最初の笑顔、最後の別離
初めて貴方に出逢った時の事を、今でも覚えているわ。
突然父に呼び出された応接室で、かっちりとした黒い軍服を着た貴方は笑顔一つ見せずに、唇を固く引き結んだままで。
婚約者だと紹介されてからも、何故か父を中心としか会話をしなくて、私と直接交わした会話は二つ三つ程度の単語でしかなかったわね。
尤も、父の紹介なのだから私に対して特別な思い入れはないのだろうと推測できたし、自由恋愛も増えた昨今とは言え結婚とはこう云う物なのだと思っていたわ。
でもそれから何度かデェトを重ねて解った事は、貴方は表情こそ変わらないけれど、決して私に対して無関心と云う訳では無い事。
二度目に逢った時に綺麗な織物の帯、三度目には黒漆の下駄を戴いて、驚いてこんな頻繁に物を戴けないと云ったら、次に逢った時には季節の小さな花になってて。
それからあの時まで、私の部屋の窓際が淋しくなる事は無くなったの。
こうして小さな、だけど確かな時間を重ねていって、やがて“夫婦”になって行くのだろうかと考えて、それはなんて幸せな事なのだろうと嬉しくなったわ。
ーーでも、現実は容赦なく、人を襲うものだと知った。
清んだ青が広がっていた、春のよく晴れた日の事。
それが、貴方との別れの日だった。
徴兵によって外ツ国に往く事も、それに伴って婚約を解消させて欲しいと申し出ていた事も、私が知ったのは凡てが決まっていた後の事で。
明日には貴方は出立してしまう、と言う日だったの。
居ても立ってもいられず、はしたないと思う間もなくスカァトと翻して道を駆けて貴方の邸へ。
門を抜けた庭先に貴方はいて。
息を切らした私を見て一瞬驚いた顔をした貴方は、直ぐに理解したのか深々と腰を折った。
『失礼しました。…貴女を、振り回してしまう結果になってしまって』
『…申し訳ないとお思いでしたら、私の我儘を聞いてくださいませ』
『今から戦地に赴く、先をも知れない自分に叶えられる事でしたら』
『ーーその先を知れる時まで、私を貴方の婚約者でいさせてください』
そう告げると、貴方は今度こそ目を丸くした。
どうして貴方の違う表情を初めて見れたのが、こんな時なんだろうって、酷く哀しかったわ。
『…随分な我儘を申しますね』
『はい』
頷く私に、貴方は諦めたように一つ息を吐いて、それから懐から何かを取り出した。
『?』
『本当は、これを貴女に渡すつもりは無かったのですが。…これから先、幸せになるだろう貴女を、縛り付ける様な事をしたくなかったので』
美しい朱色の府草に包まれたそれを受け取り、そっと開くと中にあったのは、丁寧な細工の施された可愛らしい花飾りの簪だった。
『これから先、自分は貴女に花を渡す事は出来ないと思ったので、最後にこれを贈ろうと。貴女は、余り高価な物は喜ばなかったですが、自分の様な唐変木にはあの様な方法しか思い付きませんでした。…自分が貴女の許に戻る目印に、これを持っていて頂けますか』
そう云われた時の私の表情はどんなものだったのか、今でも解らないの。
でも貴方の表情は良く覚えているわ。
春の空に良く似た、柔らかい笑顔。
余りにも似ていたから、まるで、貴方がそのまま空に溶けてしまうのではないかと思ったのよ。
それが苦しくて、哀しくて、自然と涙が零れてきて。
喉を詰まらせながら何度も頷いた私に、貴方は『良かった』と応えて、そして私の手を握った。
ゴツゴツしていて硬い、貴方の手の感触を、私はあの日初めて知ったの。
『その簪を差した貴女を見る事を、自分が戻る理由に致します』
そうして貴方の手は離れて。
『ーーでは、行って参ります』
それが、最後の言葉だったわ。
貴方はそのまま私の脇を抜けて、明日の出立の為に軍の宿舎へと向かっていった。
残された私は、手の中の簪に視線を落とした。
止まらない涙を拭う事も出来ず、私は強く簪を握り締めたの。
貴方の為に流す涙は、これが最後であるように、なんて願わない。
ーーでも。
貴方に再び逢えた時に流すだろう涙を、貴方の為の最後の涙にさせて。
『…愛しています』
伝えられなかった言葉を、どうか貴方に伝えられる日が来ることを。




