【第一話】凶器もみつけることができないとはまだまだです
そろそろお昼ごはんが食べたくなる午前11時半頃、露月くんはマンションの下のコンビニで「鮭とレモンクリームの生パスタ」を買って、開きかけているエレベータに乗って自分の部屋へ戻ろうとした。エレベータは開きかけていたのだから先客がいるのは当たり前だが、先に乗り込もうとエレベータを待っていたのは同じ階の佐我子だった。佐我子さん。ご主人から佐我子と呼ばれていたため名前は知っている。同じ階の住人。それ以外は何も知らない。
まだあどけない面影の残るその女性は、露月くんとは異なりスーパーの買い物袋を持っていた。見える範囲で袋の中に入っていることが確認出来るのは、瓶に入ったクリームソース、缶詰の鮭、それから……スパゲッティ。いやはや、奇遇である。
スパゲッティを食べ終わっておなかもいっぱいの露月くんが、いつものようにネット人狼で遊ぼうとパソコンを開いていると、
「ガチャン」
と、ガラスの割れたような大きな音が聞こえて来た。
続いて「ドスン」という音も遠くで聞こえたが、気にせずにネットの向こうに一緒に遊ぶ人が集まるのを待っていると、先ほどの音が鳴ってから10分程度経った頃、突如、
「きゃーーーーああーーーーー誰か来てーーーーー!!!!!」
というかん高い叫び声と、続いて誰かが外に駆け出して来る音。
「誰かーーー!誰か来て!!!」
人狼に集中出来なくても困るので、参加人数残り2人の今にも始まりそうなゲームを横目にとりあえず外に出てみると、先ほどの声を聞きつけたのか、隣の部屋のこれまた名前も知らない女子大生が既に外に出てきており、佐我子と一緒に何やら喚いていた。
せっかく呼ばれて外に出てきたので、露月くんもとりあえず、とりあえず声をかけてみる。
「おはよー」
「……おはよー…………じゃありませんよ!!!!」
女子大生の方が怒鳴る。
「佐我子さんのご主人が突然入って来た男に頭を殴られたらしいんです。露月さんは警察を呼んでください!!!!」
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「瓶手警察の辰田だ。佐我子さんのご主人だが、既に亡くなられていた。いやなんだ、警察が来たんだ、心配することは何もないぞ。ちょっと話を聞きたいだけだ。露月さんだったかね、宜しくお願いしますね。」
「よろしくー」
正直辰田はずいぶん軽い挨拶に面食らってしまったが、近頃は訳のわからないヤツが増えたもので、いちいち気にしていては身が持たない。
「そっちのお嬢さんはお名前をまだ名乗って貰ってなかったね。」
「山吹 黄金です。よろしくお願いします。」
女子大生の方は至って礼儀が正しい。話はこっちのまともそうな方から聞くことにしよう。
「えー、死亡推定時刻は12時15分頃。死んでいた場所は601号室のリビング。601号室はこの廊下の端にある部屋だ。死因は後頭部強打による撲殺。殺人だ。亡くなられた大井さんだが……」
「大井氏が殺されたと思っているとはまだまだですね」
「……露月さん、俺はまだまだ喋っとるのに途中で割って入るんじゃないぞ?殺される現場をそこの佐我子さんが見ているんだ。佐我子さん、こちらにいる皆さんへももう一度お話をお願いします。」
「……わたし、昼寝をしていました。『ガシャーン』という音がして、目が覚めて。夫が何か割ったのだろうくらいにしか思っていなかったんですが、しばらくすると男がリビングのベランダの窓から出て行くのが見えて……」
「あれは『ガシャーーーーン』ではありません 『ガチャン』でした」
「犯人がどんな顔だったか覚えとりますか。」
「いいえ。わたし、気が動転していて……」
「体格や服装でも良いんですが。」
「……」
そこへまた先ほどの男が余計な口を挟む。
「体格も覚えていないのにはっきり男性だと言い切れるとは さすがです」
相手は夫が亡くなったばかりだというのに本当にロクなことを言わん男だ。しかし、露月の言ったことに一理あるのも確かである。相手は男に変装した女の可能性もおおいにある。
「山吹さん?」
「はぃい?!」
おお?何やら動転しているようだ。どうにも怪しい。
「先ほど山吹さんは、露月さんに警察を呼ぶようお願いしたと仰っていましたが、救急車ではなく警察を呼ぼうと思われた理由をお伺いしても?」
「え?!え〜と……そんなのなんとなくで……あ、わたしたち部屋には入っていないので、殴られたって言ってもどのくらいのケガかわからないですし、怪しい男をとり押さえる方が先かなと思って……本当にたいした理由はありません……」
うん、この女は要注意だ。と、その時、鑑識の織出がやってきて何か話したげに視界に入る位置に立った。話を促すため織出の方へ体を向けると、織出が鑑識結果の状況を報告し始めた。
「部屋の中で撲殺の凶器に使えそうな可能性のある物は全部調べたが、何からもルミノール反応は検出されなかった。マンションの管理人に頼んで廊下のカメラを見せて貰ったが、佐我子が帰宅したのが11時半頃で、大井氏が帰宅したのは12時頃。その後、山吹が出て来てドアを叩くまで佐我子は部屋の外に出ていない。佐我子が凶器を捨てることが可能なのはベランダの窓からのみだが、ベランダの窓から投げて届くような範囲には人を撲殺出来る物は落ちていなかった。」
辰田はうなずきながら露月くんの方をチラリと見る。
おや?姿が見えない。野次馬に飽きて挨拶もなしに部屋に戻りやがったか。
織出がなおも続ける。
「マンションの壁面には登って6階まで上がってこれそうな突起物はなかった。佐我子が凶器を捨てに行けたとして6階まで上がって来るには玄関から入って来なければならない。したがって佐我子は嘘はついておらず、確かに佐我子の目撃した男が凶器を持って逃走したものと思われる。ベランダの窓は開いていた。鍵の周りの窓ガラスが割られていて、ここから手を入れて解錠し、侵入したと見て間違いない。あと、ベランダの窓の下はマンションの駐車場になっていて、先ほどこの駐車場で男が倒れているのが発見された。」
「なんだ。それを早く言えよ。じゃあとっととその男を取っ捕まえて捜査はお開きにするか。」
夫を殺した犯人かもしれない人間に会いに行くのだ。佐我子にはパトカーの中ででも待っていて貰うとするか。
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黄金はというと、みんなが目を離した隙に露月くんが勝手に殺人現場の601号室へ入って行くところがしっかりと目に入っており、露月くんが何をしているのか気になってそわそわしていた。
お隣さんが露月くんという名前の人であることは知ってはいたが、はっきり言ってこんなに変わった人だとは思っていなかった。今までもすれ違いざまに「おはようございます」と言うと返しが「おはよー」だったりするし、見た目によらずちょっと変わった人だなとは思ってはいたのだが。
ほうっておけば良かったのだが、露月くんが何をするのか気になってしまった黄金は、(監視監視!)の心の名目の元に、なんとなく露月くんを追って事件現場に入り込んでしまった。
入ると玄関スペースから右にお風呂場、左にお手洗い、前方右のドアからリビングへ、と言ってもリビングダイニングキッチン兼用のリビング、前方左のドアから寝室へ行けるようになっていた。黄金の部屋と同じような構造なら、寝室とリビングダイニングはベランダで繋がっていると思う。水回りはお手洗いだけ離れているようだ。
マンションと言っても学生の黄金や独り者の露月くんが住んでいるような、お一人様向けの、アパートと呼んでも差し支えないマンション。
寝室にはさっきの人以外の鑑識さん達がいたし、リビングダイニングのドアのガラス窓越しに露月くんが見えたので、そこに留まっているのも誰かにみつかりそうで怖かった黄金はリビングダイニングの方へ勢いよく飛び込んだ。
入ってドアを閉めかけたその瞬間、
「ちょっと!」
ヒヤリとして前へ振り向くと、声の主は露月くんだった。
「ゲソ痕が残るじゃないですか 常識で考えて足にカバーくらいつけてきて下さいよ」
「ゲゲ、ゲソ痕??」
「足カバーは玄関にありますから 税金で買ってるんですから1枚くらい記念に貰ってもバチはあたりませんよ」
なんだかよくわからないが、確かに現場に足跡が残るのはマズい。犯人は男の人だからわたしが疑われるわけはないだろうが、それでもマズい。そもそも血溜まりとかガラス片とかを踏みたくなくて思わず土足で上がってしまったのだ、みんなもてっきり土足かと思っていた。しかし、よく考えると人の家でもある。
足にカバーを付け、今度こそ中へ入ると床の小さな血溜まりが目に入ってしまった。わかってはいたのだ、わかってはいたのだが、見て気持ちのいいものではない。しかし、思っていたよりは小さな血溜まりだ。撲殺死体というのはあんまり血が出ないものなのかもしれない。はやばやと検死にまわされたのか、死体はもうない。床には人が倒れていた後のチョークの線しか残っていなかった。
窓ガラスが割れて外の空気が入って来るためか、血の臭いは少ししかしなかった。床に散らばる少量のガラスの破片が目に入る。ベランダとリビングダイニングを仕切る窓ガラスのクレセント錠のまわりが割れてギザギザになっている。ここから手を入れて錠を回したのだろう。
「なんでゲソ…なんとかいう専門用語みたいなの知ってたんですか?」
「推理小説で出てくるので」
会話が続かない。もう出てしまおうか。露月くんはいったいここで何をしているのだろう?
テレビの下にはDVDが並んでいる。黄金の愛するジャニーズタレントの出ているオフィス恋愛ものドラマのタイトルが目に入る。DVDのケースでは人を殴れないかな?殴っても死なないだろうな。
キッチンには新品のパスタの箱が封を切られずに並んでいて、洗い立てのまな板と包丁、大量にお皿に盛られた茹で上がった手作りっぽい厚さまちまちのパスタ(茹で上がっているが冷めている)。手作りパスタを作ったから買ってきたパスタがいらなくなったのか。
コンロの上にはアルミの片手鍋に入ったパスタソース……オレンジの魚……サーモン……?野菜が入っていないようなので野菜がほしいところだ。
コンロの隣には冷凍庫付きの冷蔵庫が収まっており、二人用にしては充分な大きさだ。
シンクとコンロの上には備え付け食器棚。開いていたが、コップやお皿などの食器の他、蓋のついたお鍋(お鍋のふちから鍋掴みが覗いている)くらいしか見当たらない。
キッチンとリビングダイニングの境目にはクローゼットがはめ込まれており、中にはトイレットロールやティッシュボックスの買い置きがストックされているようだった。
テレビの前にはソファーとローテーブルが置いてあり、他にテーブルがないので恐らくここで食事も取っているのだろう。今はテーブルの上にはケーブルに繋がれていないノートパソコンとマウスが転がっていた。
一通り観察し終わった気がしたので、黄金は露月に、何かわかったか聞いてみようとした。
「露月さん、何か面白いものみつかりました~~??」
……返事がない。
「露月さん、どこにいるんですか〜〜?!」
……返事があった。
「あなたの方こそ、どこにいるんですか?」
「あっ、露月さ……」
先ほど隣の部屋にいた鑑識の人が戻ってきていた。
「あなた、自分がどこにいるかわかってるんですか?」
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辰田の目の前で取り抑えられている……が、取り抑えなくとも到底ここから動けそうにないその男は、瓶手マンションの2階に住む椋江 詩文という男らしかった。
「それではおまえが駐車場に落ちた時刻は12時10分頃で間違いないということだな。」
辰田が嬉々として椋江を追いつめる。
「お前が駐車場に落ちた後、誰か駐車場を通った者はいたか?」
「イテ……いえ……いなかったから今もここで……イテテ……こうして…………うぇぇぇぇえ〜!そんなことよりも救急車!!救急車を呼んでください!!」
椋江の剥き出しになった足首はパンパンに腫れている。骨が折れているのかもしれない。
「救急車ならもうすぐ来る。ただし、おまえが救急車に乗って行くのは普通の病院じゃなく医療刑務所だがな!」
「だから言ってるじゃないですか!私はベランダで布団を干そうとしていただけです!……イテテ。布団が向こう側へ落ちそうになったから身を乗り出して布団をつかんだら勢いあまって落ちてしまっただけなんですよ!ベランダで布団を干すのが何か悪いことなんですか!」
織出がすかさず口を挟む。
「ベランダに布団を干したら景観を損ねる。スイスでは窓辺に花以外の物を置くと条例違反で罰則を食らうらしいぞ。」
それはさすがに極論だ。布団乾燥機のない一般のご家庭はどうしろというのだ。この男の家には布団乾燥機があるのだろうか。いや、そもそも自分で布団を干したことがあるのか?
「それよりどうして手袋をつけていたんだ、やっぱり指紋の隠蔽か。」
「椋江 詩文だけにな。」
「……?!イテテテテテテ……テ、手袋じゃなくってハーフフィンガーですよ!ロックでしょ〜?!」
「指先に穴のあいてる手袋で指紋もクソもないな。」
「手袋に金属がたくさんついてるじゃないか!布団たたきが凶器かと思っていたがこれで殴ったんだろう!」
「スタッズはハードな素材感で辛口に見せる言わばロックテイストの必須アイテムですよ!こんなもので人を殴ったりしませ……イテテテテテテテテテテ!!!」
話を無視して辰田が椋江から手袋……ハーフフィンガーとベランダ用サンダルをもぎ取る。
「織出、大井氏宅のベランダにこのサンダルと合致するゲソ痕がないか調べて貰えるか?俺は佐我子さんに目撃した男がこいつで間違いないか確認する。」
ちょうどいい。ちょうど別の鑑識がこっちに向かって歩いてきている。しかしなぜかギャーギャー喚く山吹 黄金が一緒にこちらに引っ張られて来ている。
「辰田さん、織出、ちょっとこの人が現場の部屋に勝手に入り込んでて。」
救急車じゃなくまず警察を呼んだ大井氏の隣の部屋に住む女か。うむ、やはり怪しい。
「おまえ、椋江の仲間か?証拠隠滅で現場に……」
「ち、違います、わわわたしは露月さんが601号室に入るのが見えたので……」
「嘘付け!現場にはおまえひとりだっただろうが!」
「まあいい、実行犯はすでに捕まえているんだ。椋江に山吹の関与についても喋らせよう。」
「わたしは関与なんかしてません!……って犯人捕まったんですか?!」
「そうだ。犯人は、そこで取り抑えられている……」
「それでは犯人を発表いたします」
あん?犯人を、発表?
一同が声のした方をふり向くと、そこにはさっき事件現場に黄金をほっぽりだして消えてしまった露月くんがフツーに立っていた。
「またおまえか。犯人の発表を盛り上げようとしてくれているところスマンが、特に意外性のある発表はない。犯人は、そこで取り抑えられている……」
「やれやれ まだそんなことをいっていましたか」
二度も同じセリフを遮られた。もう俺も怒っちゃうぞ?
「大井氏の帰宅した12時より後に玄関側から部屋に侵入した者はいない、監視カメラに記録が残っとるんだ。部屋の中にあった人を殴れそうな物には片っぱしからルミノールをかけたがルミノール反応は出なかった。ベランダの窓から届く範囲にも人を殴れそうな物は落ちとらんかった。つまり、大井氏を殺害した人間はベランダから凶器を持って逃げたということになる。」
今度こそセリフを遮られないよう、辰田は一気に喋って息をついた。
「では 犯人は凶器を捨ててから自分の部屋へ戻ったかもしれません」
「おまえは織出の話している最中にどこぞへ消えたから話を聞いていなかったんだろうが、マンションの壁面には6階まで登ってこれそうな突起物はなかった。」
「なるほど 壁に登る場所がないということは 椋江さんが壁を登って6階まで上がって来ることも不可能でしたね」
なんだと、本当だ。しかし椋江は、椋江が駐車場へ落ちた後に駐車場へ来た者はいないと証言していた。あまり広い駐車場ではなく、誰かくれば椋江が見落とすとは思えない。また、マンションの真下は駐車場となっており、ベランダから降りて来て別の場所にたどり着くというのは至難の業である。
「じゃあ凶器はどこへ行ったんだ。」
「まだ凶器もみつけられていないとは みなさんまだまだですね」
この男はどこで口の利き方を習ったんだ。
「おいてあったじゃないですか 事件現場に」
さて、事件現場となったリビングダイニングに何か人を殴るような物はあっただろうか。
「言っとくが、鍋の外側からはルミノール反応は検出されなかったぞ。しまってあった鍋からもコンロにかかっていた鍋からもだ。」
「冷凍庫があったよね?」
黄金は思い出す。
「冷凍庫で棒状の氷を作って撲殺したとか?」
「推理小説の読み過ぎですね」
いや、推理小説読んでるって言い出したのはおまえだろ?と、黄金は思ったが口には出さない。
「棒状の氷を滑らずに持つには氷のまわりに紙か何かを巻く必要が出て来てしまいます
ゴミ箱から濡れた紙が出て来たときのうまい言い訳を思いつける趣味のある方は別ですがね もしくは犯人の方が私レベルであればそのくらいの問題はやすやすと解決できてしまいますが」
おまえレベルってどんなレベルやねん。
「また 棒状の氷を作るためには型が必要ですが そういった類いのものは事件現場には見当たりませんでした」
「確かコップやお鍋が棚にしまってあったんじゃ?」
「その犯行は よくお水の入ったお鍋が冷凍庫に入っている山吹さんのご家族では 恐らく可能になります」
ちょっと思いつきで言ってみただけなのに謎のコテンパンである。
「それにコップでは短過ぎて自分の手や持ち手にする紙へも血がついてしまう可能性はありますし お鍋で作った氷には持ち手がないのでお鍋に氷を張った状態のまま使用する必要があります 使用時にお鍋へも血液が付着するリスクが非常に高いと考えられます」
氷でなければもう他に凶器になりそうなものは思いつかないな。と、そこへ辰田が口を挟む。
「じゃあパスタ用のクリームソースの入った瓶で叩いたんじゃないか?瓶を割ってガラス片を割れた窓ガラスの破片に混ぜてしまえば……」
「クリームソースが瓶に入っているところを目撃したのは私だけと思っていましたが
それを辰田さんが知っているとはなかなかですね」
ん?ほうっといてくれ!
「しかし 割れて床に散らばっていたガラスの破片はわりと少量でした
パスタのソースが入っていた瓶を割って混ぜても 分厚さが違ったりしてすぐに気づかれてしまうでしょう」
じゃあなんだっていうんだ。自分の思いつきをド素人にやすやすと否定された辰田はだんだんとイライラしてきてしまった。
「いつまでおまえの話を聞いとらにゃならんのだ?」
いらだつ辰田を見て、露月くんはほんのり満足そうな表情になった気がした。
「仕方ありませんね そんなに言うならこの事件の凶器を教えてあげないこともありません」
「パスタです」
いつからこの事件の被害者は毒殺されたことになったんだ。
「パスタで首でも絞めたのか?」
「被害者の死因は後頭部強打による撲殺です」
よしよし、そのくらいはわかっとったか。
「正確には 今はパスタの形をしている 小麦粉の固まりです
6階のリビングダイニングにあったパスタは 撲殺に使用した凶器を茹でて柔らかくし パスタ状に切ったものなのです」
露月くんはなおもドヤ顔で続ける。
「まず あのリビングダイニングではあのパスタはとても不自然な存在でした
クリームソースは出来合いの瓶詰のもの 鮭も捌いて調理されたものではなく 缶詰のものでした
それにもかかわらず 麺だけが手作りのものでした
パスタについても出来合いのものが購入されていたにも関わらずです
また 包丁とまな板が洗い立てであったことにも違和感を感じます
思い出してください クリームソースには野菜も入っておらず 具は鮭の缶詰です
包丁を使う必要のあるものはありませんでした
さらにさらに、私のようなプロを目指すのであればパスタがすでに茹で上がっているということについても疑問を持つべきでしょう
冷めてしまうかもしれないパスタを お皿に盛りつけ
ソースもコンロにかかっている
食べる用意がほぼ完ぺきに出来ている ということです
ここまで食べる用意が出来ていたにもかかわらず
大井氏が佐我子さんを起こしもせずに 佐我子さんが寝ていたということがありえるのでしょうか
極めつけはこれです
佐我子さんが眠っていたとの証言が事実であれば
手作りパスタを作ったのは大井氏ご本人ということになります
大井氏が帰宅したのが12時頃、死亡推定時刻が12時15分頃、手作りパスタを用意するには15分は短すぎるでしょう
先に下ごしらえをしていたのであれば
佐我子さんが乾燥パスタを買ったのが不自然になってしまいますしね
また、大井氏が普段料理をしない人間であればお鍋からは佐我子さんの指紋しか検出されない可能性もあるでしょう
頭部には太い動脈は通っておらず、撲殺では返り血を浴びない
撲殺は凶器や衣服等、殺人に使用した器具を処分することができない人にピッタリの殺害方法なのですよ
ちなみに先ほど辰田さんが外側からはルミノール反応が検出されなかったと言っていたお鍋ですが
内側からはルミノール反応が検出されるはずです」
黄金はやっとの思いで聞いた。
「何のプロなんですか?」
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辰田と織出は、お鍋からルミノール反応が検出されることを確認すると、すぐに佐我子が待機しているパトカーへ向かった。
ふと、佐我子がパトカーの中にいないことに気づき、辰田がたずねる。
「大井 佐我子は?」
車の中の別の刑事が返す。
「佐我子さんなら先ほどまだ昼食を召し上がられていないと言って昼食に出かけましたよ。もうとっくに戻ってきてもいい時間なんですけどね。」
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黄金は実家から離れた大学に通うために一人暮らしをしている。ここには友人はいないし、学校から帰ってくれば話す相手もおらず、ジャニーズとハロプロに明け暮れる毎日である。
でも、今日からは、家に帰ってくるのもちょっぴり楽しくなるような気がした。
エレベータに乗って6階への移動中、黄金が露月くんに話しかける。
「露月さん、今話しかけてもいいですか?」
「残念ながら」
え?あんな事件の後だし、普通は積もるほど話すことあるよね?
「私はシャ イなのであまりお喋りはできません」
「は?」
「お疲れ様でした」
6階につくと、そう言って露月くんはそそくさと帰って行った。