さくらさけ
「懐かしいな……」
数年前と変わらない光景で出迎えてくれた故郷に、私は思わずそう呟いた。
小高い丘へ続く、桜並木ぐらいしか自慢のない、静かな町。
私はここに、沢山のものを置いてきた。
親を、兄弟を、そして恋人を。
私が最後に見た故郷の風景は真っ白な雪景色だったけれど、今のこの町は新緑に彩られている。
桜の季節が終わって、夏へと移りゆく景色だ。
「柳也……帰ってきたよ、私」
駅舎から出た私は、彼の実家がある方角に向けて笑顔を見せる。
彼が大好きだと言ってくれた笑顔。上京してからは辛いことの連続で、しばらく笑い方を忘れてしまっていた。
「桜……?」
「え?」
振り返ると、そこには白衣を着た男の人がいた。
少しやつれたみたいだけど、すぐに彼だとわかった。
彼の目は驚き、戸惑っている。きっと、私も同じ顔をしているに違いない。
「お帰り、桜」
「う、うん……」
笑顔で挨拶をするって、決めていたのに。
予期せぬ再会に、私はそんな曖昧な台詞しか出てこなかった。
「いつ帰ってきたんだ?」
「ついさっき」
「ずっとこっちに?」
「……ううん。しばらくしたら、戻るから」
「そっか……成功しているんだな」
「……」
野道を並んで歩きながら、そんな他愛の無い話をする。
だけど一方的に彼が喋っていて、私はそっけない返事しか返せていなかった。
話したいこと、聞きたいことも沢山あったはずなのに。
突然の再会が、いまだに尾を引いているのか。
それとも――後ろめたさが、私の口数を少なくしているのか。
思い出すのは、雪の積もった枯れ木の風景。
私は自分の夢の為に、彼を捨てた。
柳也の家はこの町で唯一の診療所で、あの時すでに彼も跡継ぎに決まっていた。
彼の人生まで犠牲にできない。
そう思った私は彼をあの桜の木の根元に呼び出して、東京へ行く決意を話した。
(確か……あそこで柳也と初めて会ったんだよね)
幹の根元に座って本を読んでいた私の反対側に、不良っぽい男がごろりと寝転がっていた。それが、彼との出会いだった。
そんな出会いを何度か重ねるうちに、私は彼と話をするようになり、そのうちに気が合い、付き合うようになった。
「ふぅ……」
告白をされたのも、あの桜の木だ。
あの頃は、まさかこんな風になるなんて思いもしていなかった。
ただ毎日が輝いていて、何もかもが喜びに満ちていた。
「あ……れ?」
ふと気がつくと、隣を歩いていたはずの柳也がいなくなっていた。
辺りを見回し、小高い丘へと続く並木道で、その姿を見つける。
「あ……」
「桜、こっち」
そういいながら手を振る。
「けど、そっちは……」
何も無い。春ならば桜の狂い咲く美しい景色が見れるだろうが、この時期は特に見るものが無い。それに何より――その道の先にある丘の頂上で、私達は出会い、別れたのだ。
その場所に自分から進んでいけるほど、心の準備は出来ていない。
「桜?」
「ごめん、柳也。私、そっちは……」
「ちょっとぐらい、いいだろ? 話、したいんだ」
「……うん」
寂しそうに微笑む彼に、私はつい頷いてしまった。
丘のてっぺんは、この町の全てを見渡せる開けた場所だ。
大きな桜の木が一本、新緑を飾っている。
何も変わっていない。この場所も、町も、全部昔のままだ。
「よっ、と……」
懐かしい景色を眺めていると、木をはさんだ向かい側に柳也は座り込んだ。
(あ……)
そこは、初めて会ったとき、彼が昼寝をしていた場所だ。
私も無言で、昔と同じように木の幹に背中を預けた。
空を仰ぐ。暖かいというよりも蒸し暑くなってきた日差しが、木漏れ日となって私の身体に降り注いでいる。
頬を撫でる涼風が心地良い。
「なぁ、桜……」
樹を挟んだ背中合わせのまま、柳也が呟くように声をかけてくる。
「俺は、さ。お前みたいに夢があるわけでもなくて、ただなんとなく親の後継いで、この町からほとんど出ることもなく、一生を終わらせていく……ずっとそんな風に思っていた」
「うん……」
「そんな俺だから、東京に行くんだって言うお前を止めることも、一緒に行くって言う事もできなかった。……悪かったって、思ってる」
「柳也が……謝ることじゃないよ」
心の底では、引き止めてくれるんじゃないかと期待していた。
けれど彼は何も言わず、私の一方的な言葉を受け入れただけだった。
「正直に言うとな、お前が羨ましかったんだよ。夢がある。目標がある。そういう桜は、いつもイキイキしてたから」
「……」
「ずっと応援していた。桜の夢は、俺の夢だ……って、いなくなったあと、気がついた」
「……」
「夢は……叶ったんだよな?」
「……うん」
私は、噛み締めるように彼の言葉を飲み込み、小さく頷いた。
柳也はほとんど一方的に振った私を咎めもせず、こうして優しい言葉を掛けてくれる。
「……急ぎすぎたのかな、私」
「うん?」
「夢、追いかけるの」
もっともっと、ゆっくり、それでも確実に進もうとしていれば、こんなことにはならなかったかも知れない。柳也と別れずに済んだのかも知れない。
でも、もう何もかもが遅い。
「柳也は、診療所を継いだんだよね? ちゃんとやってる?」
「まぁ、な」
何やら困ったような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
「……うまくいってないの?」
「いや、そんなことはないよ。ただ……」
一瞬、何か言いよどんだように口ごもる。
けれど、すぐに顔を上げ、柳也は真っ直ぐ私を見つめてきた。
「もうすぐ、子供が産まれるんだ」
「え……」
「三年ぐらい前に結婚してて……ごめん、何も知らせず」
「そっ……か……」
自分でもわかるほど、声が落ち込んでいる。
……やだな。
柳也はずっと私を応援してくれていたのに。
私は、柳也に『おめでとう』も言えないなんて……。
「……やな女だよね、私」
「桜?」
「ね、柳也」
私はそっと目を閉じて、ここであった柳也との思い出を反芻する。
樹の幹に寄りかかって本を読んでいた私と、昼寝をしていた彼。
桜の木を挟んだ、背中合わせの告白。
雪景色の中、一方的に告げた別れの挨拶。
「幸せに、なってね」
子供が産まれることを祝福は出来ない。
柳也の幸せを願うのが、精一杯だった。
(ああ……)
また、一方的な挨拶をしちゃったな。
目の前が眩い光に包まれていく中で、私は最後にそんなことを思っていた。
* * *
「……桜?」
背中に喪失感が走り、柳也は思わず振り向く。
桜の木を挟んだ向かい側の場所に、彼女の姿は無かった。
ついさっきまで話をしていたはずなのに、一体どこへ行ってしまったのか。
「……?」
はらり、と。
桃色の花びらが、柳也の視界を横切った。
「桜の……花」
見上げると、先程までは確かに新緑に染まっていた桜の木が、いつの間にか、見事な桜の花を咲かせていた。
彼女が一番好きだった、彼女の名前をした花だ。
ふいにそんなことを思い出し、なぜだか、言いようの無い哀しみが沸き起こった。
* * *
冷たい風が吹いている。今年の冬を越していくつめの春を迎えただろうか。
それでも、この丘の桜は咲き続ける。狂い咲きの桜は、この町の新たな名所となっていた。
あちこちが観光用に開拓され、彼女と二人で過ごした日の面影は、もうほとんど残っていない。
「桜……」
あの日起こった事は、誰にも言っていない。
桜のことを調べる方法は沢山あった。けれど俺は何もしなかった。
本当のことがわかったところで、何がどうなるものでもないからだ。
だけど俺は毎年、彼女と再会し、もう一度別れたこの場所に、家族と一緒に来ている。
ヤキモチ焼きの彼女のことだから、もしどこかで見ていたら、きっと膨れっ面をしているに違いない。けれど、きっと、微笑んでくれてもいるだろう。
(幸せそうな顔して……)
ため息交じりのそんな台詞が、風に乗って聞こえてきたような気がした。