りるのにお礼として女性を差し出したってことか?」
女性の扱いに対してニビルの常識で考えれば、エンキとて思うことはあるが、ティアマトの文化の違いでもあるため、あえて糾弾はせず、ただ必要がないことだけ伝える。
「【女性】、【必要】、【ない】。【頼み】、【教える】」
「……『イム』、【欲しい】」
聞きなれない言葉が出た。『イム』とは何か。エンキは長老に尋ねる。
「『イム』、【教える】」
長老は困った表情を見せたが、家人に水を入れたコップを用意させた。それから空に指をさしてコップを高く掲げると、コップから水を落とす。
「空から水を落とす? ……いや、空から水が落ちる? もしかして『イム』は雨って意味か?」
もし『イム』が雨を意味する単語だとすると、さらに不可解な疑問が生まれる。
「なんで長老は宇宙人が雨を降らせることができると思っているんだ?」
ニビルには人工的に雨を降らせる人工降雨機がある。だが、これは惑星開発などに利用されるものだ。エンキのような惑星探査の任務で使用されるものではないので、当然エンキも持ち合わせてはいない。
したがってエンキが雨を降らせることは不可能だ。
しかしティアマト人はなぜか宇宙人が雨を降らせることができると確信している。これもニビルとティアマトの文化の違いによるものなのだろうか。
それとも――、ひょっとして自分は何か決定的な翻訳の間違いをしているのではないか。
『イム』が別の意味を指すとは考えにくい。となると誤っているのは別の単語だ。
「だいたい雨を降らせてほしいって、いくら宇宙人でも普通の人間にはできないじゃないか。それこそ――」
普通の人間は雨を降らせるなんて芸当はできない。
もしそれが可能であるならば、それはもう普通の人間とは呼べない。
それは自然現象をたやすく変えられるような超常的な力を持っている特殊な存在だ。
ニビルでは超常的な力、いわゆるオカルトという分野は科学技術の発達によって存在を否定されている。
それでもその概念は今もなお残っており、エンキも当然その存在を知っていた。
「そうか、間違っていたんだ。『アヌンナキ』は【宇宙人】を意味する言葉じゃない」
エンキはファーストコンタクトでその単語の意味を間違えた。それゆえに大きな誤解を生んでしまった。
もし『アヌンナキ』の意味がエンキの想像する通りのものであるのならば、これまでの集落の人たちの不可解な行動を説明できる。
丁重な態度をとるのも。
土下座ではなく、頭を垂れてひざまずくのも。
雨を降らせるような奇跡を起こせる存在だと思われることも。
『アヌンナキ』の意味、それは――。
「『神様』だったんだ」